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An Interview

火曜日、。どうにか、サイバープロテストの第7章が終わった。後は、最終見直しをかける。遅れているので、急ぎたい。学者の文章なので、慎重な結論になりがちだが、社会運動がイデオロギーから切り離されて、だれもが参加する時代が来るとぼくは思っていて、インターネットを利用したさまざまな運動の研究は、もっと、一般書として読まれていいと思っている。新しい政治参加の形が必要だし、求められているのではないだろうか。



宮崎駿監督に密着したNHKのプロフェッショナルを観た。映画は、「これ一本で世の中を変えてやろうくらいの意気込みでないとダメだ」と語る監督の語る言葉は、どれも含蓄があるが、中でも「プロは半分素人がいい」というのは考えさせられた。プロは保守的になり、決まった手続きで仕事を進めがちだからだ。往々にして、クリエイティブな発想は素人的な領域にあるのではないだろうか。全体を通じて感じたのは、市場の諸条件を逆手に取って、己の映画を鍛えていく監督の姿だった。プロの芸術家の姿を見た気がした。



数ヶ月前になるが、必要があって、詩人の清水昶氏にインタビューした。清水さんは、7年ほど前から、俳句を本格的に作り始め、今では、詩よりも俳句の方に比重がある。このインタビューは、某雑誌の記事「俳句の今」のために行ったものだが、インタビューをすべて使用したわけではない。ある意味で、清水さんの語ったことは、詩にとっても俳句にとっても、興味深いことなので、ここに記録しておきたい。先日触れた小野十三郎の考え方と比較すると、いっそう、興味を引かれる。

1. 詩人のあなたがなぜ俳句を詠むようになったのですか。

・もともとの出発点は短歌だった。短歌には物語性があるので惹かれた。その後、同じように物語性のある現代詩を書くようになったが、俳句なら5・7・5の17音の短い表現で物語ができる。しかも、現代詩よりも語彙が豊富である。俳句を書き始めたときには、日本語の原点である俳句に戻って現代詩を見直すつもりだったが、俳句を書いているうちに、現代詩は長すぎて退屈だと感じるようになった。今後も、現代詩は音韻や響きを重視した詩に戻っていく可能性はないだろう。これに関連して、思い出すのは、詩人の辻征夫が述べた言葉である。「海という言葉には海はない」これは、現代詩で「海」という言葉を使っても、海の風景が立ち上がってこないということだと思う。現代詩の置かれた状況を的確に表現する言葉だと思う。現代詩は日本語の原点である俳句を見落としているのである。

2. 日本で俳句人口が多いわけは何だと思いますか。

・面白い話がある。隣のおばさんに俳句を見せたらわかるが、現代詩を見せてもわからない。これは俳句が日常生活を詠むことが多く親しみを感じやすいということを示している。俳句はだれでも作れそうに思えるが、現代詩は多様化しすぎて緊張感がなくなった。また、俳句が多く詠まれる理由は、俳句が口ずさみやすく、日本人の感性に合っているせいであろう。

3. インターネットが俳句に与える影響は何だと思いますか。

・今、毎日、50句くらい、ウェブ上の掲示板に俳句を発表している。インターネットと俳句は非常に相性がいい。俳句の短さがウェブというデジタル媒体には合っている。現代詩でも短歌でも長すぎる。また、60年代からガリ版刷りで詩を発表してきた者にとっては、ウェブの漢字活字の美しさはとても魅力的である。インターネットが急激に普及したことで、だれでも簡単に俳句を書けるようになり、ますます俳句人口は増えると思う。

4. 近代化や都市化によって、季節感がなくなったり、季語が廃れたりしています。また、地球温暖化により、以前ほど、四季の移り変わりがはっきりしなくなってきました。俳句の未来についてどう思いますか。

・季語について言えば、歳時記を守るべきだと思う。版を重ねるごとに、歳時記から美しい日本語が消えていく。日本人の美意識は、神風特攻隊に象徴されるように、戦時中、国家に利用されてきた。しかし、その美意識を否定しても始まらない。なぜなら、日本人の美意識は、日本語に内在的なものだからだ。

・歳時記を紐解くと、死語が多い。現在では使われていない道具や風習が書かれている。それでも、なぜ、歳時記に載るかと言えば、歳時記を使う人が知っているからである。つまり、実在の言葉だけでなく、記憶の中の言葉も歳時記には掲載されている。その意味では、俳句は老人の文学と言える。

・近代化やグローバリゼーションは、社会が合理的に再編されていくプロセスでもあるわけだが、そのとき生まれた新しい言葉も歳時記には取り上げられている。しかし、心の中の言葉を抹殺し今使われている言葉だけが残るとしたら、残念なことである。

・地球温暖化は、俳句にとって重要な問題だと思う。太平洋戦争末期のニューギニアでは悲惨な戦闘が行われていた、日本軍の兵士たちは、絶望的な戦いを強いられ、次々に死んでいった。そのとき、各部隊の有志を集めて、演劇を上演するという話しが持ち上がった、劇で兵士たちに希望を与えようとしたのである。この劇団は大成功し、兵士たちを慰めることに成功した。そんな中、一人の兵士がこんなことを言う。「死ぬ前に故郷の雪が見たい」このリクエストに応えて、劇団は南の島に紙吹雪の雪を降らせるのである。この雪を見た兵士たちは、みな号泣する。この実話は、四季が人間の生活と密接に関わっているだけではなく、人間の魂とも深い結びつきがあることを示している。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
同世代 (長谷邦夫)
2007-03-30 12:12:47
ラストの「南の島に雪が降る」、ぼくの
「現代風俗文化論」演劇~の講義でしゃべっています。60~70年代の演劇をたった1コマで手短に
紹介する授業なんですが、その出発点。

昶さんとぼくは同世代なんだなあ、と感じました。

光文社知恵の森文庫から出ましたね。
加東大介さんの文章もいい。
軽く現代的タッチの文章。これにも驚いた。
 
 
 
Unknown (冬月)
2007-03-30 19:35:12
■恥ずかしながら、この話、昶さんに聞くまで知りませんでした。本にも映画にもなった有名な話のようですね。戦争というのは、実にいろんなことを教えてくれますね。一番の教訓は、二度としちゃいけないってことでしょうけれど。

原爆詩集の英語版の翻訳スタッフに加わることになりそうです。どういう詩を集めるのか、これからのことみたいですけど。「詩は真面目すぎてもいけない」という含蓄の深い言葉がありますが、原爆詩集はどういうものになるのか。かなり興味のあるところです。
 
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