verse, prose, and translation
Delfini Workshop
酒と蕎麦
2007-10-16 / 俳句
■旧暦9月6日、火曜日、
昨日は、午後からカイロに一ヶ月ぶりに行き、その後、紀伊国屋で、洋書を数冊、五十嵐大介の新刊などを購う。後期近代社会にあって、それを批判的に観ている同時代の知性が、気になってきて、Sontagの新刊、『At the Same Time』、『On Photography』、Saidの『ON LATE STYLE』を購う。もっと早く読むべきだったのだが、少しずつ、英語で書き、考えるようになって、文体という意味でも、興味が出てきたのである。
昨日の眼目は、2人の同時代の詩人に吉祥寺の中清で会ったことだった。一人は、幻の大詩人、清水昶氏、もう一人は、このところ、破竹の勢いの井川博年氏。2人との話は、とても刺激的だった。いろいろ、話は出たんだが、ぼくにとって、もっとも重要で、興味のある話は、反時代性、伝統の奪回、アイデンティティといった問題だった。
井川さんは、詩の現在、とくに若い人の詩についても、よく知っているのだが、吉本隆明に言わせると、現代詩とは異なるものだと言う。ペンネームもパソコンのハンドルネームみたいなもので、書いている詩も詩とは異なると言う。ぼくの印象では、「詩の市場競争」の成れの果てが今の思潮社が中心の詩壇の現状だと思う。強迫的に新しさを追い求め、強迫的に言葉をつむいで、時代とシンクロしようとする。そういう意識は作り手にはなくても、市場に媚びること、それが時代の最先端であるとみんな勘違いしている。最先端こそ価値があるという思想は、市場主義である。「新しい詩はすべて出尽くした。みなどこかで読んだことがある」こういう言説は、実は、市場主義の論理的な帰結なのである。
ぼくは、反時代性を言いたい。時代にアンチのスタンスを取ること。「旅人」に徹すること。ここで見えてくるものこそ、「詩」なんだと思う。時代に背を向けることは、過去を向くことである。このとき、伝統という問題、アイデンティティという問題が出てくる。昶氏は、「ぼくらはアジア人ではない」と言う。そうぼくも感じる。自らのアイデンティティは、白人もアジア人でもなく、日本人でもない。いわば、中空に宙吊りされたままなのだ。
ただ、俳句を書くようになって、「伝統の奪回」ということをしきりに感じるようになった。王朝文化の系譜を学ぶだけではない。地理的な「辺境」(沖縄、アイヌ)、階級的な「辺境」(民衆歌謡)の文化を奪回することでもあるのだ。さらに言えば、現代詩にしても、短歌にしても、自己の心情に近い表現を捜してくるというのが近代的な表現の展開(口語化、批評化、散文化)だった。ところが、俳句は、定型があり、文語表現と文語文法があり、自己と乖離を生む。この乖離は、実は重要なのだ。つまり、そこに近代の他者がいるからだ。定型は、自己表現する、その自己そのものを変える。俳句には、禅、仏教、神道、老荘思想といった、東洋の思想が流れ込んでいる。思想的に見ても、近代の他者である。このことは、近代という西欧化を批判的に眺める上で、一つの鏡になりえる。
「伝統」は、下手をすれば、単なる反動に終る。これを防ぐにはどうしたらいいのか。それは、「伝統」を絶対化せず、西欧で東洋を批判することである。つまりは、合わせ鏡にするのだ。ぼくが、後期近代内部の批判者に一貫して興味を惹かれるのは、彼らが、後期近代内部の辺境、旅人、境界人だからである。こうした旅人の目で、後期近代の東洋の今を見ること。こうした双方向の運動として、詩や俳句を創作すること。
これが、今後も創作で模索していきたい方向。昶氏は「活字は認められないとダメだ」という。しかし、認める側の批評家や詩人たちが、時代に迎合した市場主義者では話にならない。マーケティング的な発想でしか、詩歌を見られないとしたら、それこそ、見る目がないのだ。
しかし、一方、市場に供給できなければ、詩歌は人目に触れにくいということはある。可能かどうかは別にして、反時代性を模索して、社会的な認知を得るという帰結になるだろう。霞を食って生きられれば一番だが、そうでないなら、反時代性を確保するには、別枠で経済基盤を確保することがどうしても必要になる(時代性があっても詩は売れない!)。これがまた、難題なのだ…。市場万歳! お金万歳! であるな。
昨日は、午後からカイロに一ヶ月ぶりに行き、その後、紀伊国屋で、洋書を数冊、五十嵐大介の新刊などを購う。後期近代社会にあって、それを批判的に観ている同時代の知性が、気になってきて、Sontagの新刊、『At the Same Time』、『On Photography』、Saidの『ON LATE STYLE』を購う。もっと早く読むべきだったのだが、少しずつ、英語で書き、考えるようになって、文体という意味でも、興味が出てきたのである。
昨日の眼目は、2人の同時代の詩人に吉祥寺の中清で会ったことだった。一人は、幻の大詩人、清水昶氏、もう一人は、このところ、破竹の勢いの井川博年氏。2人との話は、とても刺激的だった。いろいろ、話は出たんだが、ぼくにとって、もっとも重要で、興味のある話は、反時代性、伝統の奪回、アイデンティティといった問題だった。
井川さんは、詩の現在、とくに若い人の詩についても、よく知っているのだが、吉本隆明に言わせると、現代詩とは異なるものだと言う。ペンネームもパソコンのハンドルネームみたいなもので、書いている詩も詩とは異なると言う。ぼくの印象では、「詩の市場競争」の成れの果てが今の思潮社が中心の詩壇の現状だと思う。強迫的に新しさを追い求め、強迫的に言葉をつむいで、時代とシンクロしようとする。そういう意識は作り手にはなくても、市場に媚びること、それが時代の最先端であるとみんな勘違いしている。最先端こそ価値があるという思想は、市場主義である。「新しい詩はすべて出尽くした。みなどこかで読んだことがある」こういう言説は、実は、市場主義の論理的な帰結なのである。
ぼくは、反時代性を言いたい。時代にアンチのスタンスを取ること。「旅人」に徹すること。ここで見えてくるものこそ、「詩」なんだと思う。時代に背を向けることは、過去を向くことである。このとき、伝統という問題、アイデンティティという問題が出てくる。昶氏は、「ぼくらはアジア人ではない」と言う。そうぼくも感じる。自らのアイデンティティは、白人もアジア人でもなく、日本人でもない。いわば、中空に宙吊りされたままなのだ。
ただ、俳句を書くようになって、「伝統の奪回」ということをしきりに感じるようになった。王朝文化の系譜を学ぶだけではない。地理的な「辺境」(沖縄、アイヌ)、階級的な「辺境」(民衆歌謡)の文化を奪回することでもあるのだ。さらに言えば、現代詩にしても、短歌にしても、自己の心情に近い表現を捜してくるというのが近代的な表現の展開(口語化、批評化、散文化)だった。ところが、俳句は、定型があり、文語表現と文語文法があり、自己と乖離を生む。この乖離は、実は重要なのだ。つまり、そこに近代の他者がいるからだ。定型は、自己表現する、その自己そのものを変える。俳句には、禅、仏教、神道、老荘思想といった、東洋の思想が流れ込んでいる。思想的に見ても、近代の他者である。このことは、近代という西欧化を批判的に眺める上で、一つの鏡になりえる。
「伝統」は、下手をすれば、単なる反動に終る。これを防ぐにはどうしたらいいのか。それは、「伝統」を絶対化せず、西欧で東洋を批判することである。つまりは、合わせ鏡にするのだ。ぼくが、後期近代内部の批判者に一貫して興味を惹かれるのは、彼らが、後期近代内部の辺境、旅人、境界人だからである。こうした旅人の目で、後期近代の東洋の今を見ること。こうした双方向の運動として、詩や俳句を創作すること。
これが、今後も創作で模索していきたい方向。昶氏は「活字は認められないとダメだ」という。しかし、認める側の批評家や詩人たちが、時代に迎合した市場主義者では話にならない。マーケティング的な発想でしか、詩歌を見られないとしたら、それこそ、見る目がないのだ。
しかし、一方、市場に供給できなければ、詩歌は人目に触れにくいということはある。可能かどうかは別にして、反時代性を模索して、社会的な認知を得るという帰結になるだろう。霞を食って生きられれば一番だが、そうでないなら、反時代性を確保するには、別枠で経済基盤を確保することがどうしても必要になる(時代性があっても詩は売れない!)。これがまた、難題なのだ…。市場万歳! お金万歳! であるな。
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