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飴山實を読む(169)

■旧暦3月7日、火曜日、、穀雨

(写真)無題

朝から病院。今年は寒いので、まだ桜が散りきらずに残っている。河岸では、釣り人が何人も糸を垂れていた。曇りであった。もろもろ、元気が出ず。

T.S Eliot(1888.9.26 - 1965.1.4)の「荒地」を読み返している。Eliotは、モダニズムの詩人とされているが、それは、日本への受容の仕方が、モダニズムの文脈だっただけであって、Eliot自身は、モダニズムの詩人ではない。モダニズムへの批判・疑問を内包した反モダニズムの詩人である。パリ留学時代に早くもルカーチ(1885.4.13 - 1971.6.4)の「魂と諸形式」を読み、大戦中はイギリスでマンハイム(1893.3.27 - 1947.1.9)とキリスト教系の社会改革運動に参加している。ルカーチ、マンハイムと問題意識を共有する反近代的な感性を持っていたのは間違いないだろう。戦後、日本へは、「荒地」派がEliotを紹介するが、Eliotの「荒地」の響きは、大戦後の空虚な精神風土と感覚的に響きあい、のちに、戦争の原因を日本の近代化の遅れた精神風土に帰する文脈に回収されたのだろう。詩「荒地」を読むと、伝統は否定されず、「引用」されている。Eliotは、マンハイムやルカーチとならんで、実は、今、読まれるべきポストモダンの詩人なのだと思う。Eliot自身の置かれた状況は、現在とかなり近いからである。

こう考えたとき、Jackson Pollock(1912.1.28 - 1956.8.11)という画家も、アメリカモダニズムの元祖とされているが、疑わしくなってくる。モダニズムは、伝統を否定してはじまるが、アメリカ絵画にそもそも伝統はない。アメリカという国家も、いきなり近代からはじまっている。Pollockの画業は、制作の仕方も含めて、近代的な絵画そのものの否定ではなかったか。ぼくには、Pollockは、自分の置かれた社会への抗議として絵画を制作したように思われて仕方がない。いや、その人生そのものが、近代への反抗だったように思える。その意味で、Pollockは近代批判の画家と思えるのである。




緑陰にひろひ読みして涅槃経
   「俳句研究」平成九年七月

■涅槃経。読んだことはないけれど、惹かれる。原始仏典の一つらしい。緑陰で仏典を読む休み。実現したいものである。



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