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放哉の随筆

■旧暦9月10日、土曜日、

久しぶりに短納期の仕事をこなした。仕事中、体調の悪化はなかったが、夜になって、悪化。しょうがないので、『尾崎放哉随筆集』(講談社文芸文庫)を、ごろごろしながら読んでいた。放哉の随筆は、あまり感心しませなんだ。一高生のときのものもあるので、しょうがないのかもしれないが、総じて上手じゃないと思う。一番面白かったのは、「入庵雑記」で、これは岩波の文庫にも入っている。放哉は、海沿いの寺を転々としたが、それには、わけがあって、海が好きなんだという。海のどこが好きかと言えば、山の峻厳なる父親のごときに対して、慈母のごとく受け入れてくれるところだという。そう言って、「賢者は山を愛し、知者は水を愛す」という言葉を紹介している。自分はどちらでもないが、と断りつつ。そして、海の空は、とくに、朝夕の海の空は趣深く、そこに流れているあらゆる雲の形と色とを、種々様々に変形し、変色してみせるところに惹かれると言う。

この「入庵雑記」に「石」と題した随筆があり。なかなか興味深かった。


(前略)私は、平素、路上にころがって居る小さな、つまらない石ッころに向って、たまらない一種のなつかしい味を感じて居るのであります。…物の云えない石は死んで居るのでしょうか。私にはどうもそう思えない。反対に、すべての石は生きて居ると思うのです。石は生きて居る。どんな小さな石ッころでも、立派に脈を打って生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなって行くのであります。(後略)
(同書pp.116-117)

このあたりの記述に、面白い感受性を感じた。放哉の年譜や行動を読むと、アル中で酒乱の気は確かだと思う。庵ではどうしていたんだろうか。酒は断てたんだろうか。やはり、何か問題を起こしていたんだろうか。この辺は、随筆や俳句からはわからない。

放哉は、随筆よりも俳句が面白いが、その俳句も井泉水という俳人を抜きには語れない。放哉の師であると同時に、よき理解者であり、放哉の資質に沿った井泉水の添削がなければ、放哉の名句は生まれなかったからだ。師弟関係の不思議さを思う。

「入庵雑記」や俳句を読んで、自分には、まねはできないが、というより、家族や社会を棄てる気はないが、どこか、惹かれる。その正体は、「孤独」のような気がした。

写真は、名護湾の昼の雲。放哉もこんな空を眺めたことがあったろうか。
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