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Cioranを読む(55)


■旧暦5月10日、土曜日、

(写真)無題

朝から蒸し暑い。ウェブチェックしてから、上野へ写楽展を観に行く。歌舞伎のブロマイドから始まっているが、表情豊かな大首絵や芝居の動きを表す全身の絵を観ていると、現代のコミックとの類縁性を感じる。意外だったのは、浮世絵に使われた色彩が植物性のものが多く、褪色しやすい点で、今に残っている色と当時は、鮮やかさにずいぶん、差があったらしい。写楽の絵は、江戸の庶民に受けるかどうかよりも、役者の存在に迫っていくような深みがあり、芸術家肌だったことがうかがわれる。

『七人のシェイクスピア』4巻読了。非常に面白かった。シェイクスピアが少年の頃のイングランドの宗教状況が具体的によく見えた。カトリック対プロテスタントの宗教対立が、日常では、まるで、日本の隠れキリシタンのような状況を作っている。大衆レベルでは、カトリックに親近感を持つものが多いが、国の方針がプロテスタントでカトリックを弾圧するという状況では、隠れキリシタンになっていくのだろう。シェイクスピアも、そうしたカトリック親派の一人だったという設定。



Quand on est sorti du cercle d'erreurs et d'illusions à lintérieur duquel se déroulent les actes, prendre position est une qusi-impossibilité. Il faut un minimum de niaiserie por tout, pour affirmer et même pou nier. Cioran Avuex et Anathèmes p. 35

行為というものは、過ちと思い違いの中で、繰り広げられるものだが、いったん、その圏域から離脱してしまうと、態度決定などはほとんど不可能になる。どんなことであれ、それを肯定するには、いや否定するのでさえ、最小限の愚鈍さが必要になる。

■シオランの隠者志向をよく表していると思う。たとえば、妻に隣の部屋にある林檎を取ってきてくれと言われて、本当にそこに林檎があるのか、と疑って態度決定ができないとすれば、夫婦の間になにか問題があるか、その人に精神的な問題がある場合だろう。シオランの言う「un minimum de niaiserie」(最小限の愚鈍さ)とは、実は、「信」の構造と関わっている。行為のベースには、それ以上疑うと社会関係が成立しない「信」、言いかえればイデオロギーのベースがある。「un minimum de niaiserie」とは、生活の全体を構成する条件であり、隠者でさえ、免れ得ないものなのである。隠者とて、隠者の生活があるからだ。ただ、一時的に、行為の圏域を脱するというのは、ベンヤミンの「決定の保留」と同じように、ある東洋的な賢さを付与することになるだろう。一時的に、生活の全体を俯瞰することになるからだ。



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一日一句(142)






一日の髭をなでたる晩夏光





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