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飴山實を読む(159)

■旧暦2月8日、火曜日、

(写真)無題

昨日、「マスメディアの未来」をnhkで観た。テレビと新聞のなんとか協会会長という老人3人とインターネットに詳しい若手2人に、社会学者という構成だった。まず、びっくりしたのは、マスメディアが既得権益集団に有利な横並びの偏向報道をこれだけしているにも関わらず、まったく、自己否定の感覚がないことだった。また、報道のプロを自称しながら、同時に、くだらないバラエティ番組で、視聴者を幼稚化し、思考停止状態に置いていることに対する自覚がない。そもそも、ここに出てくるような老人は、自民党の論理と同じ論理でトップに上った連中なので、感受性が硬直していて、議論の共通の土俵を形成するのに時間がかかり、核心的な問題に入る前に終わった観がある。マスメディア側の人選をもっと真面目にやれと言いたい。形式的にトップの老人を出せばいいというものじゃない。しかし、こんなレベルでトップが務まるのだから、マスメディアの未来は相当危ないんじゃないか。

マスメディアには、官僚と同質の奢りを感じた。自分たちが共通の言論広場を形成してやる、という奢りを。そうやって形成された広場がいかに情報操作に満ち、「客観的」という名の体制補完報道なのか、想像力がまったく届いていない。組織力とプロの記者というリソースは、常に、もろ刃の刃だろう。

昨日、番組を観て思ったのは、メディアリテラシーの教育が若いうちから必要なのではないか、ということ。現在、社会認識の枠組みは、マスメディアが形成しているのだから、マスメディアを批判する能力は、生活をしていく上で、必須だと思う。インターネットは、今ある意味で、ゲリラのような役割を果たしていると思うが、討論や情報交換を通じて、メディアリテラシーの教育の場としてのポテンシャルを持っているように思う。

インターネットは、まだ混とんとしていて、姿が見えない。あるいは、そもそも、混沌がネットの本質なのかもしれない。しかし、創造的なものは、常に混沌の中から生まれるのではなかろうか。




傘持ちの高野歩きやほとゝぎす
  「俳句文芸平成八年五月」

■高野山の雨は、去年7月に行ったときに経験したが、不思議に気持ちがいい。霊廟は、死者の眠る場所だが、高野山の墓域には、不思議な生命力が宿っていて、それが雨によっていっそう際立つように思える。「高野歩き」という措辞、なかなか出てこないと思う。



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