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戦争と母

月曜日、。春風。

終日、仕事。ここ何日か、新しく出た詩集を送っていただいている。以前にいただいた詩集も、読もうと思いつつ、読めていないものが数冊かある。詩集というのは、それを読む時機、タイミングというのが、あるような気がする(読めない言い訳でもあるのだが)。

そんな中、秋山泰則さんの新詩集『民衆の記憶』は、今のぼくの波長と合ったようで、一気に読んでしまった。この詩集は、いくつかテーマがあるが、その中の一つが、「戦争と母」に関するものだろうと思う。秋山さんは、昭和13年、浅草に生まれ、戦争で父上の故郷、松本市に疎開され、戦後もずっと、当地に根ざして、文化活動や地域政治活動など、さまざまな活動をされて、現在に至っている。東京生まれの母上も、一緒に疎開され、さまざまなご苦労をされたことが詩からうかがわれる。


母という字


母という字の有り難さは

正しく書くと

正装をした母が

崩して書くと普段着の母が現れる


力強く書けば

厳しかった母が

優しく書けば

やさしかった母がいる


母を偲んで書くときは

涙ながらに書くときは

幽かに震える母になる


■一人の母を歌いながら、万人の母の歌になっている。心に残る作品だった。母の歌というのは、思うに、自分の母親を一人の苦悩する人間として、詩人が向き合えたとき、初めて歌いだされるテーマだと思う。母というテーマは、一人の母親を歌うことで、実は、詩人を生み育んだ世界総体を歌うことなのだと思う。そう考えて、もう一度、この詩に返ると、山川や友の顔、雲や風の匂いまでもしてこないだろうか。

「朝鮮や支那、それに南方の人達だって、日本の兵隊のために疎開させられたと思う。東京へ帰れなかったのは、せめてもの罪滅ぼしになったかもしれない」晩年、松本さんの母上が語った言葉である。ぼくらを生み育ててくれた世界総体が、こう語ったとして、何の不思議があろうか。


戦死


従兄の肺病は 軍隊で無理をしたせいだといった
街の医者へ行く日には
私の家に寄っていった
家の中へは入らず、縁側に腰をかけて
着物の中から 自分の茶碗をだした
母がその茶碗に白湯を注ぐ
従兄はそれをゆっくりと飲む
私が近付くと 近付いた分だけ離れた
母が近付いても やはり離れた

離れた分が従兄の愛で 離れた分の寂しさをこらえた事が
私達の愛であった

ほどなくして従兄は死んだ
少年兵の戦死であった
屍は国旗に包まれることもなく
敬礼して見送るものもなく 焼かれた

生きている限り私達は従兄を愛し
愛し続けなければならない
嗚咽の中から母の声が私の体に入ってきた


■なにも言うことはない。詩がすべてを語っている。母は戦争の対極にあり、常に「反戦」である。人間は母から離れるほど、あるいは母を持てないほど、狂うのかもしれない。


数式


放課後、校庭に屈んで数学を教えてくれた上級生がいた。土に
書いた数式のひとつひとつを説明しながら、間違いを指摘した。

それは、その日廊下に張り出された私の試験の答案に対しての
ものであった。同じ学校に通っているというだけで、さして親
しくもなかった彼が、あの時なぜ、あれほどの熱意で私に教え
たのだろうか。そののちも、人にものを教わることは数えきれ
なく重ねてきたが、いまだに校庭に彫り込まれた数式ほどの真
摯な教え方に出会ってはいない。

遠い少年の日の夏、一人の上級生によって捺印された数式は、
いくたびか人生の転換を余儀なくされる折に、ふっと、土の
熱気を伴って甦り、大きく舵を切ってくれている。


■こういうことは、自分にもあったな、との思いで印象に残った作品。あるいは、少年期に特有の気まぐれだったのかもしれない。しかし、その時間は、あとから振り返ると、宝石のように輝いている。無垢ということが、人の心から消え、理解されなくなる年齢になっても、ひっそりと、懐かしい泉のように、そこにある。そんな印象の詩。

秋山さんのこうした詩と「詩壇」の「先鋭詩人たち」の詩は、ずいぶん違うように思える。その違いを一言で言えば、novelty(新しさ)への志向のある・なしのように感じる。先鋭詩人たちは、詩史の上での、「新しさ」を脅迫的に追い求めているように思えてくるのだ。詩史の上での「新しさ」の追求が実は、詩市場というごく小さなマーケットでの、新製品開発競争につながっているのではないだろうか。もう、とっくに市場は飽和状態で、新製品は出尽くしたのに、未だに、新しい詩のありかを探しているのだとしたら。この市場の特徴は、新製品が、優れているとは限らないことだ。むしろ、退行している気がするのは、ぼくだけだろうか。優れた詩は、いつでもどこか、懐かしいものではないだろうか。母なる世界の臥所からやってくるのだから。

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