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Pascal 『Pensées』を読む(27)


■旧暦1月11日、木曜日、

(写真)無題

今日も異常に寒い。故障が続いて参った。パソコン、プリンター、ヒーター、ドアチャイム、水道蛇口。いつの間にか、暖房器具は、全部電化製品になってしまって、うまく、東電に乗せられた。

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寝る前に、『カムイ外伝』と司馬遼太郎の短編集『最後の伊賀者』を読んでいる。どちらも読ませるが、絵の迫力と面白さでは、さすがの司馬さんも、白土三平にはかなわない。文学性にこだわらないコミックの強みだろうか。二人の影響関係は、どうなっていたのか、気になるところ。



Les pères craignent que l'amour naturel des enfants ne s'efface. Quelle est donc cette nature sujette à être effaée?
La coutume est une seconde nature qui détruit la première. Mais qu'est-ce que nature? Pourquoir la coutume n'est-elle pas naturelle? Léai grand peur que cette nature ne soit elle-même qu'une première coutume, comme la coutume est une seconde nature.
Pensées 117

父たちは、子どもたちの自然の愛が消えてしまわないかと恐れている。では、消えてしまうかもしれないこの自然とは何だろうか。
習慣は、第二の自然であり、第一の自然を破壊する。だが、自然とは何なのだろうか。なぜ習慣は自然ではないのか。ちょうど、習慣が第二の自然であるように、自然それ自体も第一の習慣でしかないのではないか。


■パスカル(1623-1662)の生きた時代は、ガリレオ(1564-1642)、デカルト(1596-1650)、ニュートン(1642-1727)の時代とも重なり、ちょうど、自然科学の勃興期にあたる。自然が近代的な意味で、テーマ化されてきた時代でもある。このときの自然、natureは外的な存在である。

パスカルのnature、naturelの使い方は、習慣と対比されるので、さしあたり、内的自然と言っていいものだろう。この断章117は、自然と社会の関係を扱っているが、自然科学が成立してゆくプロセスでは、このテーマは排除され、社会と切り離された外的自然が現れてくる。パスカルの問題は、自然は社会が形成する、という現代的なテーマである。パスカルのnatureやなnaturelの使い方を見ると、自然科学の勃興期ということもあって、まだ、はっきりと、内的自然と外的自然の区分は、なかったように思う。こう考えると、パスカルの問題圏には、マルクスも当然入って来る。内的自然という系譜では、ルソー、カントに引き継がれ、心理学や精神分析のモチーフとなり、外的自然は自然科学がもっぱら引き継いでゆくことになったのだろう。

柳父章が面白い指摘をしている。明治にnatureあるいはnaturelという言葉が入ったとき、日本には、すでに「自然」という言葉が存在し、それは「元来の、もともとの、自ずから」といった人為の加わらない状態を指していたという。明治に輸入された「自然淘汰」という概念は、日本的文脈で解釈されると「自ずから淘汰される」という意味で、natural selectionの「自然によって選択される」という意味とずれが生じる。同じように、自然主義naturalismも、ありのままの自己を赤裸々に語るという意味で解釈されてしまうが、ゾラが提唱したのは、自然科学の方法で、文学を書くということだった。

19世紀、20世紀になると、ヨーロッパのnatureの意味も、自然科学の興隆に歩調を合わせるように、「外的な自然」が主流になってくるが、もともとは、やはり、日本同様、人為の加わわらない状態も指したと思う。







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