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芭蕉の俳句(153)

■旧暦8月23日、水曜日、肌寒くなってきた。終日、仕事。location mapを見ると、ドイツからも来てくれていることがわかる。ドイツ語版、英語版にも、同じマップを付けたので、どういうアクセスがあるのか、興味を持っている。

もともと、高尚でもないもんが、高尚な本を翻訳していると、疲れてくるんだよね、ときどき。そういうときは、ベッドにひっくり返って、『三丁目の夕日』の茶川竜之介先生を詳しく観察するんですね。とくに、意味なく。コマの隅に三毛猫が居るとか、目つきの描き方がさすがだとか。しかし、茶川先生、いいですねえ。一平君と茶川先生、好きだなあ。映画になった茶川先生は、もっと若返って、激情的。これはこれで、面白かった。



芭蕉も元禄5年に入った。芭蕉のそのときまで、2年弱。


鎌倉を生きて出でけむ初鰹
    (葛の松原)

■初鰹の活きの良さが伝わってきて惹かれた。この句は、初鰹を詠んだ一物仕立てだが、調べてみると、意味的には、二重になっている。鎌倉を出たときにはまだ生きていた初鰹の活きの良さ。鎌倉という歴史的な土地の権力闘争。そこを生きて出ることの難しさ。

ちなみに、「鰹は鎌倉」というのは、「徒然草」から出ているらしい。第119段にこういう記述がある。

 鎌倉の海に、かつをといふ魚は、彼のさかひにはさうなきものにて、この頃もてなすものなり。それも、鎌倉の年よりの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部もくはず、切り棄てて侍りしものなり」と申しき。
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

現代語訳より、ドナルド・キーンの訳した英文の方が味わい深いので、そっちを載せる。

119
The fish called katsuo is unequaled among those caught in the sea of Kamakura, and of late has been much in demand. An old gentleman of Kamakura told me, "When we were young this fish was never served to persons of quality. Even the servants refused to eat the head. They cut it off and threw it away". It is typical of these degenerate times that such fish have become accepted by the upper classes. ESSAYS in IDLENESS translated by Donald Keene
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