verse, prose, and translation
Delfini Workshop
そらトびタマシイ
2006-12-21 / 本
水曜日、
。旧暦、11月1日。日差しはあれど、寒かった。
パソコンをビックカメラで購入。一度、メーカーを絞って、デスクトップをくまなく試してみたが、どれも条件に合わない。たとえば、キーボードの感触やキーの高さと幅、液晶モニタの反射具合、反応性能、メモリとHDDの容量などが、セットで揃えるとどこかに不具合が出る。そこで、スペックと信頼性、保証期間、アフターサービスの観点から、パーツごとにばらばらに揃えることにした。17万で、かなりのスペックが揃った。ビッグカメラには、部品組立相談コーナーがあり、そうとう親切にセレクションに付き合ってくれた。
◇
五十嵐大介のコミック『そらトびタマシイ』(講談社)を読んだ。優れたコミックは、現実異化効果があって、とてもいい気分転換になる。五十嵐大介には、期待している。だが、この作品集は、いまひとつだった。処女作はいろんな意味で、作者のポテンシャルが入っているので、まず、この作品集から読んでみる気になったのである。
絵は非常に上手い。少女マンガ系とも言えるようなタッチであるが、よく観ると、絵のダイナミズムは、やはり男性作者を感じさせる。ぼくが、いまひとつと感じたのは、幻想あるいは非現実的な物語に必然性が稀薄なところである。もう少し、言うと、現実から非現実につながるときのつなぎ目が、あまりにも自然すぎるのである。宙に浮いているのである。たとえば、諸星大二郎なら、そのつなぎ目が、論理や民俗学的な考え方で裏打ちされている。少々、その点で不自然でも、なるほど、こういう仮説を前提にしているかと、それはそれで、納得できる。しかし、五十嵐大介は、いきなり自然に髪に羽が生えてきたり、ごく自然に、犬と人の合体した少女が、そこにいるのだ。絵は上手だから、絵としてのインパクトはある。しかし、物語全体の構造に入り込めない。
それと、これは、なぜだか、上手く言えないのだが、このコミックには、暴力の匂いがある。これは、たとえば、「熊殺し神盗み太郎の涙」にあるような、人殺しや目玉を取り出す行為といった描写に暴力を感じるというよりも、もっと、違ったレベルにあるように思う。民話や神話にあるような無造作な暴力あるいは死の匂いが、このコミックの底流にはあるように感じるのである。このことの是非を述べたいのではなく、その底流の暴力的な何かが、民話や神話ほど、うまく昇華されてないように感じるのである。その結果、喉元に妙な不快感が残る。これは、暴力的なるものや死が「詩」になっていないためではないだろうか。別の作品も読むと、この辺りの違和感の正体がはっきりするかもしれない。
あとがきに、作者の食へのこだわりが見えて面白かった。週一回、その週分のパンは自分で焼いているらしい。
同じ作者の「魔女」も合わせて購入したので、タイミングを図って読んでみたいと思っている。

パソコンをビックカメラで購入。一度、メーカーを絞って、デスクトップをくまなく試してみたが、どれも条件に合わない。たとえば、キーボードの感触やキーの高さと幅、液晶モニタの反射具合、反応性能、メモリとHDDの容量などが、セットで揃えるとどこかに不具合が出る。そこで、スペックと信頼性、保証期間、アフターサービスの観点から、パーツごとにばらばらに揃えることにした。17万で、かなりのスペックが揃った。ビッグカメラには、部品組立相談コーナーがあり、そうとう親切にセレクションに付き合ってくれた。
◇
五十嵐大介のコミック『そらトびタマシイ』(講談社)を読んだ。優れたコミックは、現実異化効果があって、とてもいい気分転換になる。五十嵐大介には、期待している。だが、この作品集は、いまひとつだった。処女作はいろんな意味で、作者のポテンシャルが入っているので、まず、この作品集から読んでみる気になったのである。
絵は非常に上手い。少女マンガ系とも言えるようなタッチであるが、よく観ると、絵のダイナミズムは、やはり男性作者を感じさせる。ぼくが、いまひとつと感じたのは、幻想あるいは非現実的な物語に必然性が稀薄なところである。もう少し、言うと、現実から非現実につながるときのつなぎ目が、あまりにも自然すぎるのである。宙に浮いているのである。たとえば、諸星大二郎なら、そのつなぎ目が、論理や民俗学的な考え方で裏打ちされている。少々、その点で不自然でも、なるほど、こういう仮説を前提にしているかと、それはそれで、納得できる。しかし、五十嵐大介は、いきなり自然に髪に羽が生えてきたり、ごく自然に、犬と人の合体した少女が、そこにいるのだ。絵は上手だから、絵としてのインパクトはある。しかし、物語全体の構造に入り込めない。
それと、これは、なぜだか、上手く言えないのだが、このコミックには、暴力の匂いがある。これは、たとえば、「熊殺し神盗み太郎の涙」にあるような、人殺しや目玉を取り出す行為といった描写に暴力を感じるというよりも、もっと、違ったレベルにあるように思う。民話や神話にあるような無造作な暴力あるいは死の匂いが、このコミックの底流にはあるように感じるのである。このことの是非を述べたいのではなく、その底流の暴力的な何かが、民話や神話ほど、うまく昇華されてないように感じるのである。その結果、喉元に妙な不快感が残る。これは、暴力的なるものや死が「詩」になっていないためではないだろうか。別の作品も読むと、この辺りの違和感の正体がはっきりするかもしれない。
あとがきに、作者の食へのこだわりが見えて面白かった。週一回、その週分のパンは自分で焼いているらしい。
同じ作者の「魔女」も合わせて購入したので、タイミングを図って読んでみたいと思っている。
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クリエーター情報なし | |
講談社 |
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ブレヒトの政治・社会論
2006-11-08 / 本
水曜日、
。旧暦、9月18日。
この頃、mixiに書くことが多くなってしまった。親しい人に珈琲でも飲みながら、喫茶店で話しをするような感じで、書いている。
ここ何日か、借りてきたブレヒトの政治・社会論を読んでいる。ベンヤミンの友人であり、ベルリーナアンサンブルの創設者であり、詩にも劇にも興味を持っているので、期待していたのだが、今のところ、ぼくの中にあまり入ってこない。なぜ、入ってこないかを考えるのは、この場合、重要な気がしている。中に入ってきた断章には、たとえば、次のものがあった。
何が美しいのか?
美しいのは、ひとが困難を解決するときである。
したがって美しいのは行為である。ある音楽がなぜ美しいのかを語ろうとするとき、ぼくらは、そこではどういう行為が美しいのかを、問わなくてはならない。そのばあいぼくらは、音楽行為について語ることになる。美しい音楽行為は、困難を解決する音楽行為だ。このようにして成立する音楽は、ときによって、なおかなり長いあいだ美しいが、それはその困難の解決をうながした情緒が、くりかえし出現してくるからなのである。
こういう美の概念は過渡的なものであり、またさまざまな度合いをもっている。困難には深浅があり、持続の長短があり、大小があり、重要度の差異がある。困難の解決は、まったくそのつど異なって美しいのであり、永遠に美しいのではない。
『ブレヒトの政治・社会論』(河出書房新社 2006年 野村修ほか訳)p.167

この頃、mixiに書くことが多くなってしまった。親しい人に珈琲でも飲みながら、喫茶店で話しをするような感じで、書いている。
ここ何日か、借りてきたブレヒトの政治・社会論を読んでいる。ベンヤミンの友人であり、ベルリーナアンサンブルの創設者であり、詩にも劇にも興味を持っているので、期待していたのだが、今のところ、ぼくの中にあまり入ってこない。なぜ、入ってこないかを考えるのは、この場合、重要な気がしている。中に入ってきた断章には、たとえば、次のものがあった。
何が美しいのか?
美しいのは、ひとが困難を解決するときである。
したがって美しいのは行為である。ある音楽がなぜ美しいのかを語ろうとするとき、ぼくらは、そこではどういう行為が美しいのかを、問わなくてはならない。そのばあいぼくらは、音楽行為について語ることになる。美しい音楽行為は、困難を解決する音楽行為だ。このようにして成立する音楽は、ときによって、なおかなり長いあいだ美しいが、それはその困難の解決をうながした情緒が、くりかえし出現してくるからなのである。
こういう美の概念は過渡的なものであり、またさまざまな度合いをもっている。困難には深浅があり、持続の長短があり、大小があり、重要度の差異がある。困難の解決は、まったくそのつど異なって美しいのであり、永遠に美しいのではない。
『ブレヒトの政治・社会論』(河出書房新社 2006年 野村修ほか訳)p.167
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河出書房新社 |
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憲法九条を世界遺産に
2006-09-14 / 本
木曜日、
。旧暦閏7月22日。
どうにか、ネットに繋がった。しかし、腑に落ちない。外部環境に問題があったのなら、NTT局舎内で工事をしても不通のはずである。工事して繋がったということは、局舎内に問題があったということである。Yahoo! に工事の内容を問い合わせてみた。すると、面白いことがわかった。NTT局舎内にYahoo! 所有のADSL変換器が設置されている。その機器に、電話回線が差し込まれている。この機器を通すことで、ADSL信号に変換されているようなのだ。それで、工事というのは、結局のところ、別の差込口に改めて差し直した、ということらしい。新しい機器に交換したり新しい部品に交換したり、ということでもないような感じだった。これを実施するのになんと1週間。その時間の長さを批判すると、NTTとYahoo! との契約で最短1週間となっているという。「工事」という日本語の使い方とは著しく異なるように思うのだが。
ADSLは、外部の電波環境や局舎までの距離、ADSL変換器と電話回線の接続状態などに規定され、速度も接続も不安定になりやすい。9月中に、USENブロードバンドの光回線に変更する手続きを取った。
◇
太田光と中沢新一の『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)を読んだ。かなり面白かった。テレビの「太田総理、秘書田中」で、太田君には興味を持った。ぼくが受けた本書全体の印象は、二人は思想の両義性ということをよく知っていて、それを手放すことなく、考えを進めていこうとしている、というものだった。
(太田)実は僕も今回の対談で一番お聞きしたかったのが、宮沢賢治のことなんです。あれほど某物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか、そこがわからない。僕は賢治の作品を信頼するけれど、戦争は否定したい。そこが相容れない。おそらく賢治は満州事変なども肯定するわけです。ここで単に賢治が間違っていたのだと言ってしまえば簡単なんですが、彼ほどの感性を持った人間が間違っていたわけがないとも思える。少なくとも彼の書いているものを読むかぎり、彼の感性を信じたいと思う。彼の感性を信じるならば、むしろ田中智学の思想を「間違いだった」ですましてきた戦後の判断を疑うべきではないか。賢治を信じる限り、「田中智学は悪だった」ではすまなくなる。
(中沢)憲法の問題を考えるとき、宮沢賢治は最大のキーパーソンです。平和とそれがはらんでいる矛盾について、あれほど矛盾に満ちた場所に立って考え抜こうとした人はいませんからね。動物と人間の間の平和について考えていましたが、その背景には動物と人間との戦争という現実があり、その上で平和の実現は可能だろうかと考えました。ふつう戦争といえば人間同士の殺し合いのことばかり考えて、人間が動物を殺している現実にはみんな思いがいたりません。宮沢賢治は「戦争」をとても大きな概念でとらえていたわけですね。その上で、平和の意味について深く考えようとしていた。このあたりが戦後の平和思想との大きな違いなんだと思います。
(太田)…平和の問題というのは、最終的には、人間の持っている愛とは何かという問題に突き当たると思うんです。…
(中沢)…人間は愛情への恐れから、貨幣をつくり出したということにもなるでしょう。…
…ロシア革命に突き動かされていった人たちの書いたものなどを読むと、…しばしば崇高な愛を感じます。ハイデッガーの哲学だって、そういう愛と無縁ではないんですよ。…当時のすぐれたドイツの思想家でさえ、ナチズムの発想にはなにかよいものがあると認めていました。それは思想というものが、なんらかの形で愛に関わりをもっているからだと思います。ほんとうに微妙なんですよ。真理はいつも危険なもののそばにあって、それを求めると、間違った道に踏み込む可能性のほうが大きいんです。…
■以上、第1章の宮沢賢治と日本国憲法からランダムに抜き出してみた。いつもとは逆に太田君が突っ込み、それを中沢氏が広い視野から位置づけなおし、まとめている。幕間に置かれた太田君のモノローグも面白い。「笑い」の領域の深さも堪能できた。一つ思ったのは、二人は、平和をどう考えるかは、戦争を考えるより難しいという趣旨のことを述べている。ぼくが思うに、戦争の反対概念は平和ではない。それは幸福なのだと思う。

どうにか、ネットに繋がった。しかし、腑に落ちない。外部環境に問題があったのなら、NTT局舎内で工事をしても不通のはずである。工事して繋がったということは、局舎内に問題があったということである。Yahoo! に工事の内容を問い合わせてみた。すると、面白いことがわかった。NTT局舎内にYahoo! 所有のADSL変換器が設置されている。その機器に、電話回線が差し込まれている。この機器を通すことで、ADSL信号に変換されているようなのだ。それで、工事というのは、結局のところ、別の差込口に改めて差し直した、ということらしい。新しい機器に交換したり新しい部品に交換したり、ということでもないような感じだった。これを実施するのになんと1週間。その時間の長さを批判すると、NTTとYahoo! との契約で最短1週間となっているという。「工事」という日本語の使い方とは著しく異なるように思うのだが。
ADSLは、外部の電波環境や局舎までの距離、ADSL変換器と電話回線の接続状態などに規定され、速度も接続も不安定になりやすい。9月中に、USENブロードバンドの光回線に変更する手続きを取った。
◇
太田光と中沢新一の『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)を読んだ。かなり面白かった。テレビの「太田総理、秘書田中」で、太田君には興味を持った。ぼくが受けた本書全体の印象は、二人は思想の両義性ということをよく知っていて、それを手放すことなく、考えを進めていこうとしている、というものだった。
(太田)実は僕も今回の対談で一番お聞きしたかったのが、宮沢賢治のことなんです。あれほど某物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか、そこがわからない。僕は賢治の作品を信頼するけれど、戦争は否定したい。そこが相容れない。おそらく賢治は満州事変なども肯定するわけです。ここで単に賢治が間違っていたのだと言ってしまえば簡単なんですが、彼ほどの感性を持った人間が間違っていたわけがないとも思える。少なくとも彼の書いているものを読むかぎり、彼の感性を信じたいと思う。彼の感性を信じるならば、むしろ田中智学の思想を「間違いだった」ですましてきた戦後の判断を疑うべきではないか。賢治を信じる限り、「田中智学は悪だった」ではすまなくなる。
(中沢)憲法の問題を考えるとき、宮沢賢治は最大のキーパーソンです。平和とそれがはらんでいる矛盾について、あれほど矛盾に満ちた場所に立って考え抜こうとした人はいませんからね。動物と人間の間の平和について考えていましたが、その背景には動物と人間との戦争という現実があり、その上で平和の実現は可能だろうかと考えました。ふつう戦争といえば人間同士の殺し合いのことばかり考えて、人間が動物を殺している現実にはみんな思いがいたりません。宮沢賢治は「戦争」をとても大きな概念でとらえていたわけですね。その上で、平和の意味について深く考えようとしていた。このあたりが戦後の平和思想との大きな違いなんだと思います。
(太田)…平和の問題というのは、最終的には、人間の持っている愛とは何かという問題に突き当たると思うんです。…
(中沢)…人間は愛情への恐れから、貨幣をつくり出したということにもなるでしょう。…
…ロシア革命に突き動かされていった人たちの書いたものなどを読むと、…しばしば崇高な愛を感じます。ハイデッガーの哲学だって、そういう愛と無縁ではないんですよ。…当時のすぐれたドイツの思想家でさえ、ナチズムの発想にはなにかよいものがあると認めていました。それは思想というものが、なんらかの形で愛に関わりをもっているからだと思います。ほんとうに微妙なんですよ。真理はいつも危険なもののそばにあって、それを求めると、間違った道に踏み込む可能性のほうが大きいんです。…
■以上、第1章の宮沢賢治と日本国憲法からランダムに抜き出してみた。いつもとは逆に太田君が突っ込み、それを中沢氏が広い視野から位置づけなおし、まとめている。幕間に置かれた太田君のモノローグも面白い。「笑い」の領域の深さも堪能できた。一つ思ったのは、二人は、平和をどう考えるかは、戦争を考えるより難しいという趣旨のことを述べている。ぼくが思うに、戦争の反対概念は平和ではない。それは幸福なのだと思う。
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いまここに在ることの恥(2)
2006-08-27 / 本
日曜日、
。旧暦、閏7月4日。
来週、急に関西に行くことになって、その準備に追われている。医療奉仕に海外に行っていた友だちが帰国するので、みんなで集まることになった。
◇
『いまここに在ることの恥』のもう一つのテーマである「現代のファシズム」について述べる前に、「表現と時代との倫理的な関係」について、考えてみたい。
辺見さんは、1937年の南京大虐殺、1938年の国家総動員法公布という時代に注目して、この暗い時代に、たとえば、辺見さんの好きな太宰は何を書いていたかを問う。太宰は、「満願」という美しい掌編小説を書いていた。辺見さんは、次のように書いている。
「なるほど、うまいなあと私も感じ入る。けれども、うまいぶんだけ、ひっかかる。考えこんでしまう。状況と表現。状況と内面。時代と表現。そのことが、ひっかかってしょうがない。1938年の問題ではあるのですが、2006年のひっかかりとしても、これはある。もちろん、いかなる状況下にあっても『満願』のような物語はありうるし、作品として成立するでしょう。あるいはミニマムな人の常として、表現に値せずとはいえない。たぶん、そういってはいけない。だが、ひっかかる。大いにひっかかる。きょういいたいことの大事な点がここにかかわる。それはやはり恥にかかわるのです。(中略)いまは1938年ではありません、ですが、状況と表現の関係、ないしは時代と個の立ち居ふるまいの関係に苦しむのは無意味とはいえないと私は思うのです。私たちは『満願』を一幅の美しいスケッチとして読むことができます。しかし、『満願』の絵の近景や遠景に、国家総動員法や南京代虐殺といった光の屈折や血の臭いを想像し、必死で助けを求めただあろうはるかな遠音に耳をすますとき、時代を超えて恥はからだの内側から青痣のように浮きでてくるのです」(辺見庸著『いまここに在ることの恥』pp.147-148)
この本を読んで、まっさきに気になったのは、この箇所だった。二つの意味で気になった。一つは、ここに述べられているように、表現と時代の関係について。もう一つは、この本が描く世界と表現の関係について。
最初に述べたように、この本の読後感は暗褐色である。この本が描く世界の現実の中に、詩や俳句は居場所を持っているのか、というのが始めに感じた疑問だった。詩については、いくつも拮抗する作品や詩人をあげることがすぐにできる。たとえば、石原吉郎、鳴海英吉、トラークル。二次大戦を知らない賢治の作品の中にも、拮抗する作品は多くある。
夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業のはなびらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるへてゐる
宮沢賢治『春と修羅』第二集から
では、俳句はどうだろう。俳句は、南京大虐殺の前で、国家総動員法の前で、中国での人体実験の前で、カンボジア難民の前で、現代のファシズムの前で、どんな立ち居ふるまいをするのだろうか。次の句は、この春にぼくが書いた句である。
楽隊の後に楽隊チューリップ
正直言って、辺見さんの世界の中に、この句の居場所はないように思う。この句を辺見さんに見せたら、顔をしかめられそうな気がする。たまたま、自作を取り上げたが、現代に書かれている俳句は、どれもこれと似たような印象を受けるのではないだろうか。
だが、一方で、石原吉郎がシベリア抑留中に句会を行ったという話や金子兜太が戦場で句会を行ったという話は、どう理解したらいいのだろう。単に本土恋しいだけではないように思う。収容所での非人間的な扱いや仲間同士の密告・裏切りといった個々人がバラバラになっていくプロセス。戦場での死と隣り合わせ、といった孤独な極限状況が、逆に、本能的に人間の共同性回復へ向かわせたのではなかったか。句会が非人間的な日常の中で人間的な時間を回復する装置になっていたのではないか。
俳句が一見脳天気に見えるその裏には、世界の地獄があり、人と人の和解や人と自然の和解といった一瞬の現実とも一瞬の理念とも言える何ものかを表現することで、暗褐色の世界に拮抗しているようにも思えるのである。
虚子が戦時中どういう句を作っていたか。今度の関西旅行の車中で、確認してみたいと思っている。

来週、急に関西に行くことになって、その準備に追われている。医療奉仕に海外に行っていた友だちが帰国するので、みんなで集まることになった。
◇
『いまここに在ることの恥』のもう一つのテーマである「現代のファシズム」について述べる前に、「表現と時代との倫理的な関係」について、考えてみたい。
辺見さんは、1937年の南京大虐殺、1938年の国家総動員法公布という時代に注目して、この暗い時代に、たとえば、辺見さんの好きな太宰は何を書いていたかを問う。太宰は、「満願」という美しい掌編小説を書いていた。辺見さんは、次のように書いている。
「なるほど、うまいなあと私も感じ入る。けれども、うまいぶんだけ、ひっかかる。考えこんでしまう。状況と表現。状況と内面。時代と表現。そのことが、ひっかかってしょうがない。1938年の問題ではあるのですが、2006年のひっかかりとしても、これはある。もちろん、いかなる状況下にあっても『満願』のような物語はありうるし、作品として成立するでしょう。あるいはミニマムな人の常として、表現に値せずとはいえない。たぶん、そういってはいけない。だが、ひっかかる。大いにひっかかる。きょういいたいことの大事な点がここにかかわる。それはやはり恥にかかわるのです。(中略)いまは1938年ではありません、ですが、状況と表現の関係、ないしは時代と個の立ち居ふるまいの関係に苦しむのは無意味とはいえないと私は思うのです。私たちは『満願』を一幅の美しいスケッチとして読むことができます。しかし、『満願』の絵の近景や遠景に、国家総動員法や南京代虐殺といった光の屈折や血の臭いを想像し、必死で助けを求めただあろうはるかな遠音に耳をすますとき、時代を超えて恥はからだの内側から青痣のように浮きでてくるのです」(辺見庸著『いまここに在ることの恥』pp.147-148)
この本を読んで、まっさきに気になったのは、この箇所だった。二つの意味で気になった。一つは、ここに述べられているように、表現と時代の関係について。もう一つは、この本が描く世界と表現の関係について。
最初に述べたように、この本の読後感は暗褐色である。この本が描く世界の現実の中に、詩や俳句は居場所を持っているのか、というのが始めに感じた疑問だった。詩については、いくつも拮抗する作品や詩人をあげることがすぐにできる。たとえば、石原吉郎、鳴海英吉、トラークル。二次大戦を知らない賢治の作品の中にも、拮抗する作品は多くある。
夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業のはなびらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるへてゐる
宮沢賢治『春と修羅』第二集から
では、俳句はどうだろう。俳句は、南京大虐殺の前で、国家総動員法の前で、中国での人体実験の前で、カンボジア難民の前で、現代のファシズムの前で、どんな立ち居ふるまいをするのだろうか。次の句は、この春にぼくが書いた句である。
楽隊の後に楽隊チューリップ
正直言って、辺見さんの世界の中に、この句の居場所はないように思う。この句を辺見さんに見せたら、顔をしかめられそうな気がする。たまたま、自作を取り上げたが、現代に書かれている俳句は、どれもこれと似たような印象を受けるのではないだろうか。
だが、一方で、石原吉郎がシベリア抑留中に句会を行ったという話や金子兜太が戦場で句会を行ったという話は、どう理解したらいいのだろう。単に本土恋しいだけではないように思う。収容所での非人間的な扱いや仲間同士の密告・裏切りといった個々人がバラバラになっていくプロセス。戦場での死と隣り合わせ、といった孤独な極限状況が、逆に、本能的に人間の共同性回復へ向かわせたのではなかったか。句会が非人間的な日常の中で人間的な時間を回復する装置になっていたのではないか。
俳句が一見脳天気に見えるその裏には、世界の地獄があり、人と人の和解や人と自然の和解といった一瞬の現実とも一瞬の理念とも言える何ものかを表現することで、暗褐色の世界に拮抗しているようにも思えるのである。
虚子が戦時中どういう句を作っていたか。今度の関西旅行の車中で、確認してみたいと思っている。
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いまここに在ることの恥(1)
2006-08-24 / 本
木曜日、
。旧暦、閏7月1日。
辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社)を読んだ。この本の感想を何から始めればいいのか。とても、内容をきれいに説明して、それで良しとできる本ではない。この本は色彩で言えば、暗褐色。
時代の危機が一人の個人の危機として現れることはあると思う。この本は、脳溢血・癌という二重の病に見舞われた著者が、自分の極限を見つめることで、時代の極限を見つめた本だと思う。その極限の思索は、ジャーナリストだったときの経験や、同じように極限を見つめた他者の言葉を手がかりにしている。
大きく分けて、この本には、「倫理の麻痺をめぐる問題」と「現代のファシズムをめぐる問題」の二つの中心がある。倫理の問題では、たとえば、カンボジア難民を取材するジャーナリストの資本の論理(ジャーナリストは自分も含めて「糞ハエ」だ!)を批判する中から「恥」という概念が新しく鍛え直されてくる。それは、プリーモ・レーヴィの「人間であることの恥辱」といった考え方・感じ方やジョルジョ・アガンベンの「今きみが語っているその語りかた、それが倫理だ」という言葉と通底している。
この問題を語る辺見さんの逸話の中で、とりわけ強い印象に残ったのは、中国大陸で旧日本軍が人体実験をする話だった。生きた健康な中国人の人体に麻酔をかけて、五臓六腑、手足頭をバラバラに切断していく。この作業をルーティンとして医師や看護婦が淡々と進める。中国人は、自分がどうなるのか、知っているので、手術台に上がろうとしない。そのとき、日本人看護婦が「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」と優しくささやき、「患者」はうなずいて手術台にあおむいた。看護婦は医師をふりかえって<どうです、うまいものでしょう>といわんばかりに笑いかけ、ペロリと舌を出してみせた。この「ペロリ」のなんと恐ろしいことだろう。そして、その当時、その場に、日本人として、居合わせたとしたら、自分はどう行動していたか。それを想像することはもっと恐ろしい。
ぼくは、以前、辺見さんの「恥」ではないが、この概念に近いものとして、「原罪」という概念をブログで述べたことがある。宗教的な概念である原罪を社会科学的な概念に作り直せないか考えてみたのだ。
辺見さんの言う「人間の恥」は、人間であるがゆえにアプリオリに存在する恥であり、あるとき、ある場所で、ある行為に、人が恥を感じるというときの恥とは異なる。アプリオリな恥の感覚の鈍磨をするどく告発していて、敬意と共感を覚えた。この鈍磨は、社会全体の近代化と深く関わっているようにぼくは感じた。その意味では、「倫理の麻痺をめぐる問題」は近代批判ともなっている。
辺見さんの本については、他にも述べたいことがあるので、また、稿を改めて論じてみたい。

辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社)を読んだ。この本の感想を何から始めればいいのか。とても、内容をきれいに説明して、それで良しとできる本ではない。この本は色彩で言えば、暗褐色。
時代の危機が一人の個人の危機として現れることはあると思う。この本は、脳溢血・癌という二重の病に見舞われた著者が、自分の極限を見つめることで、時代の極限を見つめた本だと思う。その極限の思索は、ジャーナリストだったときの経験や、同じように極限を見つめた他者の言葉を手がかりにしている。
大きく分けて、この本には、「倫理の麻痺をめぐる問題」と「現代のファシズムをめぐる問題」の二つの中心がある。倫理の問題では、たとえば、カンボジア難民を取材するジャーナリストの資本の論理(ジャーナリストは自分も含めて「糞ハエ」だ!)を批判する中から「恥」という概念が新しく鍛え直されてくる。それは、プリーモ・レーヴィの「人間であることの恥辱」といった考え方・感じ方やジョルジョ・アガンベンの「今きみが語っているその語りかた、それが倫理だ」という言葉と通底している。
この問題を語る辺見さんの逸話の中で、とりわけ強い印象に残ったのは、中国大陸で旧日本軍が人体実験をする話だった。生きた健康な中国人の人体に麻酔をかけて、五臓六腑、手足頭をバラバラに切断していく。この作業をルーティンとして医師や看護婦が淡々と進める。中国人は、自分がどうなるのか、知っているので、手術台に上がろうとしない。そのとき、日本人看護婦が「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」と優しくささやき、「患者」はうなずいて手術台にあおむいた。看護婦は医師をふりかえって<どうです、うまいものでしょう>といわんばかりに笑いかけ、ペロリと舌を出してみせた。この「ペロリ」のなんと恐ろしいことだろう。そして、その当時、その場に、日本人として、居合わせたとしたら、自分はどう行動していたか。それを想像することはもっと恐ろしい。
ぼくは、以前、辺見さんの「恥」ではないが、この概念に近いものとして、「原罪」という概念をブログで述べたことがある。宗教的な概念である原罪を社会科学的な概念に作り直せないか考えてみたのだ。
辺見さんの言う「人間の恥」は、人間であるがゆえにアプリオリに存在する恥であり、あるとき、ある場所で、ある行為に、人が恥を感じるというときの恥とは異なる。アプリオリな恥の感覚の鈍磨をするどく告発していて、敬意と共感を覚えた。この鈍磨は、社会全体の近代化と深く関わっているようにぼくは感じた。その意味では、「倫理の麻痺をめぐる問題」は近代批判ともなっている。
辺見さんの本については、他にも述べたいことがあるので、また、稿を改めて論じてみたい。
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世界リスク社会論(3)
2006-07-31 / 本
月曜日、
。旧暦、7月7日。初秋のような風が一日吹き渡る。爽やかであり、少し不安でもある。終日、仕事。
「摂理」という韓国系のカルトが問題になっている。元原理研の幹部が教祖だと言う。全国の有名大学に勢力を拡大しているらしい。オームのときにも、洗脳やマインドコントロールが問題になったが、未だに、この手の似非宗教が跡を絶たない。今日の午後、家に「ものみの塔」の女性信者が2人勧誘に来た。輸血拒否事件を起こし、終末思想を説くいかがわしい団体である。選挙の投票拒否なども行っているようである。この2人はまだ若く、疑うことを知らない純粋な瞳をしていて、哀れを催した。だが、こうしたマインドコントロールされた信者にかける言葉があるだろうか。
「摂理」と同じでつまらんぞ、止めときなさい。聖書を勉強したいなら、自分でしなさい。いい歳をしているのだから、自分の頭で考えなさい。
「ありがとうございます」これが2人の返事である。
こうしたカルトを考えるとき、憂鬱になるのは、カルトが社会全体の縮図だからである。自分の頭で考えるように言ったが、一般の人でも、自分の頭で本当に考えられる人間などごく少数で、大多数はなにがしかの洗脳を受けている。会社にいれば会社の、学校にいれば学校の、家庭に帰れば家庭の、洗脳がある。そもそも資本主義社会にいれば金がすべてである(この点、アファナシエフなど、旧ソ連からの亡命者は西側の金銭万能のイデオロギーに実に敏感だった)。日夜、テレビや雑誌で欲望を刺激し、一定のライフスタイルに誘導されている。そうした消費行動の結果は、少数の多国籍企業や国家に富を集積することになるのだから、マインドコントロールされた信者がカルト教祖に貢ぐ構図と同じである。
ベックの「サブポリティクス(サブ政治)」の概念は、こうした企業や国家の権力を市民の側から再構築する可能性を示していて非常に興味深い。
【サブポリティクスとは何か】
ベックが本書『世界リスク社会論』で述べている「サブポリティクス」の概念は、必ずしも分かりやすくはないが、当該箇所を引用すると以下のとおりである。
「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムという代議制度の彼方にある政治を志向しています。…サブ政治は『直接的な』政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)をくぐり抜け、…政治的決定にその都度個人が参加することなのです。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。そのことによって、経済や科学や職業や日常や私的なことは、政治的対立の嵐にさらされることになります。この対立は、もちろん政党政治的対立という伝統的なスペクトルには従いません。したがって、世界社会的なサブ政治は、イシューごとにその都度形成される『対立の連合』がまさに特徴となります。しかし、決定的に重要なことは、サブ政治が政治的なものの規則と境界をずらし、解放し、ネット化し、交渉できるものにし、形成可能なものにすることで、政治を解き放つことなのです」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)pp.114-115、訳文は一部変更した)
【サブポリティクスの具体例】
1. グリーンピースの石油多国籍企業シェルに対するキャンペーン
・シェルが解体された採掘ボーリング島を大西洋に沈めずに、陸地で廃棄するように導いた
・世界中に演出されたテレビの告発を通じて、市民の大量のガソリンボイコットが発生し、シェルは屈服した。
・ドイツ首相コールは、グリーンピースを支持したイギリス首相メージャーを支持。
・ガソリンを入れるという日常行為の政治的な要素が突然発見された。
1-1 シェルの場合、問題解決のために、政府と専門家と行政から、海に沈める解決策への合意を取り付けたが、ガソリンボイコットにあって、市場が崩壊しかけた。ここから、ベックは、興味深い教訓を引き出す。「リスクの議論においては、専門家の解決はないということです。というのは、専門家はたしかにいつも事物についての情報は共有していますが、決してこれらの解決策のどれが文化的に受容されるかということは、判断することができないのです」(同書 p1.21)
2. フランスの核兵器実験再開に反対する反核実験運動
・各政府とグリーンピースとプロテストグループとのグローバルな連帯。
・米露参加のアセアンフォーラムと国際司教会議、スカンジナビア諸国政府首脳会議が連帯。
ベックの発想で興味深いのは、サブポリティクスが、多国籍企業・国家権力対社会運動という二項対立の図式に必ずしも収斂しない点である。この二つは連帯して、あるときには多国籍企業に対抗し、あるときには国民国家の政府やその政策に対抗する現実を捉えている。
ベックは、グローバルな直接的政治参加は、購買行動と投票用紙の統一の中に作り出されると述べる。「多国籍企業と各国政府の行為は、世界公共性の圧力にさらされるようになります。その場合、グローバルな行為連関への個人的、集合的参加が決定的なものになり、注目に値するようになります。市民はいつも、どこででも利用できる直接的な投票用紙である購買行動を発見するようになります。ボイコットするというアクティブな消費社会と直接民主主義が、世界的に結びつき、連帯するようになります」(同書 p.122)
【コメント】
ベックは「サブポリティクス」の領域に希望を見出しているように思える。確かにそういう面もあるように思う。反面、多国籍企業や国家のサブポリティクスに下からの市民のサブポリティクスが対抗できるようになるには、ベックが考えるほど簡単ではなく多くの条件をクリアする必要があるように思う。
たとえば、シェルの事件がテレビ報道されても、日本でガソリンのボイコットが起きたという話は聞いたことがない。環境問題を中心にした緑の党が日本ではまったく振るわない現象と通低するものがあるように思う。一言で言って、「他人事」なのだ。つまり自分の生活とシェルの問題がどこでどう繋がるかが見えない。見えても、切実な問題と思えない。つまり、シェルの問題が引き起こす「環境リスク」が、日本での直接行動を引き起こすには、この問題の持つリスクが切実であることが条件になるだろう。
パロマのガス湯沸器が、このところ、問題になっているが、パロマの製品ボイコットは起きていない。基本的には、この問題も「他人事」だからだろう。パロマの製品を使っている人は限られるし、このリスクを回避するには、別のメーカーの製品を買えばいいだけだからだ。パロマの製品ボイコットが起きるとすれば、買い替え時や新規購入時だろう。それによって、生産調整や人員調整が発生するかもしれない。だが、これでどこまで製品リスクが改善されるかは不透明である。
JR福知山線脱線事故についても、その後JRのボイコットが起きた形跡はない。JRの替わりに私鉄を使うとか、バスにするなどの代替手段を取るか、JRを使わざるを得ない場合には、先頭車両を避けるなどの措置を取っているように思える。この列車事故のリスクに対しては、市民が直接行動で関与するのではなく、企業と行政と専門家の連帯でリスク対応が進んでいるように見える。
リスクの切実性を比較的備えているのは、「米国産牛肉の輸入再開」問題ではないだろうか。多くの市民が、購入拒否というある種のボイコットに及ぶのではないかと思える。この結果、どういう事態が引き起こされるのか、興味深い。
市民のサブポリティクスが機能するには、市民のモラルや理念に期待しても無駄だと思う。当該のリスクが市民生活にとってどれだけ切実か、言い換えれば、リスクの平等性とグローバル性をどこまで備えているか、にかかっているように思う。下からのサブポリティクスを機能させるには、問題の持つ道義的な側面に訴えても難しく(ナイキのスエットショップを知っていても、安くなっていれば、ナイキを買うだろう)、問題と市民生活の連関の切実さをどれだけ喚起できるかによるのではないだろうか。
その意味で、ベックの「サブポリティクス」の概念は、リスクと市民生活との連関を明らかにするなんらかの媒体(オルタナティブメディアを含むテレビ、新聞などのメディア)が重要な意味を持ってくるのではないか。

「摂理」という韓国系のカルトが問題になっている。元原理研の幹部が教祖だと言う。全国の有名大学に勢力を拡大しているらしい。オームのときにも、洗脳やマインドコントロールが問題になったが、未だに、この手の似非宗教が跡を絶たない。今日の午後、家に「ものみの塔」の女性信者が2人勧誘に来た。輸血拒否事件を起こし、終末思想を説くいかがわしい団体である。選挙の投票拒否なども行っているようである。この2人はまだ若く、疑うことを知らない純粋な瞳をしていて、哀れを催した。だが、こうしたマインドコントロールされた信者にかける言葉があるだろうか。
「摂理」と同じでつまらんぞ、止めときなさい。聖書を勉強したいなら、自分でしなさい。いい歳をしているのだから、自分の頭で考えなさい。
「ありがとうございます」これが2人の返事である。
こうしたカルトを考えるとき、憂鬱になるのは、カルトが社会全体の縮図だからである。自分の頭で考えるように言ったが、一般の人でも、自分の頭で本当に考えられる人間などごく少数で、大多数はなにがしかの洗脳を受けている。会社にいれば会社の、学校にいれば学校の、家庭に帰れば家庭の、洗脳がある。そもそも資本主義社会にいれば金がすべてである(この点、アファナシエフなど、旧ソ連からの亡命者は西側の金銭万能のイデオロギーに実に敏感だった)。日夜、テレビや雑誌で欲望を刺激し、一定のライフスタイルに誘導されている。そうした消費行動の結果は、少数の多国籍企業や国家に富を集積することになるのだから、マインドコントロールされた信者がカルト教祖に貢ぐ構図と同じである。
ベックの「サブポリティクス(サブ政治)」の概念は、こうした企業や国家の権力を市民の側から再構築する可能性を示していて非常に興味深い。
【サブポリティクスとは何か】
ベックが本書『世界リスク社会論』で述べている「サブポリティクス」の概念は、必ずしも分かりやすくはないが、当該箇所を引用すると以下のとおりである。
「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムという代議制度の彼方にある政治を志向しています。…サブ政治は『直接的な』政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)をくぐり抜け、…政治的決定にその都度個人が参加することなのです。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。そのことによって、経済や科学や職業や日常や私的なことは、政治的対立の嵐にさらされることになります。この対立は、もちろん政党政治的対立という伝統的なスペクトルには従いません。したがって、世界社会的なサブ政治は、イシューごとにその都度形成される『対立の連合』がまさに特徴となります。しかし、決定的に重要なことは、サブ政治が政治的なものの規則と境界をずらし、解放し、ネット化し、交渉できるものにし、形成可能なものにすることで、政治を解き放つことなのです」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)pp.114-115、訳文は一部変更した)
【サブポリティクスの具体例】
1. グリーンピースの石油多国籍企業シェルに対するキャンペーン
・シェルが解体された採掘ボーリング島を大西洋に沈めずに、陸地で廃棄するように導いた
・世界中に演出されたテレビの告発を通じて、市民の大量のガソリンボイコットが発生し、シェルは屈服した。
・ドイツ首相コールは、グリーンピースを支持したイギリス首相メージャーを支持。
・ガソリンを入れるという日常行為の政治的な要素が突然発見された。
1-1 シェルの場合、問題解決のために、政府と専門家と行政から、海に沈める解決策への合意を取り付けたが、ガソリンボイコットにあって、市場が崩壊しかけた。ここから、ベックは、興味深い教訓を引き出す。「リスクの議論においては、専門家の解決はないということです。というのは、専門家はたしかにいつも事物についての情報は共有していますが、決してこれらの解決策のどれが文化的に受容されるかということは、判断することができないのです」(同書 p1.21)
2. フランスの核兵器実験再開に反対する反核実験運動
・各政府とグリーンピースとプロテストグループとのグローバルな連帯。
・米露参加のアセアンフォーラムと国際司教会議、スカンジナビア諸国政府首脳会議が連帯。
ベックの発想で興味深いのは、サブポリティクスが、多国籍企業・国家権力対社会運動という二項対立の図式に必ずしも収斂しない点である。この二つは連帯して、あるときには多国籍企業に対抗し、あるときには国民国家の政府やその政策に対抗する現実を捉えている。
ベックは、グローバルな直接的政治参加は、購買行動と投票用紙の統一の中に作り出されると述べる。「多国籍企業と各国政府の行為は、世界公共性の圧力にさらされるようになります。その場合、グローバルな行為連関への個人的、集合的参加が決定的なものになり、注目に値するようになります。市民はいつも、どこででも利用できる直接的な投票用紙である購買行動を発見するようになります。ボイコットするというアクティブな消費社会と直接民主主義が、世界的に結びつき、連帯するようになります」(同書 p.122)
【コメント】
ベックは「サブポリティクス」の領域に希望を見出しているように思える。確かにそういう面もあるように思う。反面、多国籍企業や国家のサブポリティクスに下からの市民のサブポリティクスが対抗できるようになるには、ベックが考えるほど簡単ではなく多くの条件をクリアする必要があるように思う。
たとえば、シェルの事件がテレビ報道されても、日本でガソリンのボイコットが起きたという話は聞いたことがない。環境問題を中心にした緑の党が日本ではまったく振るわない現象と通低するものがあるように思う。一言で言って、「他人事」なのだ。つまり自分の生活とシェルの問題がどこでどう繋がるかが見えない。見えても、切実な問題と思えない。つまり、シェルの問題が引き起こす「環境リスク」が、日本での直接行動を引き起こすには、この問題の持つリスクが切実であることが条件になるだろう。
パロマのガス湯沸器が、このところ、問題になっているが、パロマの製品ボイコットは起きていない。基本的には、この問題も「他人事」だからだろう。パロマの製品を使っている人は限られるし、このリスクを回避するには、別のメーカーの製品を買えばいいだけだからだ。パロマの製品ボイコットが起きるとすれば、買い替え時や新規購入時だろう。それによって、生産調整や人員調整が発生するかもしれない。だが、これでどこまで製品リスクが改善されるかは不透明である。
JR福知山線脱線事故についても、その後JRのボイコットが起きた形跡はない。JRの替わりに私鉄を使うとか、バスにするなどの代替手段を取るか、JRを使わざるを得ない場合には、先頭車両を避けるなどの措置を取っているように思える。この列車事故のリスクに対しては、市民が直接行動で関与するのではなく、企業と行政と専門家の連帯でリスク対応が進んでいるように見える。
リスクの切実性を比較的備えているのは、「米国産牛肉の輸入再開」問題ではないだろうか。多くの市民が、購入拒否というある種のボイコットに及ぶのではないかと思える。この結果、どういう事態が引き起こされるのか、興味深い。
市民のサブポリティクスが機能するには、市民のモラルや理念に期待しても無駄だと思う。当該のリスクが市民生活にとってどれだけ切実か、言い換えれば、リスクの平等性とグローバル性をどこまで備えているか、にかかっているように思う。下からのサブポリティクスを機能させるには、問題の持つ道義的な側面に訴えても難しく(ナイキのスエットショップを知っていても、安くなっていれば、ナイキを買うだろう)、問題と市民生活の連関の切実さをどれだけ喚起できるかによるのではないだろうか。
その意味で、ベックの「サブポリティクス」の概念は、リスクと市民生活との連関を明らかにするなんらかの媒体(オルタナティブメディアを含むテレビ、新聞などのメディア)が重要な意味を持ってくるのではないか。
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世界リスク社会論(2)
2006-07-22 / 本
土曜日、
。この天気の絵は、面白いけれど、天気の微妙な表情まで表せないので、飽きてきた。曇りや雨と言ったって、いろんな曇りや雨があろうに。斯く言うぼくもあまりその表現を知らないのだが、荷風でも読んで調べてみるか。
このところ、喫茶店では『芭蕉俳文集』を読むことに決めている。なるべく機械的な情報処理しないようにじっくり読んでいる。芭蕉の弟子と言えば、其角、去来、嵐雪など蕉門十哲くらいしか知らなかったが、この本を読むと、芭蕉のネットワークが非常に広かったことに驚く。さまざまな弟子がいて、面白い。山伏までいたのには驚いた。芭蕉を勉強する上で、発句、旅、俳諧連歌、俳論以外にも、弟子との関わりという切り口がありそうだと思う。
昭和天皇の不快発言をめぐる報道が面白かった。主要新聞の社説を見てみたが、産経以外は、小泉が靖国参拝を止めるべき論拠にしたがっている。つまり、昭和天皇の発言メモを新聞が一つの権威にしたがっている。発言メモの興味深いところは、己の戦争責任に対する感受性抜きに、松岡と白鳥のA級戦犯合祀に不快感を露にしている点だと思う。各新聞も天皇を戦争部外者にしてしまっている。人が人に敬意を抱くのは、その人の占める生得的な社会的地位に対してではない。その人の行為と思想に対してである。天皇が自らの戦争責任を認めたとき、本来の意味で「人」になれたと思う。昭和天皇は「奇妙な神」のまま逝った。
◇
【Individualisierung(個人化)】
この概念は、ベックの『世界リスク社会論』には、直接出てこなかったように思うが、訳者解説で、ベックの中核概念として、適切に説明されているので、少しまとめておきたい。
「…個人化は、近代化と密接にかかわっている。個人化とは、一般的には近代化によって、身分や地域の拘束から諸個人が解き放たれること、いわゆる近代社会の出現による個人の析出のことであると理解されている。ベックは、個人化を3つの次元に分けて考えている。1)伝統的な拘束からの解放 2)伝統が持っていた確実性の喪失 3) 新しい社会統合 伝統的拘束からの解放については、説明を要しないであろう。伝統が持っていた確実性の喪失とは、行為の拠り所となるような規範が失われることを指している。新しい社会統合の次元とは、個人化によってバラバラになったはずの諸個人が、逆に労働市場や教育制度、社会福祉制度のようなマクロな次元の制度に、まさに一人一人がバラバラになったことによって依存するようになり、組み込まれ、統制されるようになることを指している。パラドキシカルなことに、解体化は逆に統合化を生み出すというわけである。ベックは、近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考える…」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社2003年)の訳者解説(島村賢一)を基にした)
【個人化の弁証法の事例】ベックは、「個人化の弁証法」の具体的な事例として、家族やジェンダーをめぐる問題状況を述べている。近代化の初期段階では、生産と家族の分離および核家族の登場によって、「専業主婦」という存在が作り出された。これは拘束からの解放という意味での近代化に逆行する、性別による新たな身分固定化を生み出す。近代がもっと進むと、家族の解体も進み、社会全体としての個人化も進む。近代化後期の社会福祉国家は、その意味で個人化の結果である。諸個人の生活史があたかもすべて自らの選択にゆだねられ、ミクロ化が進展し、社会が完全流動社会になっていくということは、逆にマクロな制度に諸個人が統合化されていくこと、マクロ化を意味し、その結果、ミクロとマクロとの中間に位置する家族・地域・階級といったメゾ的なものが消滅していく。(同上)
【コメント】
面白い考え方だと思うし、実感とも一致する。たとえば、天皇制といった制度も、近代化の進展の裏返しの統合化の機能を果たしているのだろう。最近、とみに、自民党の若手議員などが、靖国参拝や天皇制、伝統、道徳教育などを強調する背景には、近代化の進展による個人化という現象がある。戦後教育や民主主義教育が、現代の個人主義的な傾向を生んだのではなく、社会全体の近代化が新しい段階に入ったということだろう。
個人主義的傾向に対抗して愛国心を説くことは、実は、社会全体の近代化に愛国心で対抗しようとしているということになる。これは、ベックの言うマクロ・レベルへの国民統合を上から行おうとする行為だろう。逆に、「愛国心は強制するものではない」と反対するだけでは、この後期近代化の個人化の流れに有効な回答を提示できないだけではなく、諸個人の中にある統合化への志向を巧く権力側に利用されてしまうことにもなるのではないか。
ぼくは、ベックが否定的なメゾ的領域を下から活性化することが、統合的志向を権力に利用されないために必要だと思う。家族や地域、何らかの社会運動を下から活性化するという方向である。このとき、インターネットというメディアが非常に重要になると思う。時間的・空間的な拘束が少ないからだ。ただ、この道具は、上からの統合化にも同じように利用され得る。
もう一つ、ベックの議論に関連して、指摘したいのは、統合化のあり方に関する議論である。ベックの議論では、マクロな統合化の先はおもに労働市場や教育制度、社会福祉制度や国家だと考えられている。ぼくが思うに、マクロな社会認識枠組みや感覚枠組み、行為基準枠組みのようなものがあるのではないだろうか。たとえば、テレビなどのメディアである。テレビの影響は国家レベルのもので、ある年代を共通の感覚や価値で統合しているように思う。社会認識枠組みが認識レベルに留まらず、行動にも出た例として、先の小泉の郵政改革選挙が上げられるだろう。個人化された諸個人が、テレビなどのメディアのワンフレーズに統合されて投票所に出かけたわけである。

このところ、喫茶店では『芭蕉俳文集』を読むことに決めている。なるべく機械的な情報処理しないようにじっくり読んでいる。芭蕉の弟子と言えば、其角、去来、嵐雪など蕉門十哲くらいしか知らなかったが、この本を読むと、芭蕉のネットワークが非常に広かったことに驚く。さまざまな弟子がいて、面白い。山伏までいたのには驚いた。芭蕉を勉強する上で、発句、旅、俳諧連歌、俳論以外にも、弟子との関わりという切り口がありそうだと思う。
昭和天皇の不快発言をめぐる報道が面白かった。主要新聞の社説を見てみたが、産経以外は、小泉が靖国参拝を止めるべき論拠にしたがっている。つまり、昭和天皇の発言メモを新聞が一つの権威にしたがっている。発言メモの興味深いところは、己の戦争責任に対する感受性抜きに、松岡と白鳥のA級戦犯合祀に不快感を露にしている点だと思う。各新聞も天皇を戦争部外者にしてしまっている。人が人に敬意を抱くのは、その人の占める生得的な社会的地位に対してではない。その人の行為と思想に対してである。天皇が自らの戦争責任を認めたとき、本来の意味で「人」になれたと思う。昭和天皇は「奇妙な神」のまま逝った。
◇
【Individualisierung(個人化)】
この概念は、ベックの『世界リスク社会論』には、直接出てこなかったように思うが、訳者解説で、ベックの中核概念として、適切に説明されているので、少しまとめておきたい。
「…個人化は、近代化と密接にかかわっている。個人化とは、一般的には近代化によって、身分や地域の拘束から諸個人が解き放たれること、いわゆる近代社会の出現による個人の析出のことであると理解されている。ベックは、個人化を3つの次元に分けて考えている。1)伝統的な拘束からの解放 2)伝統が持っていた確実性の喪失 3) 新しい社会統合 伝統的拘束からの解放については、説明を要しないであろう。伝統が持っていた確実性の喪失とは、行為の拠り所となるような規範が失われることを指している。新しい社会統合の次元とは、個人化によってバラバラになったはずの諸個人が、逆に労働市場や教育制度、社会福祉制度のようなマクロな次元の制度に、まさに一人一人がバラバラになったことによって依存するようになり、組み込まれ、統制されるようになることを指している。パラドキシカルなことに、解体化は逆に統合化を生み出すというわけである。ベックは、近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考える…」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社2003年)の訳者解説(島村賢一)を基にした)
【個人化の弁証法の事例】ベックは、「個人化の弁証法」の具体的な事例として、家族やジェンダーをめぐる問題状況を述べている。近代化の初期段階では、生産と家族の分離および核家族の登場によって、「専業主婦」という存在が作り出された。これは拘束からの解放という意味での近代化に逆行する、性別による新たな身分固定化を生み出す。近代がもっと進むと、家族の解体も進み、社会全体としての個人化も進む。近代化後期の社会福祉国家は、その意味で個人化の結果である。諸個人の生活史があたかもすべて自らの選択にゆだねられ、ミクロ化が進展し、社会が完全流動社会になっていくということは、逆にマクロな制度に諸個人が統合化されていくこと、マクロ化を意味し、その結果、ミクロとマクロとの中間に位置する家族・地域・階級といったメゾ的なものが消滅していく。(同上)
【コメント】
面白い考え方だと思うし、実感とも一致する。たとえば、天皇制といった制度も、近代化の進展の裏返しの統合化の機能を果たしているのだろう。最近、とみに、自民党の若手議員などが、靖国参拝や天皇制、伝統、道徳教育などを強調する背景には、近代化の進展による個人化という現象がある。戦後教育や民主主義教育が、現代の個人主義的な傾向を生んだのではなく、社会全体の近代化が新しい段階に入ったということだろう。
個人主義的傾向に対抗して愛国心を説くことは、実は、社会全体の近代化に愛国心で対抗しようとしているということになる。これは、ベックの言うマクロ・レベルへの国民統合を上から行おうとする行為だろう。逆に、「愛国心は強制するものではない」と反対するだけでは、この後期近代化の個人化の流れに有効な回答を提示できないだけではなく、諸個人の中にある統合化への志向を巧く権力側に利用されてしまうことにもなるのではないか。
ぼくは、ベックが否定的なメゾ的領域を下から活性化することが、統合的志向を権力に利用されないために必要だと思う。家族や地域、何らかの社会運動を下から活性化するという方向である。このとき、インターネットというメディアが非常に重要になると思う。時間的・空間的な拘束が少ないからだ。ただ、この道具は、上からの統合化にも同じように利用され得る。
もう一つ、ベックの議論に関連して、指摘したいのは、統合化のあり方に関する議論である。ベックの議論では、マクロな統合化の先はおもに労働市場や教育制度、社会福祉制度や国家だと考えられている。ぼくが思うに、マクロな社会認識枠組みや感覚枠組み、行為基準枠組みのようなものがあるのではないだろうか。たとえば、テレビなどのメディアである。テレビの影響は国家レベルのもので、ある年代を共通の感覚や価値で統合しているように思う。社会認識枠組みが認識レベルに留まらず、行動にも出た例として、先の小泉の郵政改革選挙が上げられるだろう。個人化された諸個人が、テレビなどのメディアのワンフレーズに統合されて投票所に出かけたわけである。
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世界リスク社会論(1)
2006-07-19 / 本
水曜日、
。旧暦、6月24日。
終日、仕事。急ぎの仕事が入ったので、サイバーを中断して取り掛かっている。昨日も寝たのが遅かったので、気合が入らない。そのため、音楽を聴きながら作業をした。ジョン・スコフィールドがレイ・チャールズに捧げたアルバム「THAT'S WHAT I SAY」。それでも、午後になると、どうも気合が抜ける。そこで、「頭脳カン」なるものを試してみることにした。まあ、酸素の缶詰(酸素濃度95%)である。10秒ぐらい思いっきり吸い込む行為を何度か繰り返すと、30秒後くらいに若干効いてくる。あくまで、若干であり、劇的ではない。これなら、モカ錠の方が効きはいい。ただし、多用すると眠れなくなるが。
◇
ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)を読む。この本は、表題になっている「世界リスク社会論」という同じ切り口で行われた二本の講演を一冊にまとめて訳出したものである。だが、この切り口がまず分かりにくい。
ぼくが読んでわかりやすかったのは、2つの近代化という考え方だった。これは、近代化は2段階で行われるという議論である。第一段階は、単純な近代化で、通常の意味での産業化を中心にした近代化のことで、第二段階の近代化は、第一段階の近代化が行き詰まって生じるもので、第一の近代化を反省する段階で生まれた近代化である。ベックは、この近代化をreflexive Modernisierung(「再帰的近代」あるいは「反省的近代」)と呼んでいる。第一段階の近代化に対応する社会のありかたが「産業社会」であり、第二段階の近代化に対応する社会が「リスク社会」と呼ばれる。
【リスク社会】リスク社会とはどんな社会か。以下、訳者解説を参考にしながら、ベックの考え方をまとめてみる。リスク社会とは、産業社会が、環境問題、原発事故、遺伝子工学など見られるように、新しい段階に入り、これまでとは質的に異なった性格を持つようになった社会のことである。これまでとどう異なっているのか。ベックは、こんな言葉を述べている。「困窮は階級的であるがスモッグは民主的である」環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的に無関係に人々に降りかかり(だが、リスクと階級が完全に無関係になったとは主張していない)、逆説的な平等性を持っていること、チェルノブイリに示されるように、世界規模での共同性を持っていること。この意味で、リスク社会は世界性を持っているということ。
【コメント】原発のようなリスクは、確かに階級とは無関係であろうし、グローバルなリスクであろう。だが、光化学スモッグのリスクは、たとえば、スモッグの来ない地域に移住する経済力があるかどうかや移住可能な職業かどうか、年金生活に入っているかどうか、家族状況が移住を可能にするかどうかなどで、リスクの程度は違ってくるだろう。遺伝子組み替え作物や環境問題のリスクは、天皇家のように、独自の畑から収穫するシステムを持った人々には、リスク程度は、低減するだろう。ついこの間のハリケーン、カトリーヌの被害も貧困地区に集中した。リスクの大きさは、階級が規定すると言えるほど、単純ではないが、少なくともリスクは「逆説的な平等性」を備えているとは言えないのではないか。リスクというくくりで、すべてのリスクを一括することには無理があるように思う。そのように考えると、リスクを規定する多様な要因への眼差しを遮ることになるのではないか。むしろ、一般的に定式化するとすれば、「産業社会のリスク」と「リスク社会のリスク」が多様に結合していることが現在のリスクの最大の問題であるように思う。
以上のように、ベックの論点「リスクの平等性」には、疑問が残る。「リスクの不平等性」が依然として残っているように思う。ただ、もう一つの論点「リスクのグローバル性」は、リスクによっては言えるのではないだろうか。市場が地域市場から世界市場に統合され、規制緩和が基本線になったことで、たとえば、狂牛病のようなリスクはすぐに世界に拡散する。放射能の越境性という特徴から、原発事故はすぐに世界的な問題になる。こうしたリスクの二重性は、サブポリティクスの有効性の問題とも関連してくるように思う。
ベックの議論は、いくつかの重要な論点があるので、いくつかに分けて検討してみたい。

終日、仕事。急ぎの仕事が入ったので、サイバーを中断して取り掛かっている。昨日も寝たのが遅かったので、気合が入らない。そのため、音楽を聴きながら作業をした。ジョン・スコフィールドがレイ・チャールズに捧げたアルバム「THAT'S WHAT I SAY」。それでも、午後になると、どうも気合が抜ける。そこで、「頭脳カン」なるものを試してみることにした。まあ、酸素の缶詰(酸素濃度95%)である。10秒ぐらい思いっきり吸い込む行為を何度か繰り返すと、30秒後くらいに若干効いてくる。あくまで、若干であり、劇的ではない。これなら、モカ錠の方が効きはいい。ただし、多用すると眠れなくなるが。
◇
ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)を読む。この本は、表題になっている「世界リスク社会論」という同じ切り口で行われた二本の講演を一冊にまとめて訳出したものである。だが、この切り口がまず分かりにくい。
ぼくが読んでわかりやすかったのは、2つの近代化という考え方だった。これは、近代化は2段階で行われるという議論である。第一段階は、単純な近代化で、通常の意味での産業化を中心にした近代化のことで、第二段階の近代化は、第一段階の近代化が行き詰まって生じるもので、第一の近代化を反省する段階で生まれた近代化である。ベックは、この近代化をreflexive Modernisierung(「再帰的近代」あるいは「反省的近代」)と呼んでいる。第一段階の近代化に対応する社会のありかたが「産業社会」であり、第二段階の近代化に対応する社会が「リスク社会」と呼ばれる。
【リスク社会】リスク社会とはどんな社会か。以下、訳者解説を参考にしながら、ベックの考え方をまとめてみる。リスク社会とは、産業社会が、環境問題、原発事故、遺伝子工学など見られるように、新しい段階に入り、これまでとは質的に異なった性格を持つようになった社会のことである。これまでとどう異なっているのか。ベックは、こんな言葉を述べている。「困窮は階級的であるがスモッグは民主的である」環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的に無関係に人々に降りかかり(だが、リスクと階級が完全に無関係になったとは主張していない)、逆説的な平等性を持っていること、チェルノブイリに示されるように、世界規模での共同性を持っていること。この意味で、リスク社会は世界性を持っているということ。
【コメント】原発のようなリスクは、確かに階級とは無関係であろうし、グローバルなリスクであろう。だが、光化学スモッグのリスクは、たとえば、スモッグの来ない地域に移住する経済力があるかどうかや移住可能な職業かどうか、年金生活に入っているかどうか、家族状況が移住を可能にするかどうかなどで、リスクの程度は違ってくるだろう。遺伝子組み替え作物や環境問題のリスクは、天皇家のように、独自の畑から収穫するシステムを持った人々には、リスク程度は、低減するだろう。ついこの間のハリケーン、カトリーヌの被害も貧困地区に集中した。リスクの大きさは、階級が規定すると言えるほど、単純ではないが、少なくともリスクは「逆説的な平等性」を備えているとは言えないのではないか。リスクというくくりで、すべてのリスクを一括することには無理があるように思う。そのように考えると、リスクを規定する多様な要因への眼差しを遮ることになるのではないか。むしろ、一般的に定式化するとすれば、「産業社会のリスク」と「リスク社会のリスク」が多様に結合していることが現在のリスクの最大の問題であるように思う。
以上のように、ベックの論点「リスクの平等性」には、疑問が残る。「リスクの不平等性」が依然として残っているように思う。ただ、もう一つの論点「リスクのグローバル性」は、リスクによっては言えるのではないだろうか。市場が地域市場から世界市場に統合され、規制緩和が基本線になったことで、たとえば、狂牛病のようなリスクはすぐに世界に拡散する。放射能の越境性という特徴から、原発事故はすぐに世界的な問題になる。こうしたリスクの二重性は、サブポリティクスの有効性の問題とも関連してくるように思う。
ベックの議論は、いくつかの重要な論点があるので、いくつかに分けて検討してみたい。
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コミュニケーション的理性
2006-07-09 / 本
日曜日、
。旧暦、6月14日。
朝から、ずっと、読書。読みかけの本、中岡成文『ハーバーマス』(講談社)を一気に読んでしまう。とてもわかりやすく面白い本だった。ハーバーマスの思想の概略を、日本の現実を織り交ぜながら、語っている。ハーバーマスに関心があるのは、フランクフルト学派の第二世代を代表する思想家であるからだが、オリジナルテキストはとっつきににくくて、ほとんど、読んでいない。どのあたりから読むべきなのか、とっかかりが欲しくて、この本を読んでみた。
ハーバーマスは、論争しながら、自分の社会理論を深化させるという独特のスタイルを持っている。理論的にも、実践的にも、コミュニケーションを最大限有効に活用する思想家なのだろう。この本を読んで、ハーバーマスの社会理論を理解できたという気はさらさらないが、いくつかポイントになる考え方は、はっきりしたように思う。
メモレベルの話になるが、ぼくが、ハーバーマスの社会理論に感じた疑問を以下に箇条書きにしたい。
① コミュニケーション的理性について。従来のモノローグの理性に代わってダイアローグのコミュニケーション的理性というアイディアは、非常に斬新で共感できる。しかし、以下の点はどう考えているのだろう。第一に、この考え方が出てきた背景には、欧州の多民族社会という現実、最近では、イスラム圏からの移民の増大があると思う。この歴史を踏まえると、コミュニケーション的理性がうまく作動するには、特定の社会的条件が前提になると思う。たとえば、他者は自分とは異質だという自覚・感情を交えずに議論できる能力・問題に対する専門的な知識と判断力・議論をすることに慣れていること・言葉を重視した文化など。日本で、コミュニケーション的理性が十全に作動するには、あまりにも障害が多いと思う。そもそも、言葉によるコミュニケーションを「ことあげ」といって低く見る文化や同質な社会、議論と喧嘩の区別がつかない感情的な土壌など。こういった条件を変えなければ、コミュニケーション的理性はうまく作動しないし、変えれば、日本の精神風土そのものを変えることになるだろう。欧州の多元社会という歴史があって初めて、実現条件が整う可能性のある理性ではないか。
第二に、コミュニケーションに関与する当事者をだれがどう決めるのか、という問題がある。これは、たとえば、外交問題のように日本国民全体が当事者になり得る問題の場合、コミュニケーション的理性による合意の結果、北朝鮮との全面戦争というシナリオもありえなくはない。それとも、全員の意見の一致が必要であれば、その間、北から核弾頭付ノドンが降ってくる可能性もないことはないだろう。つまり、当事者資格の問題(問題の複雑さによる専門的な判断能力の必要性)と討議時間(問題解決時間)の問題をどうクリアするのか。
② これとの関連で、ハーバーマスは、理性を普遍妥当的なものであるから、地球規模の多元的な文化にも適用可能だと述べる。しかし、先に見たように、コミュニケーションは、人間を変質させる。良くも悪くも。つまり、伝統をコミュニケーション的理性は変容させる可能性がある。この問題をどう考えているのだろうか。多元的な文化を維持しながら、コミュニケーション的理性を作動させることはできるのかどうか。あるいは、コミュニケーション的理性を生んだ西欧文化は、他の文化よりも問題解決能力が高いということで、他地域の伝統の変容を正当化できるのだろうか。コミュニケーション的理性が作動することで、伝統的な生活世界が逆に、この理性の植民地になる危険性はないのかどうか。人間の幸福は、モデルネの方にだけあるとも限らない。
③ ハーバーマスは、人間には、対話し行為する能力が備わっていると言う(これも複数の社会的条件といくつかの幸運が重ならないと実現しないと思う)。確かにそういう面はあるだろう。だが、人間は、言葉だけでコミュニケーションしてるわけではない。根拠は言えないが、とにかく嫌だということはあるし、そういう言葉未満のことを大事にすべきではないのか。逆に、言葉になった瞬間に別の何かに転化してしまうことも多い。端的に言って、身体性がハーバーマスの議論には欠けている。つまり、合意とは言葉で行うものであるが、言葉による合意が身体の示す何かとは異なる可能性がある。言葉にならない何かの方にこそ重要な理性的要素が宿るのではないか。ハーバーマスが「反啓蒙」と切り捨てるものの中にこそ、モデルネを補完するものがあるのではないか。
ぼくの解釈なので、ハーバーマスを誤解している面もあると思う。うまくまとまっていないが、以上のようなことを問題意識にしてハーバーマスのテキストを読んでみたいと思っている。ハーバーマスは、マルクス以降、哲学は社会理論に取って代わられたと考えている。ドイツのように、哲学的・理論的伝統のある国で思索をするハーバーマスを、国家が近代化プロセスの引き金を引き、アメリカ主導のグローバリゼーションに巻き込まれた日本で読むことの意味を考えるのも大事なのかもしれない。

朝から、ずっと、読書。読みかけの本、中岡成文『ハーバーマス』(講談社)を一気に読んでしまう。とてもわかりやすく面白い本だった。ハーバーマスの思想の概略を、日本の現実を織り交ぜながら、語っている。ハーバーマスに関心があるのは、フランクフルト学派の第二世代を代表する思想家であるからだが、オリジナルテキストはとっつきににくくて、ほとんど、読んでいない。どのあたりから読むべきなのか、とっかかりが欲しくて、この本を読んでみた。
ハーバーマスは、論争しながら、自分の社会理論を深化させるという独特のスタイルを持っている。理論的にも、実践的にも、コミュニケーションを最大限有効に活用する思想家なのだろう。この本を読んで、ハーバーマスの社会理論を理解できたという気はさらさらないが、いくつかポイントになる考え方は、はっきりしたように思う。
メモレベルの話になるが、ぼくが、ハーバーマスの社会理論に感じた疑問を以下に箇条書きにしたい。
① コミュニケーション的理性について。従来のモノローグの理性に代わってダイアローグのコミュニケーション的理性というアイディアは、非常に斬新で共感できる。しかし、以下の点はどう考えているのだろう。第一に、この考え方が出てきた背景には、欧州の多民族社会という現実、最近では、イスラム圏からの移民の増大があると思う。この歴史を踏まえると、コミュニケーション的理性がうまく作動するには、特定の社会的条件が前提になると思う。たとえば、他者は自分とは異質だという自覚・感情を交えずに議論できる能力・問題に対する専門的な知識と判断力・議論をすることに慣れていること・言葉を重視した文化など。日本で、コミュニケーション的理性が十全に作動するには、あまりにも障害が多いと思う。そもそも、言葉によるコミュニケーションを「ことあげ」といって低く見る文化や同質な社会、議論と喧嘩の区別がつかない感情的な土壌など。こういった条件を変えなければ、コミュニケーション的理性はうまく作動しないし、変えれば、日本の精神風土そのものを変えることになるだろう。欧州の多元社会という歴史があって初めて、実現条件が整う可能性のある理性ではないか。
第二に、コミュニケーションに関与する当事者をだれがどう決めるのか、という問題がある。これは、たとえば、外交問題のように日本国民全体が当事者になり得る問題の場合、コミュニケーション的理性による合意の結果、北朝鮮との全面戦争というシナリオもありえなくはない。それとも、全員の意見の一致が必要であれば、その間、北から核弾頭付ノドンが降ってくる可能性もないことはないだろう。つまり、当事者資格の問題(問題の複雑さによる専門的な判断能力の必要性)と討議時間(問題解決時間)の問題をどうクリアするのか。
② これとの関連で、ハーバーマスは、理性を普遍妥当的なものであるから、地球規模の多元的な文化にも適用可能だと述べる。しかし、先に見たように、コミュニケーションは、人間を変質させる。良くも悪くも。つまり、伝統をコミュニケーション的理性は変容させる可能性がある。この問題をどう考えているのだろうか。多元的な文化を維持しながら、コミュニケーション的理性を作動させることはできるのかどうか。あるいは、コミュニケーション的理性を生んだ西欧文化は、他の文化よりも問題解決能力が高いということで、他地域の伝統の変容を正当化できるのだろうか。コミュニケーション的理性が作動することで、伝統的な生活世界が逆に、この理性の植民地になる危険性はないのかどうか。人間の幸福は、モデルネの方にだけあるとも限らない。
③ ハーバーマスは、人間には、対話し行為する能力が備わっていると言う(これも複数の社会的条件といくつかの幸運が重ならないと実現しないと思う)。確かにそういう面はあるだろう。だが、人間は、言葉だけでコミュニケーションしてるわけではない。根拠は言えないが、とにかく嫌だということはあるし、そういう言葉未満のことを大事にすべきではないのか。逆に、言葉になった瞬間に別の何かに転化してしまうことも多い。端的に言って、身体性がハーバーマスの議論には欠けている。つまり、合意とは言葉で行うものであるが、言葉による合意が身体の示す何かとは異なる可能性がある。言葉にならない何かの方にこそ重要な理性的要素が宿るのではないか。ハーバーマスが「反啓蒙」と切り捨てるものの中にこそ、モデルネを補完するものがあるのではないか。
ぼくの解釈なので、ハーバーマスを誤解している面もあると思う。うまくまとまっていないが、以上のようなことを問題意識にしてハーバーマスのテキストを読んでみたいと思っている。ハーバーマスは、マルクス以降、哲学は社会理論に取って代わられたと考えている。ドイツのように、哲学的・理論的伝統のある国で思索をするハーバーマスを、国家が近代化プロセスの引き金を引き、アメリカ主導のグローバリゼーションに巻き込まれた日本で読むことの意味を考えるのも大事なのかもしれない。
![]() | ハーバーマス (「現代思想の冒険者たち」Select) |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
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アーレントとハイデガー
2006-07-03 / 本
月曜日、
のち
。旧暦、6月8日。
疲れて、昼まで眠。午後、雑用。土曜日に図書館で借りてきた『アーレントとハイデガー』(みすず書房 1996年)を一気に読んでしまった。いろいろな意味で興味深い本だった。この本を読んで、考え込んでしまった。人間相互の感情の絆とは実に不思議である。アーレントとハイデガーの関係は尋常ならざるものだったことがよく分かる。著者のエルジビェータ・エティンガーは、ポーランド生まれでワルシャワ・ゲットーを生き延び、現在は、マサチューセッツ工科大学で文学を講じている。おそらくは、ナチを心底憎んでいるであろう。この本の中でもナチに協力的で、生涯、ナチ協力の罪を認めなかったハイデガーには、辛辣である。そんなハイデガーに生涯忠実でナチ協力の汚名を少しでも軽くしようと尽力したアーレント。同じように、ハイデガーの友人だったヤスパースが、戦後、ぎりぎりの友情回復に努力したが、結局、果たせず死んでしまうのと対照的である。著者も、女性でありユダヤ系であり、18歳で半ばハイデガーに騙された初期のアーレントには、同情的であるが、徐々に、距離を置き、批判的になっていく。
アーレントは、7歳のときにお父さんが梅毒で死亡、お母さんは、親戚の家に長期滞在することが多く、幼少時、一人で家に残されて、このまま自分は捨てられるのではないか、という不安に怯えたという。13歳のときにお母さんが再婚したが、新しいお父さんにはなじめなかったらしい。大学の学費は、両親ではなく叔父さんが出していたという。
アーレントが18歳で言い寄られたとき、ハイデガーは35歳で2人の息子の父親だった。ハイデガーは女好きで(アーレント以外にも妻の学友にも手を出している)、二枚舌、策士、ひどいペテン師のように描かれている。
この本の物語をそのまま信じれば、ハイデガーはとんでもないエロ詐欺野郎で、アーレントはファザコンということになるが、いったい何が問われているのか。美しいヘルダーリン論を書いたハイデガーと卑劣で自己保身的なハイデガー。深い洞察力に富んだ思索日記を残したアーレントとハイデガーに反論もできない女子学生みたいなアーレント。どっちも本当なのだろう。
面白いのは、同じユダヤ系で同じように米国に亡命し同じように全体主義の起源に関心を寄せながら、アーレントが最も嫌っていたのは、アドルノ、ホルクハイマーなどのフランクフルト学派の面々だった。フランクフルト学派の人々は、ベンヤミンも含めて、戦前戦後一貫してハイデガーに批判的だった(ハイデガーの弟子の一人で、フランクフルト学派の有力なメンバーだったマルクーゼは、戦後、ナチ協力の罪を認めて償うようにハイデガーに懇願したが、ついにハイデガーは聞き入れなかった。逆に、アーレントは、ハイデガーに罪はないと主張した)。
ふと、現代の大学で同じことが起きるだろうか、と想像してみた。当時のドイツの大学教授にあったような家父長的な権威-とくにハイデガーは自らを神秘的に演出する術に長けていたらしい-は今はまったくないだろう。教師と名のつく職業ほど、現在、社会的な不信感に晒されている職業はないのではないか。ハイデガーがアーレントにしたように、3ヶ月も教室でじろじろ観察すれば、ストーカーであろうし、その後、とくに理由もなく研究室に呼んで、数日後に、君を守りたい風のバカバカしい手紙-凝った散文と詩からなる-を個人住所宛てに送付すれば、一発でセクハラであろう。現代の女子学生なら、こうした事態に対して、多様な解釈枠組を持っているし、情報量も当時のドイツとは比較にならないから、「なんだ、このエロオヤジ」で一蹴されるのではないか。ただ、これが学者を目指す大学院生とその指導教授だったら、事態は少しやっかいになるかもしれない。教授は、未だに権力者であり、大学院生の将来を握っているからだ。アーレントの場合は、アーレント自らが、その関係を望んだふしがあるところに特徴がある。いったんは、ハイデガーのいたマールブルクを去って、ハイデルベルクのヤスパースの許で勉強することにしたのだが、二人の関係は切れない。ハイデガーの方にも強力な磁力があったとしか思えないのである。
孔子はこんな言葉を残している。「子曰く、其の以ってする所を視、其の由る所を観、其の安んじる所を察すれば、人焉んぞ痩さんや。人焉んぞ痩さんや」
「子曰く、人間はその行っていることを注視し、その由来するところを観取し、その安心している所を察知すれば、その性質は匿そうたって匿しおおせるものではない。心のそこまで見抜けるものだ。」(宮崎市定訳)
「人間というものはうそをつくものだから、その行いと根拠に注目して人となりを判断しなければならない。また、人間というものは他人が見ていればカッコつけるものであるから、その安んじた世界をよく知ってから判断すべきである。」(冬月訳)
ハイデガーとアーレントの残した著書や思想を全面的に否定してしまうのは一番簡単で楽な方法だろう。問題は、二人の思想と行動の関係、思想と安んじた世界の関係を、どう理解するかであり、その思想のアクチャリティをどう救い出すかだろう。そんなことを感じさせる本だった。


疲れて、昼まで眠。午後、雑用。土曜日に図書館で借りてきた『アーレントとハイデガー』(みすず書房 1996年)を一気に読んでしまった。いろいろな意味で興味深い本だった。この本を読んで、考え込んでしまった。人間相互の感情の絆とは実に不思議である。アーレントとハイデガーの関係は尋常ならざるものだったことがよく分かる。著者のエルジビェータ・エティンガーは、ポーランド生まれでワルシャワ・ゲットーを生き延び、現在は、マサチューセッツ工科大学で文学を講じている。おそらくは、ナチを心底憎んでいるであろう。この本の中でもナチに協力的で、生涯、ナチ協力の罪を認めなかったハイデガーには、辛辣である。そんなハイデガーに生涯忠実でナチ協力の汚名を少しでも軽くしようと尽力したアーレント。同じように、ハイデガーの友人だったヤスパースが、戦後、ぎりぎりの友情回復に努力したが、結局、果たせず死んでしまうのと対照的である。著者も、女性でありユダヤ系であり、18歳で半ばハイデガーに騙された初期のアーレントには、同情的であるが、徐々に、距離を置き、批判的になっていく。
アーレントは、7歳のときにお父さんが梅毒で死亡、お母さんは、親戚の家に長期滞在することが多く、幼少時、一人で家に残されて、このまま自分は捨てられるのではないか、という不安に怯えたという。13歳のときにお母さんが再婚したが、新しいお父さんにはなじめなかったらしい。大学の学費は、両親ではなく叔父さんが出していたという。
アーレントが18歳で言い寄られたとき、ハイデガーは35歳で2人の息子の父親だった。ハイデガーは女好きで(アーレント以外にも妻の学友にも手を出している)、二枚舌、策士、ひどいペテン師のように描かれている。
この本の物語をそのまま信じれば、ハイデガーはとんでもないエロ詐欺野郎で、アーレントはファザコンということになるが、いったい何が問われているのか。美しいヘルダーリン論を書いたハイデガーと卑劣で自己保身的なハイデガー。深い洞察力に富んだ思索日記を残したアーレントとハイデガーに反論もできない女子学生みたいなアーレント。どっちも本当なのだろう。
面白いのは、同じユダヤ系で同じように米国に亡命し同じように全体主義の起源に関心を寄せながら、アーレントが最も嫌っていたのは、アドルノ、ホルクハイマーなどのフランクフルト学派の面々だった。フランクフルト学派の人々は、ベンヤミンも含めて、戦前戦後一貫してハイデガーに批判的だった(ハイデガーの弟子の一人で、フランクフルト学派の有力なメンバーだったマルクーゼは、戦後、ナチ協力の罪を認めて償うようにハイデガーに懇願したが、ついにハイデガーは聞き入れなかった。逆に、アーレントは、ハイデガーに罪はないと主張した)。
ふと、現代の大学で同じことが起きるだろうか、と想像してみた。当時のドイツの大学教授にあったような家父長的な権威-とくにハイデガーは自らを神秘的に演出する術に長けていたらしい-は今はまったくないだろう。教師と名のつく職業ほど、現在、社会的な不信感に晒されている職業はないのではないか。ハイデガーがアーレントにしたように、3ヶ月も教室でじろじろ観察すれば、ストーカーであろうし、その後、とくに理由もなく研究室に呼んで、数日後に、君を守りたい風のバカバカしい手紙-凝った散文と詩からなる-を個人住所宛てに送付すれば、一発でセクハラであろう。現代の女子学生なら、こうした事態に対して、多様な解釈枠組を持っているし、情報量も当時のドイツとは比較にならないから、「なんだ、このエロオヤジ」で一蹴されるのではないか。ただ、これが学者を目指す大学院生とその指導教授だったら、事態は少しやっかいになるかもしれない。教授は、未だに権力者であり、大学院生の将来を握っているからだ。アーレントの場合は、アーレント自らが、その関係を望んだふしがあるところに特徴がある。いったんは、ハイデガーのいたマールブルクを去って、ハイデルベルクのヤスパースの許で勉強することにしたのだが、二人の関係は切れない。ハイデガーの方にも強力な磁力があったとしか思えないのである。
孔子はこんな言葉を残している。「子曰く、其の以ってする所を視、其の由る所を観、其の安んじる所を察すれば、人焉んぞ痩さんや。人焉んぞ痩さんや」
「子曰く、人間はその行っていることを注視し、その由来するところを観取し、その安心している所を察知すれば、その性質は匿そうたって匿しおおせるものではない。心のそこまで見抜けるものだ。」(宮崎市定訳)
「人間というものはうそをつくものだから、その行いと根拠に注目して人となりを判断しなければならない。また、人間というものは他人が見ていればカッコつけるものであるから、その安んじた世界をよく知ってから判断すべきである。」(冬月訳)
ハイデガーとアーレントの残した著書や思想を全面的に否定してしまうのは一番簡単で楽な方法だろう。問題は、二人の思想と行動の関係、思想と安んじた世界の関係を、どう理解するかであり、その思想のアクチャリティをどう救い出すかだろう。そんなことを感じさせる本だった。
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