verse, prose, and translation
Delfini Workshop
L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(16)
■旧暦9月27日、日曜日
(写真)宮内庁式職部樂部ステージに設置された巨大なドラム(右方)、朱雀がデザインされている。ステージ左方には、青龍のデザインされたドラムが、設置されている。
昨日は、雅楽を聴きに皇居まで行ってきた。異次元の体験だった。結婚式で流れる「越天楽」くらいしか雅楽は聴いたことがなかったので、新鮮な体験だった。曲は、単調なものが多く、天上的なので、即、眠りの世界に入っていけるw。雅楽は、管弦と舞樂(舞いと伴奏)の二種類あり、面白いことに、音楽の起源ごとに分けて、現在まで継承している。日本古来からの原始歌謡である、神楽・東遊・大和歌・久米舞。これらを国風(くにぶり)歌舞と呼んでいる。もう一つは、大陸起源の楽舞で、起源が中国・中央アジア・インド方面のものを唐楽、朝鮮・満州方面のものを高麗楽と呼んで、区別して伝承しているのである。昨日の演奏では、国風を聴くことができなかったのが、残念だが、舞いも見られて楽しかった。舞いは4人一組(全員男性)でシンメトリックに行われる。ゆったりとした動作が特徴的。管弦二曲、舞楽二曲という構成だった。舞楽のうち、二曲目の「長保楽」は、一条天皇の長保年間(999年ー1004年)に、二曲を一曲にまとめたものらしい。一条天上と言えば、中宮定子、定子に仕えた清少納言が思い起こされる。清少納言のライバル紫式部もこの時代の人。この舞楽は、清少納言も紫式部も見たことがあっただろう。写真はここから>>> 残念ながら、演奏中、舞楽中の写真は、撮れなかった。演奏に支障が出るということで。
管弦がYoutubeにアップされていないか、探したのだが、管弦はなかった。代わりに、雅楽の楽器の一つ、龍笛(横笛)によるソロをいくつか見つけた。これらの曲を聴いて、すっかり龍笛の響きが好きになった。
☆
165. Die Erfahrung hat mich gelehrt, dass das diesmal herausgekommen ist, dass es für gewöhnlich herauskommt; aber sagt das der Satz der Mathematik? Die Erfahrung hat mich gelehrt, dass ich diesen Weg gegangen bin. Aber ist das die mathematische Ausgabe? - Was sagt er aber? In welchem Verhältnis steht er zu diesen Erfahrungssätzen? Der mathematische Satz hat die Würde einer Regel.
Das ist wahr daran, dass Mathematik Logik ist: sie bewegt sich in den Regeln unserer Sprach. Und das gibt ihr ihre besondere Festigheit, ihre abgesonderte und unangreifbare Stellung.(Mathematik unter den Urmaßen niedergelegt.) Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 98-99 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
経験は、今回はこうなったが、たいていそうなるとわたしに教える。しかし、数学命題はそう語るだろうか。経験は、この道を歩いたことがあると教える。だが、これは数学的な言明だろうか。数学命題は何を語るのか。数学命題は、経験命題とどんな関係があるのか。数学命題は規則の威厳を持っている。
その点では、数学は論理学だというのは正しい。つまり、数学は、われわれの言語の規則の中を運動するのである。それが、数学に、固有の堅固さ、隔絶した侵すことのできない地位を与えているのである。(数学は、基準の中の基準になっている)
■かなり面白い断章。これを読んで、数学について言われていることは、物理学の「公理」にも当てはまるように思った。たとえば、アインシュタインは、ある実験から、特殊相対性理論の柱になる二つの公理を導く。1)すべての慣性系で自然法則は同様に成り立つ(相対性原理)2)光は、真空中で光源の運動にかかわらず、すべての方向に速度cで伝わる。この二つの命題は、無時間的である。今日だけ成立するというわけではない。数学と異なるのは、数学が文法の中だけで運動するのに対して、公理は実験結果という経験命題を一般化したものであることだろう。演繹と帰納の違いとも言える。しかし、公理は既存の公理体系との関係性の中で作られ、数学体系と同じように、生成のプロセスがある。その点で、時間が関与する。このように、科学技術の合理性は、歴史的に作られてきたものだとすれば、公理は、何らかの歴史的現実の物理学的な表現と考えることができる。公理には公理を支える歴史的な現実があるとも言えるだろう。そう考えて、アインシュタインの公理をふたたび見ると、光の性格の特異性に目が止まる。光の速度は全方向で常に一定である。光は、ある意味で、普遍・不変である。その点で、とても「神」に似ているが、歴史的な現実の中で、これに対応するものは、「資本の運動」ではなかろうか。「資本の運動」は普遍的であり、不変的である。資本運動の結果である「市場」は、地球上で唯一共通の言語であり文法である。数学が発見ではなく発明であるように、公理も発見ではなく、人間の発明だと言えるのではなかろうか。それが「科学技術の合理性は歴史的なものだ」という命題の意味だと思う。
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