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L・Wノート:確実性の問題(22)


(写真)Basel旧市街にて

朝、起きたら、のどががらがらであった。この数日、調子が悪いと思ったら、風邪であったか。

11月下旬に行うレクチャーのだいたいの骨子ができた。テリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』がよくまとまっているので、これをレビューしながら、イデオロギーの歴史を俯瞰し、ヴィトゲンシュタインの「確実性の問題」をイデオロギー論の観点から読みなおし、マルクス・エンゲルスのイデオロギー論およびハンナ・アーレントの情報論との比較を通じて、「知と信」の問題を「知と信と社会関係の問題」として考察する。また、ロマン・インガルデンの文学作品の存在論的な分析をイデオロギー論的に読み替え、そのアクチャリティーを提示する。ここまでが、理論篇で、実際に、現存のイデオロギーを3つに絞って検討してみる。一つは、ケインズの分析に依拠しながら経済学のイデオロギー、二つは日本の経営思想のイデオロギー、三つは、最近のある論争の分析。実証主義を検察・マスコミの中核イデオロギーとして、触れられれば触れたいとも考えている。あまり時間がないので、どこまでできるか、わからないが…。



256. Anderseits ändert sich das Sprachspiel mit der Zeit. Wittgenstein Über Gewißheit p.170 Suhrkamp 1984

他方、言語ゲームは時間とともに変化する。

■これまでの議論から、言語ゲームは、行為ゲームでもあり、言語(判断)と行為は一体的に捉えられている。この把握は、マルクシズムのpraxisの概念と同じだと思う。ただ、マルクス・エンゲルスのように、精神的労働/肉体的労働の分離による精神労働の自律化とその社会関係への影響(ヴェーバーの問題とも重なる)という発想や社会関係の矛盾が世界像の根拠になっているという発想はない。これをどう考えるべきなのだろうか。ヴィトゲンシュタインは、日常生活のミクロレベルから発想する。そこでの行為を懐疑の終点と考える。そこに、結果的に確実性があると考える。たしかに、行為は、社会関係の中で生成しこれに規定されるが、社会関係から生まれる矛盾が世界像(イデオロギー)の根拠だと言う議論は、それ自体、一つの世界像だとも言えるのではないだろうか。つまり、われわれは、この命題をどのように論証すればいいのだろうか。

言語ゲーム(行為ゲーム)が時間の中にある、という256の議論に反論する人は少ないのではないだろうか。ただ、言語ゲーム(行為ゲーム)は、空間の中にもあるはずである。集団による社会的空間の形成や環境による物理的な空間の形成が、言語ゲーム(行為ゲーム)を規定する面は、考慮する必要があるのではないだろうか。行為は常に集団を前提にしている。

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