verse, prose, and translation
Delfini Workshop
芭蕉の俳句(11)
2011-08-23 / 芭蕉
■旧暦7月24日、火曜日、、処暑
(写真)無題
午後から、異常に蒸す。暑いので、深蒸茶を冷やして飲んでいるが、結構、いける。
「先生」と呼べる人たちが次々亡くなっていく。夏はどこか寂しい。20日の深夜に、翻訳家の山岡洋一先生が亡くなった。62歳だった。翻訳という荒海を渡るときの灯台のような人だった。まだ、これからと思っていたので、言葉がない。昨年の今頃に、お会いしたときには、お元気そうだったのだが...。主宰されていた「翻訳通信」を読み返してみたいと思う。謹んでご冥福をお祈りいたします。
☆
秋風や藪も畠も不破の関 野ざらし紀行(貞亨元年)
■秋の風も、芭蕉にかかると、いろいろな表情を見せる。廃墟に吹く風にふさわしいのは、「秋の風」だという季感。すんなり納得できる。野ざらし紀行は、「秋の風」を詠む句が多い。
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芭蕉の俳句(10)
2011-08-21 / 芭蕉
■旧暦7月22日、日曜日、
(写真)無題
今日は、ひたすら休む。運動を再開してよく眠れるようになったのが収穫の一つ。トレーナーによると、月に9回~12回、トレーニングした人が、筋力の向上という点では効果があったという。意外に、少ない感じがするが、こんなものなのかもしれない。
芭蕉の『野ざらし紀行』が読みたくなって、再読している。藤田省三が「野ざらし紀行覚書」(著作集5巻『精神史的考察』所収)という興味深いテキストを残しているので、併せて読んでみたいと思っている。
FBは面白いツールで、今日は、自分の書いたドイツ語の俳句に、ドイツの俳人たちがコメントしてくれたので、少し話す(と言っても、自分のドイツ語力では相当時間がかかる)。言語は社会的なものであるから、集団の中で、その言い回しがどう響くかが、俳句や詩を書く上で、重要な要素になると思う。しかし、そういう響きのニュアンスは、言語集団が異なると、なかなか、はっきりわからない。どうしても、いったん、日本語に直して考えたり、感じたりしているからだ。こういうズレに、自分はずっと興味を感じてきたが、FBではそれをじかに知ることができて、とても嬉しい。
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猿を聞く人捨子に秋の風いかに 「野ざらし紀行」
■この句は、芭蕉の発句の中でも、特異なものだと思う。それは、風雅の人を社会的現実で批判しているからだ。こういう批判的な句は、記憶では、ほかにはない(ただし、俳諧は未検討なので除く)。その意味で、いつも、この句は目に留まる。風雅の裏に、こうした現実があることを、忘れるなかれ、と言われている気がしてくるのである。
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芭蕉の俳句(9)
2011-08-19 / 芭蕉
■旧暦
(写真)椅子と向日葵
特養の連絡がずさんなので怒る。家族の協力をうたい文句にするなら、あたりまえのコミュニケーション力を養って欲しいものである。地道なコミュニケーションから信頼関係と協力体制は生まれるものと思うが...。
そろそろ、死ぬ準備に入りたいと思っている。コンセプトは、「元気に死ぬ」である。そのためのもろもろ。
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義朝の心に似たり秋の風 野ざらし紀行
■義朝。頼朝、義経の父。なかなか、凄まじい人生。芭蕉が、秋風の本意を、寂しさよりも凄まじさに見ていたのは意外だった。秋の風も吹き方によっては、そう感じられることも確かにある。そう思って出典を見れば、「野ざらし紀行」だった。「野ざらし紀行」は、猿の句や野ざらしの句など、ディープな雰囲気が全体に漂う。一茶の資質は、芭蕉のこういう面と響き合ったのではないかとも思っている。
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Pascal 『Pensées』を読む(18)
■旧暦7月18日、水曜日、
(写真)松の月
腰も良くなってきたので、朝、運動することに。まだ、本調子でないので、負荷を軽くして一時間筋トレ。これだけでも、かなり気分がいい。午前中、ブルバキを読み、午後から、仕事に入る。しかし、ブルバキを読むと、てきめんに眠くなる。いい昼寝導入剤なのである。
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Contadiction, mépris de notre être, mourir pour rien, haine de notre être.
矛盾。われわれの存在を軽んじること。つまらないことで死ぬこと。われわれの存在を憎むこと。
■ここでは、être(存在)という言葉に注目したい。「ある」こと総体をêtreで表現している。この点、「我思うゆえに我あり」のデカルトの考え方が心身二元論へ分化していくのと対照的で、存在の全体性を保持している。興味深いのは、パスカルがジャンセニスムの熱心なクリスチャンだったにも関わらず、人間存在の価値を大きく認めていることで、絶対神と比較して、人間が無力で卑小な存在にはなっていない。ただし、人間以外の存在には触れられていない。
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Sound and Vision
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