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飴山實を読む(171)

■旧暦3月11日、土曜日、

(写真)上野にて

パリのマエストロに定期的に、英語俳句とドイツ語俳句を送信しているのだが、昨日、返信があって、この数カ月エジプトなど数カ国に演奏旅行だったという。エジプトと聞いて、どうも、アファナシエフの演奏と結びつかなかったのだが、アレキサンドリアなどの古代からの国際都市を持つ土地なのだから、聴衆もいい耳を持っているのかもしれない。

嬉しかったのは、ぼくの俳句を選句してくれたことで、通常、俳句の選句は、俳句そのものを選ぶ。ところが、マエストロの選び方は、面白く、気に行ったフレーズを選び出してくる。なので、一行だったり、二行だったりが、選ばれている。これは面白い。たぶん、俳句を詩と捉えて、詩の中の気に行ったフレーズを引用する感覚なのだろう。この選句に刺激されて、短い欧文の詩も書いてみようかという気になった。

マエストロは、この一ヶ月、相当数の詩を書いたらしく、その一部を送ってくれると言う。ロシア語になると思うが、できれば、ここで、日本語に直してみたいと考えている。



音楽の話で言うと、最近、新鮮な体験をした。クセナキス(1922-2001)の音楽を始めて生で聴いたのである。クセナキスは、20世紀初頭に生まれた欧州人の一つの典型的な人生行路を示している。ルーマニア生まれのギリシャ人。おそらくユダヤ系。1940年、ギリシャに戻り、アテネ工科大学入学。建築と数学専攻。この年、ムッソリーニのイタリア軍がギリシャに侵攻、44年にヒットラーのドイツ軍が侵攻、続いて、イギリス軍が侵攻。中道右派政権が樹立するが、ギリシャ人民解放軍との間に対立が起き内戦状態になる。このとき、クセナキスは、人民解放軍の学生大隊の指揮官として戦闘に従事。45年、ビル防衛中にイギリス軍の流れ弾を被弾。左目失明、顎に大怪我。47年、アテネに潜伏後、パリ経由でアメリカへの亡命を試みる。ギリシャでは、欠席裁判で、政治的テロの罪で死刑判決を受ける。ギリシャで父と兄弟が強制収容所に収監。パリでは、建築家、ル・コルビュジエのアシスタントとして働く。同時に、オネゲル、ミヨーに作曲を師事。51年、オリヴィエ・メシアンに師事。このとき、クセナキスは、メシアンから、こんな助言を受けている。自分(クセナキス)は対位法や和声、楽曲分析などの作曲の基礎教育を体系的に学んでいないので、勉強した方がいいでしょうか、とメシアンに聞くと、クセナキスの作曲の才能を認めたメシアンは「きみは、建築と数学を学んでいるから、これを生かして作曲した方がいい」と助言したという。クセナキスは、16歳のときに、アリストテレス・クンドゥロフから作曲の基礎教育は受けている。建築家としても、54年にラ・トゥレット修道院プロジェクトに参加。58年にはブリュッセル万博でフィリップス館の設計を行っている。

現代音楽は、嫌いではないが、積極的なリスナーではなかった。ときたま、CDでジョン・ケージやルイージ・ノーノ、細川俊夫などを聴く程度で、演奏会に行く気にはなれなかった。CDで聴くと、あまり面白くないのだ。しかし、先日のクセナキスは違った。現代音楽こそ、ライブで聴くべき音楽なのかもしれない。最初に演奏された「ピソプラクタ」では、いきなり、すべての弦楽器奏者が、楽器のボディを手のひらで叩きだしたのには唖然とした。ポアソン分布やブーリアン代数などの確率理論やゲーム理論を取り入れて緻密な作曲を行うのに、できあがった曲はどれも、どこかユーモアが底に流れていて、思わず笑ってしまう。現代音楽は、笑いの要素が極端に少ないというのが、ぼくの印象だが、クセナキスはちょっと違う印象を持った。ただ、音の建築家の異名を持つだけあって、音で空間すべてを埋め尽くそうという意志を感じる。曲の中にポーズがなく、音は間断なく何かを形成し続け、突然、終わる。



現代音楽の話を書いていて、思ったのは、吉本隆明が、親鸞を論じる中でよく使っていた「往路」、「還路」という概念である。これは、親鸞論を読んでいるときには、正直、よくわからなかった。最近、吉本の「近代日本文学の名作」という文庫を読んで、わかりやすい例にぶつかり、ああ、そういうことかと思った。吉本によると、芸術には実験を繰り返し、民衆の意識から離れてゆく「往路」と民衆の意識に戻って来る「還路」があるという。還路の典型的な例を中原中也の詩に見ている。平明でありながらいくらでも深く読みこめるからだ。現代音楽では、新実徳英とアルヴォ・ペルトの音楽が、じゃっかん、「還路」の響きを持っていると思う。大方の現代音楽は、往路の途上にあって、還路の存在を忘れている。文学では、先日亡くなった井上ひさしが、あのモットーを読む限り、還路に自覚的な作家だったように思う。ぼくの感じでは、俳句の偉大さは、大いなる還路を行くところにあるように思う。還路の中での実験が、俳句の俳句たるゆえんで、往路を突き進むと、(現代)詩の領域へ入るのだと思う。




大雨のあとの明るさ桐咲けり
   「俳句研究」平成九年八月

■雨上がりの明るい空に桐の花が咲いている。それだけだが、幸福な気分になる。紫の花が雨に洗われてしずくが見えてくるようだ。



Sound and Vision

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