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芭蕉の俳句(125)

日曜日、。ベランダのサボテンにほとんど、毎日のように、水をやり続けて、徐々に持ち直してきた。天辺に緑色の部分が少し出てきた。今日は、終日、ボーっとすごす。掃除だけした。

このところ、小野十三郎が、気になって、その詩論を読み返している。「短歌的叙情の否定」や「奴隷の韻律」といった詩論は、今、読んでも、衝撃的である。近代の限界が、各方面ではっきりしてきて、詩人や俳人、歌人に伝統回帰の傾向が見られるように思う。ぼく自身も、伝統系の結社で俳句を書く一方、俳句から、韻律や季節感、時間の重層性を、詩に取り込もうと、実験を重ねている。

小野十三郎の詩論を読むと、執拗な短歌嫌悪が見られる。この生理的な拒否反応は、ある面、理解できる。短歌には、自己陶酔や詠嘆、気持ちの悪いベタつきが現れる場合があるからだ。しかも、それが、短歌だけではなく、詩人の書く詩の中にも現れる場合があって、辟易することがある。小野の短歌批判の根源にあるのは、短歌の韻律と日本人の中にある権威主義の結びつきであるように思える。権威主義は、奴隷根性と言い換えてもいい。この端的な現われが、天皇制である。己一個として精神的に自立することができなくて、常に、己の外部に権威を求めるメンタリティ。権威の最終的なよりどころとしての天皇制。組織に行けば、こんな日本人はうじゃうじゃいる。いい歳をして、己を確立できない日本人と短歌のリズム/リリシズムには、内的な関連性がある。これが、小野の批判の本質であるように思える。己がないから、一挙に、戦時体制になだれ込むし、社会的所与を批判的に考えることもできない。

俳句の5・7・5のリズムは、ある意味で、覚醒が伴うので、短歌ほど嫌悪感をむき出しにしていないが、それでもやはり、短歌・俳句とワンセットで論じられ、俳句も消滅すべき「古い音楽」と見なされている。小野十三郎を近代主義者と観るべきなのだろうか。この点については、小野を読み込んでいるわけではないので、正確な判断は下せない。ただ、聴覚よりも視覚性を重視した考え方(造形性の重視)がテキスト重視の考え方につながり、現代詩が中に浮いてしまった一つの要因を作ったように思える。

他方で、小野十三郎の「奴隷の韻律」論は、アドルノとホルクハイマーの「権威主義的パーソナリティ」に通じるものがあるように感じる。その意味で、戦後現れた優れたファシズム論の一つではないか、とも思う。また他方で、小野十三郎を読むとき、韻文の理解が狭いことも感じる。小野の韻文の理解は、和歌・俳諧連歌・俳句・新体詩といった表の韻文の流れが中心で、ユーカラ・おもしろさうし(韻文に分類できるかどうかわからないが)や梁塵秘抄、閑吟集、狂歌、川柳、山家虫鳥歌といった韻文を検討した形跡がない。こうした韻文を検討したとき、何が見えるのだろうか。「奴隷の韻律の両義性」が、あるいは見えるのかもしれない。



乙州が東武行に餞す
梅若菜鞠子の宿のとろろ汁

元禄4年、大津での作。鞠子の宿は、東海道宿駅の一つ。駿河国、安倍郡(現静岡市丸子)にあり、とろろ汁が有名だった。

昔の旅は、ある意味で、命がけでもあったから、東海道を下る旅人に、旅の楽しみを数え上げる芭蕉の心遣いが、とてもいい餞になっている。こういう句を餞にもらったら、いい気分で旅に出られそうである。
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