goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

一日一句(565)







華やかに天心散つて落葉なり






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

猿蓑:「鳶の羽も」の巻(25)


■旧暦10月25日、土曜日、、太平洋戦争開戦の日

(写真)ベンチ

昨日、夕方の地震で、また、本が崩れた。寝ているときに、地震があったら、頭と胸を直撃することがわかったので、本と雑誌の移動を計画している。

日本政治.comという面白いサイトがある。ここから>>> その中で、投票マッチングというコーナーがあって「投票マッチングでは、20の政策に関する質問に答えるだけで、科学的手法に基づき、あなたの考えに最も近い政党を判定します。結果の解説と見比べながら、あなたの支持政党選びの参考にしてください」と謳っている。政策本位で選択する場合、一つの参考にはなるだろう。決まっている方には、あまり必要がないが。

深夜、久しぶりに清水さんの詩集『芭蕉』を読み返した。不思議に気が楽になる。どの詩も好きだが、とりわけ、ぼくは「あとがき」を好んでいる。

あとがき

ある年齢を迎えると、家族がいようと、いまいと、人間はすさまじい孤独に陥るらしい。それを「素晴らしい孤独」とかんがえなおして詩を書いてきた。ようするに生き流れていく詩を書きたかったのである。     清水昶



うき人を枳穀垣よりくゞらせん   芭蕉

いまや別れの刀さしだす   去来


■去来の付けは女が別れの印に「腰の刀」を渡すというシーンで、源氏物語が、武家の男女の別れの場面に読み替えられている。この読み替えで、去来が、武士出身だったことを、思い出すのだが、ここまで、そういう気配はまったく感じさせない。

うっかりすると忘れてしまうが、芭蕉も去来も武士出身である。この点は、蕪村や一茶とは異なっている。面白いのは、歌仙を読んでいる限り、出身階級を忘れてしまう、という点で、武士集団よりも俳諧師集団やアウトサイダー集団に自己同一し、考え方も強く影響を受けていたのだろう、ということである。ある種の出家に近い。これは、ほかの弟子たちにも言えるのではないだろうか。現代では、俳諧師やアウトサイダーの影響を受けることは、もちろんあるが、それよりも消費社会・情報化社会の影響を強く受けているように見える。資本主義型の新しい俳人は、虚子に始まるのかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )

漱石『夢十夜』について



■ウェブのフリーマガジンZouXに書いた漱石の『夢十夜』に関する書評。ZouXは、一定期間後、古い記事は消えるようなので、記録として、以下に転載。

夏目漱石『夢十夜』

フォード(1863-1947)とフロイト(1856-1939)が同時代人だったことをご存じだろうか。片や、大量生産の原型を作った自動車王、片や「無意識」を発見した精神分析の元祖。この二人、直接、関連性はないように見えるが、人間(社会関係)の「モノ」的側面に光を当てたという意味で、共通するのである。工場のラインで、自動車の部品を一心に組み立てる工員と、朝のカフェーで無意識に貧乏ゆすりを繰り返す若者。このとき、二人は「モノ」になっている。あるいは、そう扱われている。

夏目漱石(1867-1916)は、日本の近代小説のパイオニアの一人であるが、奇しくも、フォード、フロイトと同じ空気の中にいた。この点は、漱石を語る上で、重要なのではないだろうか。漱石の「西欧」とは、フォードとフロイトの「西欧」でもあった。1900年代は、フォード社を中心にして、大量生産方式が完成に向い、チャップリンの「モダンタイムス」(1936)に象徴されるように、資本主義の「人間疎外」が、一つの頂点を迎える時代にあたる。同時に、フロイトの登場で、「無意識」がテーマ化されてくる時代でもある(『夢判断』の発表は1900年)。社会関係の内と外に、同時に問題が見出された点に注目したい。

この時代に、漱石が「夢」をテーマにしたのは、フロイトの影響が感じられるが、「夢」そのものは、文学的モチーフとしては古くからある。たとえば、古今和歌集には、小野小町の「思ひつつぬればや人のみえつらん夢としりせばさめざらましを」という歌が見える。

『夢十夜』を読んでいると、不思議な感覚に囚われる。一般に覚めた意識で計画的に執筆された作品とは異なる、ある種の「昏さ」が感じられるのである。「自分はこういう風に一つ二つと勘定していくうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。」(第一夜)「おれは人殺しであったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。」(第三夜)「『今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る』…『深くなる、夜になる、真直になる』」(第四夜)「女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた」(第五夜)「庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いているといって健さんが知らせに来た。」(第十夜)

『夢十夜』は、人間にはどうにもならない「昏い力」が存在することを夢の形で告げている。この「昏い力」の正体は、人間の内と外に疎外された社会関係だということができるが、物象化された社会関係を考える場合、資本主義的な新しい形態だけでなく、芸術に体現された古代からの「物」について考えてみる必要があるだろう。そのヒントは、「物語」の語源にある。物語は「モノ騙り」(「モノ」が「騙る」)だと、俳人の五十嵐秀彦氏から、以前、ご教示いただいたが、このときの「モノ」は単純に物ではない。「モノ」はフロイトが発見した無意識と意識の間を漂い、社会関係の内と外に同時に存在する。「モノ」はマルクスが言う意味での「物象化」に深く関連しながら、<否定的/肯定的>という価値を超えた古代的なものに触れている。一見、神秘的に見える「モノ」をめぐる議論は、実は、大きな問題圏の中にある。紙幅の関係で展開できないが、一つだけ触れると、現在、われわれが当たり前だと思っている科学主義的な認識枠組みを根底から覆すような契機を含んでいるのである。

則天去私の思想は、人間の内側に問題解決を求めたものだが、内側の問題は、つねに外側の問題とつながっている。『夢十夜』は、「夢」をモチーフとしたことで、上記の消息を無意識的に示すことができたのではないだろうか。

◆あわせてお勧め:十人の監督が十夜の夢を描いたDVD版「ユメ十夜」(監督:実相寺昭雄、松尾スズキ、西川美和ほか、日活株式会社 2006)。

(初出「ZouX 305」)



夢十夜 他二篇 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店


ユメ十夜 [DVD]
クリエーター情報なし
日活















コメント ( 2 ) | Trackback ( )

一日一句(564)







水底へしんと落ちゆく鯨かな






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

一日一句(563)







天が下喰つて糞する野鴨かな






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

一日一句(562)







スカイツリーマスクした目の虚なる






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

一日一句(561)







短日や選挙カーは名を連呼






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

猿蓑:「鳶の羽も」の巻(24)


■旧暦10月21日、火曜日、

(写真)無題

俳句では、笑いや諧謔を大きなテーマとしているが、フロイトに『Der Witz und seine Beziehung zum Unbewßten(機知、その無意識との関係)』(1905年)という著作があるのを調べていて知った。そこには、こんなことが書いてある。「自己の不幸を軽減するような笑いの原因を諧謔と考える」図星すぎてドキッとするではないか。

電車の中で、『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)を読んでいる。数学音痴にも唸らせるようなところがあって楽しいのだが、数学者が前提にしていて、ぼくのような数学音痴は、前提にしていないのではないかと思えることがある。それは数に関することで、よく「現象を数式を使って数量化する」と言うが、このときの数量化は、対象に何らかの量的操作を加えることを意味する。だが、数と量は別だと思う。

数は、first、second、thirdなどの順位を表し、量は操作可能性を表している。たとえば、自然数(natural number)という概念は、明らかに、順位に関連するし、有理数(rational number)や無理数(irrational number)は操作可能性に関連する。自然数は、その名のごとくに、自然に発生した数だろうし、有理数や無理数は、数の操作可能性を拡大して行って得られた概念だろう。このように、出自の異なる数を、一括して、実数(real number)のようなカテゴリーに一般化するのは、なにか、違和感が残る(たとえば、自然数を有理数に拡大する時にも、naturalなnumberがoperated numberに変質している)。

この電車の中で、、目のまえに座ったスーツ姿のカップルが、非常に、仲よくしている、もっと言うと、ベタベタしながら、軽い口調で、とめどもなくおしゃべりしている。女性の方は、やや美人である。まあ、楽しくていいね、と思いつつも、イラつきながら、本を読んでいたのだが、ふと、おしゃべりが止んだ。顔を上げて男性の方を見ると、マスクをした目が非常に虚ろである。まだ、若い。こんなに若い人をこんな虚ろな目にしてしまうものとは、いったい何だろうと思ってしまった。疲れていたにせよ、プライベートな事情があるにせよ、そこには、社会関係が関与している。その延長線上には、経済や政治、文化がある。



11月29日付けの読売新聞が、信じられないような低級な社説を書いているので、記録として貼り付けておく。

日本未来の党 「卒原発」には国政を託せない(11月29日付・読売社説)
 国力を衰退させる「脱原発」を政治目標に掲げる政党に、日本の未来を託せるだろうか。

 日本未来の党が、正式に発足した。代表に就任した嘉田由紀子滋賀県知事は「卒原発プログラム」を作成し、徐々に原発を減らして10年後をめどに原発ゼロにする意向を示した。

 「脱増税」「脱官僚」「品格ある外交」など抽象的な言葉ばかりを掲げている。経済や社会保障、安全保障といった重要なテーマでさえまだ政策がない政党だ。

 嘉田氏が「この指止まれ」と呼びかけたように見えるが、実態は国民の生活が第一の小沢一郎代表や、民主党を離党して新党を結成した山田正彦元農相らが根回しをして、合流を決めたものだ。

 空疎なスローガンと、生き残りのために右往左往する前衆院議員たちの姿には、政治家の劣化を痛感せざるを得ない。

 嘉田氏が掲げる「卒原発」は脱原発と大差はない。それだけでは願望に過ぎず、無責任である。

 電力の安定供給や代替エネルギー確保、経済・雇用対策、原子力の人材育成などについて現実的な計画を明確に示すべきだ。

 結党に際して発表した「びわこ宣言」には「原発事故の潜在的リスクが最も高いのは老朽化した多数の原発が集中立地する若狭湾に近い滋賀県」とある。電力供給の恩恵を受けておきながら、原発立地自治体への配慮が不十分だ。

 滋賀県の利害のために国政に進出するとの発想も改める必要がある。嘉田氏は知事と党首との兼務が可能かどうか悩んだという。政党運営の経験がないだけに、両立には困難が伴うに違いない。

 小沢氏が名称にもこだわった政党をあっさり捨てても、驚くには当たるまい。党首として前面に出たくなかったのだろう。その分、未来の党の公約原案には小沢氏の従来の主張が反映されている。

 日本維新の会と連携できず、民主党離党組の党だけでは選挙戦で埋没する。クリーンイメージの嘉田氏を「表の顔」に担ぎ出して巻き返そうと考えたようだ。相変わらずの小沢流である。

 「決められない政治」で既存政党に対する国民の不信感が高まる中、急ごしらえの新党の離合集散が目立っている。だが、新党は、国政を担う能力に疑問符が付き、政策も大衆迎合色が濃厚だ。

 有権者はそのことを十分理解した上で、新党の真価を見極めることが重要である。

(2012年11月29日01時32分 読売新聞)

これでは、典型的な世論操作型のドグマではないか。



隣をかりて車引きこむ   凡兆

うき人を枳穀垣よりくゞらせん   芭蕉

■枳穀はからたちの漢名。からたちは、画像からもわかるように、刺の多い樹木。ここから>>>安東次男によれば、そういう垣根から恋しい人をくぐらせよう、という芭蕉の解釈は、六条御息所の嫉妬心を、表現している、という。三番目の女をここに付けている芭蕉の解釈の独創性には、驚く。芭蕉という人は、創造的な解釈能力を持っていたことが、俳諧を検討してみて、初めて見えてきた。小学館の新編日本古典文学全集は、「そこまで同じ物語の展開をたどる必要はあるまい」とすげないが、安東次男の解釈は、断然面白い。





コメント ( 0 ) | Trackback ( )

一日一句(560)







鯛焼や諸行無常と言うて喰ふ






コメント ( 0 ) | Trackback ( )

一日一句(559)







あかあかと日の残りたる冬田かな






コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ 次ページ »