verse, prose, and translation
Delfini Workshop
一茶を読む:七番日記(23)
2010-10-08 / 俳句
(写真)無題
早くも金曜日か。なにもアウトプットが出ていない。今さら焦ってもしょうがない。クーラーの分解掃除をオーダー。結構、混んでる。工事関係は、外注、外注で、電話受けているだけの受注メーカーはずいぶんピンはねしているんじゃないのか。川端の木槿はまだ咲いている。歩き煙草の多い夜。
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山里や昔かたぎの猫と萩 (文化八年九月)
■笑わしてくれるな。こんな発想、ほかの誰ができるだろうか。「昔かたぎの猫と萩」とは? なんだか、わかるようではないか。
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Sound and Vision
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L・Wノート:確実性の問題(16)
■旧暦9月1日、金曜日、、寒露
(写真)泉の鯉
昨日、介護認定の更新調査に立ち会う。認知症の長谷川式テストは厳しい結果が出たが、問題行動を起こすわけではないので、毎日ヘルパーを入れるのは、今後、難しくなるかもしれない。デイケアも週3回は難しいだろう。
この頃、哲学史や社会理論史を検討する必要性を感じる。マルクスならマルクスだけ、読んでいても、オタクになるばかりで、適切な理解には至らない。ヘーゲルやカント、トマス・アキナス、アリストテレスと検討していかないと、大きな流れの中にマルクスを位置づけることができない。独創的な解釈と頓珍漢な理解は、まるで別だからである。しかも、日本で、西欧の思想を検討するときには、「日本語の壁」がある。翻訳は、翻訳者が苦心惨憺して日本語に置き換えたものだが、その苦心があだになることもある。つまり、理論的な繋がりが、日本語に置き換えられたことで、見えなくなってしまうことがあるのである。
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判断の基になる判断、言い替えれば「確実性」をいかにして、われわれは獲得するのか。ヴィトゲンシュタインは、常識とはまったく異なった議論を展開していて興味深い。通常、われわれは、何かを判断するとき、何気に、経験に従って判断したと言う。ヴィトゲンシュタインは、これを否定する。判断ゲームの根拠に経験や過去の経験の成功を退けるのである。
127. Denn wie weiß ich, daß Einer zweifelt? Wie weiß ich, daß er die Worte 》ich zweifle daran《 so gebraucht wie ich? Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984
127. では、ひとが疑っていることを、わたしは、どのようにして知るのだろうか。「わたしはそれを疑っている」という言葉を、彼が、わたしと同じように、用いていることを、どのように知るのか。(それを考えてみればいい)
■「ひとが何かを疑っている」といういわば、心の状態を、「わたしはそれを疑っている」という言葉の使い方の認識問題にしているところが、やはり斬新だと思う。ある意味で、唯物論的とも言えるのではないか。ただ、われわれは、言葉の使い方を知るだけで、相手の疑いを判断しているわけではない。相手の目付や表情、声のトーンやイントネーション、ジャスチャーも含めた、全体的なもので判断している。その際、そう判断する根拠は、「過去の同一の経験あるいは、他者からの経験の伝聞」ではなかろうか。
恐らく、ヴィトゲンシュタインは、相手の目付や表情、声のトーンやイントネーション、ジャスチャーも、言語化された経験判断の命題として理解し(たとえば、「目付がきついときには、相手は自分の言うことを疑っている」といったように)、そうした判断命題の体系を問題にしているのだろう。意識の極北のような感じは受けるが…。
こうした経験判断の体系の中で、ムーアの挙げるような命題は、類似の役割を果たしている。それが「確実性」であり、世界像としての役割ということなのだろう。
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Sound and Vision
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