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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(24)


■旧暦10月21日、火曜日、

(写真)無題

俳句では、笑いや諧謔を大きなテーマとしているが、フロイトに『Der Witz und seine Beziehung zum Unbewßten(機知、その無意識との関係)』(1905年)という著作があるのを調べていて知った。そこには、こんなことが書いてある。「自己の不幸を軽減するような笑いの原因を諧謔と考える」図星すぎてドキッとするではないか。

電車の中で、『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)を読んでいる。数学音痴にも唸らせるようなところがあって楽しいのだが、数学者が前提にしていて、ぼくのような数学音痴は、前提にしていないのではないかと思えることがある。それは数に関することで、よく「現象を数式を使って数量化する」と言うが、このときの数量化は、対象に何らかの量的操作を加えることを意味する。だが、数と量は別だと思う。

数は、first、second、thirdなどの順位を表し、量は操作可能性を表している。たとえば、自然数(natural number)という概念は、明らかに、順位に関連するし、有理数(rational number)や無理数(irrational number)は操作可能性に関連する。自然数は、その名のごとくに、自然に発生した数だろうし、有理数や無理数は、数の操作可能性を拡大して行って得られた概念だろう。このように、出自の異なる数を、一括して、実数(real number)のようなカテゴリーに一般化するのは、なにか、違和感が残る(たとえば、自然数を有理数に拡大する時にも、naturalなnumberがoperated numberに変質している)。

この電車の中で、、目のまえに座ったスーツ姿のカップルが、非常に、仲よくしている、もっと言うと、ベタベタしながら、軽い口調で、とめどもなくおしゃべりしている。女性の方は、やや美人である。まあ、楽しくていいね、と思いつつも、イラつきながら、本を読んでいたのだが、ふと、おしゃべりが止んだ。顔を上げて男性の方を見ると、マスクをした目が非常に虚ろである。まだ、若い。こんなに若い人をこんな虚ろな目にしてしまうものとは、いったい何だろうと思ってしまった。疲れていたにせよ、プライベートな事情があるにせよ、そこには、社会関係が関与している。その延長線上には、経済や政治、文化がある。



11月29日付けの読売新聞が、信じられないような低級な社説を書いているので、記録として貼り付けておく。

日本未来の党 「卒原発」には国政を託せない(11月29日付・読売社説)
 国力を衰退させる「脱原発」を政治目標に掲げる政党に、日本の未来を託せるだろうか。

 日本未来の党が、正式に発足した。代表に就任した嘉田由紀子滋賀県知事は「卒原発プログラム」を作成し、徐々に原発を減らして10年後をめどに原発ゼロにする意向を示した。

 「脱増税」「脱官僚」「品格ある外交」など抽象的な言葉ばかりを掲げている。経済や社会保障、安全保障といった重要なテーマでさえまだ政策がない政党だ。

 嘉田氏が「この指止まれ」と呼びかけたように見えるが、実態は国民の生活が第一の小沢一郎代表や、民主党を離党して新党を結成した山田正彦元農相らが根回しをして、合流を決めたものだ。

 空疎なスローガンと、生き残りのために右往左往する前衆院議員たちの姿には、政治家の劣化を痛感せざるを得ない。

 嘉田氏が掲げる「卒原発」は脱原発と大差はない。それだけでは願望に過ぎず、無責任である。

 電力の安定供給や代替エネルギー確保、経済・雇用対策、原子力の人材育成などについて現実的な計画を明確に示すべきだ。

 結党に際して発表した「びわこ宣言」には「原発事故の潜在的リスクが最も高いのは老朽化した多数の原発が集中立地する若狭湾に近い滋賀県」とある。電力供給の恩恵を受けておきながら、原発立地自治体への配慮が不十分だ。

 滋賀県の利害のために国政に進出するとの発想も改める必要がある。嘉田氏は知事と党首との兼務が可能かどうか悩んだという。政党運営の経験がないだけに、両立には困難が伴うに違いない。

 小沢氏が名称にもこだわった政党をあっさり捨てても、驚くには当たるまい。党首として前面に出たくなかったのだろう。その分、未来の党の公約原案には小沢氏の従来の主張が反映されている。

 日本維新の会と連携できず、民主党離党組の党だけでは選挙戦で埋没する。クリーンイメージの嘉田氏を「表の顔」に担ぎ出して巻き返そうと考えたようだ。相変わらずの小沢流である。

 「決められない政治」で既存政党に対する国民の不信感が高まる中、急ごしらえの新党の離合集散が目立っている。だが、新党は、国政を担う能力に疑問符が付き、政策も大衆迎合色が濃厚だ。

 有権者はそのことを十分理解した上で、新党の真価を見極めることが重要である。

(2012年11月29日01時32分 読売新聞)

これでは、典型的な世論操作型のドグマではないか。



隣をかりて車引きこむ   凡兆

うき人を枳穀垣よりくゞらせん   芭蕉

■枳穀はからたちの漢名。からたちは、画像からもわかるように、刺の多い樹木。ここから>>>安東次男によれば、そういう垣根から恋しい人をくぐらせよう、という芭蕉の解釈は、六条御息所の嫉妬心を、表現している、という。三番目の女をここに付けている芭蕉の解釈の独創性には、驚く。芭蕉という人は、創造的な解釈能力を持っていたことが、俳諧を検討してみて、初めて見えてきた。小学館の新編日本古典文学全集は、「そこまで同じ物語の展開をたどる必要はあるまい」とすげないが、安東次男の解釈は、断然面白い。





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一日一句(560)







鯛焼や諸行無常と言うて喰ふ






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