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飴山實を読む(168)

■旧暦3月6日、月曜日、

(写真)椿

珈琲の代用だからだろうか、アッサムが好きになってきた。今日は、マッサージさんからの電話で起きる。昨日、天気が良かったので、叔母のリハビリに周囲を回ったのだが、なんと、それだけで、足首を捻挫してしまったのである。マッサージしていて、明らかに怪我をして熱を持った部位があるとの電話だった。あらましを説明してから、駆けつける。両足に浮腫が出たので、運動をさせるべく、キャリーを押しながら、20分くらい歩いてもらったのだが、体重が増えたので、足にかかる負担が増え、捻挫の一つの原因になったと思える。運動不足は、いろいろな意味で障害を引き起こす。午後は、叔母の湿布や衣類などの買い物で終了。疲れた。このところ、介護関係で、仕事ができない。弱ったものだ。



土曜は、哲学塾。かなり面白かった。I先生の本の出版記念講演だった。二つ感じた。一つは、ある理論や説が「世界化」するときには、その主唱者の所属する集団の政治性が影響すること。たとえば、社会学の出自について、これまで、政治経済学から生まれたという説が優勢だった(言いかえれば、社会学の哲学的出自とその批判的な含意が忘却された)が、これは、戦後、パーソンズの社会学が「世界化」したことと関係がある。この裏には、パーソンズの所属するアメリカの第二次大戦での勝利とその資本主義文明の世界化がある(確か、旧社会主義圏では、社会学はブルジョア科学の典型とみなされていたと記憶する)。面白いのは、「世界化」には「反世界化」とでも言える対抗の流れが伏流水のように常に存在することで、これが、ある政治的な条件下で顕在化する。その典型がルカーチ、マンハイム、マリノフスキー、エリアス、ズナニェツキなどの東欧の社会学で、その出自を哲学に持ち、反近代を共通の感性基盤としている。これらの社会学者たちが、「世界化」するには、68年の五月革命をきっかけにした世界的な体制批判運動の出現という政治的な条件が必要だったと思われる。このとき、パーソンズ社会学は、アメリカ内部からも、その体制擁護的で静態的な分析アプローチをミルズやグールドナーから批判される。

もう一つ感じたのは、老人は理論構築するのか、といういささか変わった問題意識である。これは、ぼくの個人的な関心から、先生の話を聞いて思ったにすぎないのだが、理論を含む文明を形成する主体の年齢に注目したとき、たとえば、キリスト教文明は、若者の文明とは言えまいか。どういうことかというと、社会的世界・文化的世界と自然的世界とが明確に区別して把握されているからである。そこにある感覚は、人間は自然とは異なり、自然の推移は、社会的世界・文化的世界とは共振しない、というものだろう。これは、身体が若いから感受できる世界像ではなかろうか。年齢を平均寿命から逆算して、若者/老人と考えたとき、肉体が衰えると、心身と自然との共振関係は深くなる。外部自然の移ろいに無関心ではいられなくなるのだ。日本的な感性は、この意味では、老人的な感性と言えるかもしれない。俳句や短歌、近代詩によくそれが現れている。ただ、これは、世界史的に見てspecialなものだったとも言えないように思う。キリスト教以前のケルト文化や、アフリカ、北米インディアン、中南米インディオ、アジアの文化などは、自然と人間が相互に浸透したところに成り立っているとも言えるのではなかろうか。

ルカーチ、マンハイム、マリノフスキー、エリアス、ズナニェツキの晩年の理論構築に興味を覚える。




湯豆腐やあをぞらながら松の声
   「俳句」平成九年一月

■「松の声」という言葉を知った。松風の音。松籟、松韻とも。この湯豆腐は、どこかの料亭で食しているのであろうか。この俳句からは、どことなく、命の根源的な寂しさのようなものを感じて惹かれた。



Sound and Vision

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