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Cioranを読む(98): Hegel et nous(7) 1932


■旧暦2月4日、日曜日、

(写真)無題

今年は、鴨長明の「方丈記」成立800年になるらしい。徒然草は、中高生を教えていると、よく出てくるから、なじみ深いし、自分でも好きなテキストなので、手元に置いて、読んだりもするのだが、「方丈記」はそれほど、読んでいない。1212年3月末に脱稿したことがわかっている。長明58歳。清盛や西行と同時代人。当時は、保元・平治の乱、洛中大火、竜巻、飢餓、疫病、元暦の大地震など、天変地異が頻発していた。大地震・津波、原発事故、放射能汚染と続き、今なお、大規模地震が予測されている今と重なる。ここで、描かれた死者たちは、過去の死者であるが、今の死者でもあり、将来の死者でもあるのだろう。テキストはここから>>>

『モンテーニュ―「エセー」の魅力―』を読んでいる。生活に困らない金持ちの貴族が悠々自適の生活の中で、書いた書物、という実につまらない認識しかなかった己を恥じる。その人生の戦いぶりに感動して涙が出そうになった。モンテーニュには、ユダヤの血も入っている。これは、社会を見る上で、大きかったのではなかろうか。国家横断的な存在は、差別も受けるが、それが弱者へのまなざしともなり、なにかに凝り固まらず寛容な心を維持できたのかもしれない。この本を読んで、紀伊国屋書店へEssaisを買いに走ったのだが、フランス本の売り場の前で、行きつ戻りつして、Essais3巻を何度も手にとって、結局まだ、その機が熟していないと判断して、買うのを見送った。まずは、関連本や日本語版を読んで周囲から攻める...。



Il en est le dernier grand philosophe. Ensuite s'amorce la décadence. Ce qu'Aristote est à la culture antique, Hegel l'est à la culture moderne. Cette affirmation ne s'appuie pas sur une adhésion personnell à un système, mais sur une évaluation qualitative des valeurs culturelles, en fonction de leur structure, sans subjectivité. Hegel a été le dernier à réunir dans une conception unitaire tous les domaines d'objectivation de l'esprit. Non qu'il les ait tous connus; mais il les a tous marqués subjectivement. En cela consiste l'universalité qui, dans le cas de la création philosophique, ne peut exister que liée à un centre de vie subjectif.     Cioran Solitude et destin(1991) p. 165

ヘーゲルは最後の大哲学者である。その後始まったのがデカダンスである。アリストテレスは古代の文化に属するが、ヘーゲルは現代の文化に属している。こう断言するのは、哲学体系を個人的に支持しているからではなく、主観抜きにその哲学構造を考えてみたとき、文化的な価値が質的に評価できるからである。ヘーゲルは、精神の客体化された領域全体を、統合された一つの概念にまとめ上げることのできた最後の哲学者だった。それは、ヘーゲルが領域全体に精通していたからではない。主観的に、全体を強調したのである。哲学的創造の場合には、主観的な命の中心に結びつくことなく、哲学的な宇宙は存在しないのである。

■実に感動した。生の哲学の系譜と言えば言えるけれど、そうした学説史的な整理とは違ったところで、ヘーゲルの生き生きした部分を感じ取っている。une conception unitaire(統合された一つの概念)に収まりつかないものが、概念の周囲に漂っているような感じがする。たとえば、ヘーゲルのReflexionsbestimmungen(反省的諸規定)という概念。これほど、深くて広い言葉に、これまで出会ったことがない。





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