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飴山實を読む(188)

■旧暦4月7日、木曜日、

(写真)無題

午前中仕事、午後には、叔母の今後の件で病院へ行き、医師とソーシャルワーカーと話し合ってきた。帰宅して、仕事。夕方から兼業へ。終日、霧雨で今夜は蒸し暑い。帰宅途上で、葉桜が風に大きく揺れていたので、俳句を作ろうと、30分くらい立って考えていたが、結局、できない。帰って、この話をしたら、「怪しい」と口をそろえて家人らに言われてしまったが、これが怪しいとすると、しょっちゅう、ぼくは、怪しげな人物なのだな、と自覚した次第である。

今日は、久しぶりに詩人の清水昶さんと電話で話したのだが、やはり、昶氏、ただ者ではないな。最近俳句は作らないんですか、と聞くと、「ぜんぜん作る気にならない。活字はダメだな。詩も小説も全然ダメだ。俳句がかろうじてなんとか」これ、普通じゃ出てこないと思う。つまり、俳句の本来の立ち位置を言い当てているからだ。民衆の意識・無意識に近い口誦性や笑いを言っているのだとぼくは思う。



ザビエルの鐘鳴りわたる夏霞   「俳句」平成十年七月

■「ザビエルの鐘」という措辞にまず、はっとさせられる。何気ないが、歴史の重みのある措辞だと思う。ぼくが無知なだけかもしれないが、ちょっとウィキで調べただけでも、ザビエル周辺には、びっくりするような物語がたくさんある。司馬遼太郎の『南蛮のみち』を読んではじめてザビエルがバスク人だったことを知った。この鐘は、山口のザビエル記念聖堂かもしれない。夏霞という季語で、視界が明るくさえぎられ、歴史の彼方から鐘の音が聞こえてくるような感じがする。







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