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往還日誌(173)






■7月1日、雨。朝、区役所の保険年金課に電話。その後、区役所へマイナカードの申請に。私も、とうとう、マイナカードを作ることに。これがないと、非常に不便になってきた。区役所の職員の方がノートパソコンで写真を撮ってくれて、その場で、申請書ができあがる。ポストに投函して、川崎のマイナカード作成センターまで送って、1ヶ月かかるという。

堀川今出川の鶴屋吉信まで歩いて、千葉に菓子を送る。その後、南下して、大垣書店で定期購読の雑誌を受け取り、私の詩集『二○物と五つの場の言葉』が3冊入っていることを確認。ポップアップを立ててもらえるようお願いする。

隣接するカフェ、Slow Pageでランチ。また、カレーを食べた、カツカレー。意外に美味しかった。

フレスコで野菜ジュース、レモン果汁などを買って、一条通から、御所を横切って帰宅。

御所の中で、試みに、歩く瞑想を行き帰りに行う。ひとがいないので、意外に集中してできた。

YouTubeで地橋さんの解説を観ると、かなり、緻密にセンセーションを分析してやっている。靴を履いていると、それはなかなか、難しい。

京都へ戻ると、18日付で、三枝先生から封書が届いていた。私の詩集の感想が丁寧に述べられており、恐縮する。

先生は、トラークルが専門だが、広く、ドイツ詩に造詣が深く、リルケの詩「紫陽花(Hortensie)」と私の詩「紫陽花」を比較している。

リルケと比較してもらえるのは、光栄なことである。

リルケの詩は、Blaue Hortensie、つまり、「青い紫陽花」というタイトルになっている。

私は、リルケのこの「青い紫陽花」という詩は知らなかった。しかし、リルケも私も、たまたま、咲き終わった紫陽花を描いている。

リルケの詩をざっくり訳すと:

青い紫陽花

最後の緑がパレットに残っているかのように
その葉は、乾いて、鈍く、ざらざらしている。
青を帯びることなく遠くから反射するばかりの
花房の背後で。

花房は涙に滲んだ青を反射している。
まるで花房はもう一度青を失いたいかのようだ。
そして古い青い便箋に書かれたように
黄色や紫、灰色がそこに混じっている。

子どものつけたエプロンのように色あせたもの。
もう何の変化もしない色のないもの。
小さな命の短さを感じるかのように。

しかし突然、その青が花房の一つの中で新しくなったように見える。
そして、緑を前に感動的な青が喜んでいるのが見える。

Blaue Hortensie

So wie das letzte Grün in Farbentiegeln
sind diese Blätter, trocken, stumpf und rau,
hinter den Blütendolden, die ein Blau
nicht auf sich tragen, nur von ferne spiegeln.

Sie spiegeln es verweint und ungenau,
als wollten sie es wiederum verlieren,
und wie in alten blauen Briefpapieren
ist Gelb in ihnen, Violett und Grau;

Verwaschenes wie an einer Kinderschürze,
Nichtmehrgetragenes, dem nichts mehr geschieht:
wie fühlt man eines kleinen Lebens Kürze.

Doch plötzlich scheint das Blau sich zu verneuen
in einer von den Dolden, und man sieht
ein rührend Blaues sich vor Grünem freuen.

この詩は、訳すとよくわかるが、非常によく考えられている、いい詩だと思う。

そして、リルケは、枯れた紫陽花をよく観察している。

この名詩のあとに、私の「紫陽花」を並べるのは、気が引けるが、あえてやってみよう。

紫陽花       

紫陽花の終り方は激しい。花のミイラ――怒りはすでに脱臼している。花びらは端から錆びて水の衣が天へ還る。白が去ったあとの白。雨――一花の夜は守られる。紫陽花の終わりは美しい。夜が破れそこに時があふれる。みどり、白、青、紫、夜――過去がいまとなりいまは過去となり色彩が花の面影となる。壮絶な枯れ方。一片の嘘もない、一片のユーモアもない、一片の詩もない。

三枝先生は、こう述べている。

「その多くは、散文詩の形態をとり口語長ながら内在的なリズム感もあります。例を『紫陽花』にとりますと、――紫陽花と言えばリルケの、同じように咲き終わった後のそれを描いた同名の詩(Hortensie)を思い出させますが、それとはまったく異なり、戦慄的とまで言って良いような感動を覚えさせます」。

かなり評価していただいている。そこは率直に嬉しいが、他方で、この私の「紫陽花」については、詩人の野村喜和夫さんから、「ユーモアのある、笑わせる詩である。思わず笑ってしまった」というコメントをいただいている。

要は、この詩の畳みかけるようなリズムが、笑いを誘うというのである。たしかに、繰り返し読んでいると、特に最後の部分で、笑えて来る。

笑いを計算したわけではないものの、あえて「ない」を繰り返したことで、ある種のおかしみが生じたことがわかる。



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一日一句(5288)







年寄れば日々忙しき裸かな






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