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L・Wノート:確実性の問題(13)


■旧暦8月23日、木曜日、、一遍忌

(写真)無題

午前中、エアコンの分解掃除に立ち会う。歯科医に作ってもらったマウスピースは、一週間で紛失。新しい事を習慣にしたり、何かを管理するのは、たとえ身近なことであっても、ごく簡単なものであっても、もう無理なんだなと実感する。記憶が、超短時間しかもたないと、日常の行動は、かなり、シュールになる。当人からすると、不思議な世界になる。しかし、叔母と話していると、その世界のシュールさ、不思議さに笑い合うことが多い。認知症というのも、人の一つの在り方なのだろう。



100. Die Wahrheiten, von denen Moore sagt, er wisse sie, sind solche, die, beiläufig gesprochen, wir Alle wissen, wenn er sie weiß.   Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

ムーアが知っていると主張する真理は、ムーアがそれを知っているならわれわれも皆知っている、と言ってもかまわないような真理である。


101. So ein Satz könnte z.B. sein: 》Mein Körper ist nie verschwunden und nach einiger Zeit wieder aufgetaucht.《   Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

たとえば、次のような命題がそうだろう。「わたしの身体は、一度、消滅して、しばらくしてから、また現れたなどということはない」


102. Könnte ich nicht glauben, daß ich einmal, ohne es zu wissen, etwa im bewußtlosen Zustand, weit von der Erde entfernt war, ja, daß Andre dies wissen, es mir aber nicht sagen? Aber dies würde gar nicht zu meinen übrigen Überzeugungen passen. Nicht, als ob ich das System dieser Überzeugungen beschreiben könnte. Aber meinen Überzeugunge bilden ein System, ein Gebäude.   Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

あるとき、わたしは、意識を失ったか何かで、知らないうちに大地を遠く離れたことがあり、他人は、それを知りながら、わたしには教えてくれなかったのだと、わたしが信じ込むこともあるのではなかろうか。だが、これは、わたしの抱くほかの確信とは、絶対に、相いれないだろう。わたしが、こうした確信の体系を記述できるというのではない。にも関わらず、わたしの確信は、一つの体系、一つ構造をなしているのである。

■「確信」の性格の一つ。確信は、一つ一つ、独立しているのではなく、体系や構造を形成している。これに付け加えたいのは、確信は個人的なものではなく、社会的なものである、ということ。それは、懐疑を遮断するのが、行動だというヴィトゲンシュタインの議論とも関連する。30歳の頃、強度のストレスから、社会的な確信体系が、崩壊する危機に直面した。このとき、狂気の世界に入ったのだと思うが、ふたたび、確信体系の世界に戻れたのは、父親という完全に信頼できる人格が確信体系への媒体になったためと、面白いことに、精神科医の次の一言だった。「だれでも、そういうことは起きます」。正常と異常の区分は、慎重になされるべきだが、一つの基準として、社会的な確信体系の有無があげられると思う。ただ、「異常な人」も一つの人間の在り方だとは思う。


103. Und wenn ich nun sagte 》Es ist meine unerschütterliche Überzeugung, daß etc.《, so heiß das in unserm Falle auch, daß ich nicht bewßt durch bestimmte Gedankengänge zu der Überzeugung gelangt bin, sodern daß sie sochermaßen in allen meine Fragen und Antworten verankert ist, daß ich nicht an sie rühren kann.   Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

そして、「○○がわたしの揺るがない確信である」と言うとすれば、、今問題にしているムーアのケースも含めて、それは、次のことを意味するだろう。わたしは、一定の思考過程を経て、意識的に、その確信に至ったのではなく、ことさら言及できないほど、わたしの問いと答えのすべてに、その確信は深く浸透しているのである。


■これは、アウグスティヌスやデカルトの意識的な懐疑の方法と、その結果得られた確信の命題「cogito ergo sum」への根本的な批判になっている。確信は、意識的な操作で得られるものではない。すでに、確信は、問いと答えのうちに深く浸透している。そもそも、懐疑を行うには、何らかの確信が前提になければならないだろうと。






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9月29日(水)のつぶやき

16:50 from web
grass flowers -/ children of god/ often smile #haiku #poetry
17:07 from web
a poet/ from the downtown// autumn sunset #haiku #poetry
17:18 from web
a song -/ a moon in the sky/ a river on the ground #haiku #poetry
17:20 from web (Re: @gliztz
@gliztz thank you for the retweet.
by delfini_ttm on Twitter
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