verse, prose, and translation
Delfini Workshop
「BRIDGING THE WATERS」書評
2014-05-11 / 本

BRIDGING THE WATERS書評
An International Bilingual Poetry Anthology
(Korean, American, Other)
Co‐Edited by Yoon‐Ho Cho & Stanley H. Barkan
Cross‐Cultural Communications 2013
本書は韓国文学の世界化を目的に編まれた韓国内外の詩人たちのハングル・英語によるアンソロジーである。構成はアメリカ詩人、十五名、アメリカ以外の詩人、二十名、韓国系アメリカ詩人、二十四名、韓国詩人、十六名である。「世界化」と訳したが、もちろん、原文では、globalizationである。よく知られているように、globalizationは両義的である。
ニューヨーク在住のユダヤ系ペルー人のイサク・ゴールデンバーグの作品「THE WALL(壁)」は、globalizationの本質を端的に表現している。
THE WALL
Alone, the wall that divides human from human
Doesn’t know how to break itself down.
It doesn’t know how.
It doesn’t know.
It doesn’t…
(Isaac Goldemberg)
壁
ただ壁があるだけで人と人を隔てる
どうやったら壁がなくなるのか、壁にはわからない
そう 壁にはわからない
わからない
壁…
グローバリゼーションの本質は一元化である。存在の商品化、市場の世界化、言語的一元化といった契機を含む資本の運動である。言いかえると、商品・消費の言語で地上を覆い尽くそうという運動である。ゴールデンバーグの詩は、一元化を志向するグローバリゼーションが、逆説的に、社会的な実体としての壁を生みだすことを歌っている。そして、壁は、いったんでき上がると、自らの力で消滅することはできない。一見、社会の壁を突き崩すかのように思えるグローバリゼーション(実際、そういう意匠をまとっている。グローバリゼーションが、別名、「新自由主義」と呼ばれていることや「抵抗勢力」や「規制緩和」といった掛け声を思い出せばいい)は、経済格差や過当競争、医療・行政などの公共セクターの破壊、正規労働・非正規労働の差別化、差別の固定化など、社会的な壁を作りだしている。グローバリゼーションの発信地の一つが、the wall streets(ウォール街)というのは、その意味で、象徴的である。「THE WALL」の詩人が、西欧社会で歴史的に差別を受け、その結果、被差別領域だった金融や芸能の分野で富を築くことになった(言いかえれば、(前期)資本主義の世界化を担うことになった)ユダヤ系というところも、深く考えさせるものがある。
編者たちの意図は、序文から推察する限り、韓国文学が世界中でもっと読まれるように、「世界言語」である英語に翻訳して発信しようということだと思われる。だが、このアンソロジーは、編者たちの思惑を超えて、グローバリゼーションの本質に鋭く突き刺さっている。
アメリカ在住の韓国系詩人、キュン‐ニュン・キム・リチャーズの作品「ROAD TO REFUGE(避難所への道)」は、一九五〇年の朝鮮戦争の記憶を記しながら、現在も続く半島の冷戦構造を内側から歌っていて鮮烈である。
ROAD TO REFUGE
“Can you put us up for the night?
The day is dark and the little ones
Can’t walk anymore…”
My grandfather was blunt.
How good t was to have a floor to sit down on!
Mother was carrying the newborn on her back;
Granpa, the six-year-old heir of the family,
my little brother, on his back.
We walked and walked until our toenails turned black,
and collapsed at the door of a roadside hut
belonging to a poor farmer.
Ah, it was exactly fifty‐five years ago,
in the summer of 1950,
when I was nine and my brother six.
Now mother, brother, and grandfather have all left this world
and here with memories, I remain alone.
Even after more than half a century,
three generations have passed,
and there is still no sign of peace,
no end to conflict.
Our unending road to a refuge,
When will it end? Will it ever?
O, god of history, open your heart
and have mercy on us all.
(Kyung‐Nyun Kim Richards)
避難所への道
「今晩泊めてもらえませんか
日は暮れて幼子たちは
もう歩けません」
祖父は率直に頼んだ
座れる床があるのは何と有難かったことか
母は生まれたばかりの赤ん坊を背負い
祖父は一家の跡取りの六歳の弟を背負っていた
わたしたちは足の爪が真っ黒になるまで歩きに歩き
道端の貧しい農夫の小屋の前で
へたへたと座り込んでしまったのだった
ああまさに五十五年前
一九五〇年の夏のことだった
わたしは九歳 弟は六歳だった
母も弟も祖父もみなこの世を去ったが
わたしは記憶と一緒にたった一人で残された
あれから五十年以上経って
三世代も代わったが
いまだに平和の兆しはなく
対立は終わらない
避難所への終わりなき道
それはいつ終わるのか そもそも終わりはあるのか
おお 歴史の神よ どうか心を開き
わたしたちに慈悲をお与えください
半島の冷戦構造の起源(日本の植民地化)・その再生産過程(戦後世界秩序)・その最新形態(グローバリゼーション)に切り込まない韓国の現代詩は、一つのイデオロギーに堕落してしまう危険性と常に隣り合わせにある。この自覚が、アメリカ在住という「社会的距離」感を、半島に対して持つことのできた、この詩人に、この詩を書かせたのかもしれない。韓国文学のグローバル化とは、単に「世界言語」である英語にハングルを翻訳することではなく、文学の世界市場へ参入することでもなく、半島の冷戦構造の経験を、その起源・その再生産過程・その最新形態といった三つの契機を踏まえて、内側から作品化することだと筆者には思えるのである。
グローバリゼーションは、それを推進・正当化する宗教として、科学技術主義を持っている。科学技術主義の最大の特徴は、存在の計量化である。これを目的・手段の転倒という形で端的に現わしているのが、原発である。原発にあっては、本来の目的であるべき「いのち」は、計算可能な経済的合理性の手段と化している。ウェールズの詩人、ピーター・タービット・ジョーンズの詩「母」は、「いのち」が、計量化の対象にならない質的な存在であることを思い出させてくれる。
Mother
From your weakness
Came my strength.
From your black and white
Came my colours.
From your denial of me
Came my belief in me.
From all your lies
Came my search for truths.
From your cold looks
Came the fire in my eyes.
From your lack of hugs
Came my tenderness.
From your lack of touch
Came my need to feel life.
From your lack of kisses
Came my lips wanting dreams.
From your street of false games
Came my cities of hope.
From your selfish road
Came all of my paths.
From your milk untasted
Came my thirst for love
From your unspoken words
Came my poet’s voice.
(Peter Thabit Jones)
母
あなたの弱さから
わたしの強さが生まれた
あなたの白と黒から
わたしの色彩が生まれた
あなたの否定から
わたしの自信が生まれた
あなたのすべての嘘から
わたしの真実の探求が生まれた
あなたの冷たい顔から
わたしの眼の中の炎が生まれた
抱きしめることのないあなたから
わたしの優しさが生まれた
触れることのないあなたから
いのちを感じなければというわたしの思いが生まれた
キスをしないあなたから
夢を求めるわたしの唇が生まれた
偽りのゲームが行われるあなたのストリートから
わたしの希望の街が生まれた
あなたのわがままな道から
わたしのすべての径は生まれた
あなたが口をつけなかったミルクから
わたしの愛の渇きが生まれた
あなたの語らなかった言葉から
わたしの詩人の声が生まれた
ここに描かれた母と詩人の「いのち」のあり方は、けっして、一つ、二つと数えられる計量的なものではない。存在を計量化するとは、「いのち」が別の「いのち」と代替可能であることを意味する。この詩に描かれた「いのち」の質的な内実は深く、二人の間には、弁証法的と言ってもいいような、逆説的で矛盾に満ちた関係が存在している。この関係の唯一性は、詩でしか表現できなかったものである。このように、そもそも、詩的表現は、グローバリゼーションの諸相に抗うものなのである。
日本の詩人、郡山直の作品「郷里の島の夏」は、郷里の夏の島と自分自身が一体化している。対象との一体化という心の運動―顕著な例としては、中世の西行と桜の関係に観られる―は、その起源を古代に持ち、太古の人間労働の残響を、ここに聞くことができる。
SUMMER ON THE HOME ISLAND
The man stops his bicycle
on the hillside road
that runs through
the sugarcane fields
and he gets off the bicycle
and takes off his sandals
to feel the texture
of his home island’s earth
to feel the warmth of the earth
heated by his home island’s sun
with his bare unshod feet
with his free naked heart
looking over the hill
listening to the sound of the sea
(Naoshi Koriyama)
郷里の島の夏
砂糖きび畑の
なかを通っている
岡の道で
男は自転車を止める
そして自転車から下りて
ぞうりを脱ぎ
はだしの足と
剥き出しの心で
郷里の島の土の
感触を感じとるのだ
郷里の島の太陽に焼かれた
土の温もりを感じとるのだ
岡を眺め
海の音を聞きながら
この詩は、静的な認識に偏りがちの現代の科学技術主義と鋭い対立を形成している。人間が自然と物質代謝を行いながら、太古から生活を営んできたその痕跡が、ここには現れている。詩は、本来的に、存在論的でパフォーマティブな要素を持っているのである。
本アンソロジーは、以上のように、韓国文学のグローバル化を志向しながら、グローバリゼーション自体を越えてゆく契機をいくつも孕んでいる。その意味でも、現代の詩的試みとして、大変に興味深いものである。
初出『COAL SACK』78
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瀬戸内寂聴著『それでも人は生きていく』書評
2013-12-03 / 本

友人にMという、ぼくと同じように売れない詩人がいるのだが、彼の口癖に「オレはこんなひどい社会状況の中で、一回もパクられたことのない奴は信用できん」というのがある。きまって続けて「こんな社会に怒らん奴はおかしいやろ、な、そうやろ」と酒臭い息でたたみ掛けてくるのだった。「そうだ!」わたしの答えも決まっている。この本を読んで最初に感じたのは、この「そうだ!」と答えるときの、なにか熱いものがこみあげてくる気持ち、それにそっくりなのである。
本書は、徳島ラジオ商殺し事件から、連合赤軍事件、オウム真理教事件、そして現在進行中の反原発運動まで、瀬戸内さんが関わった、社会的な事件に関する文章を年代順に収めてある。作家の社会的行動の全貌が見渡せるという意味で、作家の実存の核をなしてきたものが何のか、また、どのように、それは形成されてきたのか、これらを知る上でも貴重な証言となっている。作家の武器は、言うまでもなく言葉である。瀬戸内さんは、言葉への感受性を最大限発揮し、権力が「現実」を構成してゆくプロセスをあぶり出してゆく。たとえば、徳島ラジオ商殺し事件では、一審の判決文に対して次のようなコメントを寄せている。「文章のまずさ、表現の大げさは、下手な三文小説か、三流講談のたぐいである。こんな文章しか書けない人物が、国家の裁判を預かり、人の命を自在に扱うのかと思うとぞっとせずにはいられない」(一四頁)われわれは言葉を所有しているわけではない。言葉に所有されているのである。どんな言葉に所有されているのか。そこに、その人間のこれまで生きてきた経験やその人間が現に生きている世界が現れる。瀬戸内さんのコメントは、ただ、裁判官の文章が下手だと言っているのではない。こういう世界に住む裁判官の、判断する人間としての資質を問うているのである。同じように、検察の求刑について、次のようなコメントを寄せている。「いくら鈍感な男でも、三度も軀に刺身包丁を刺されるまで立ち上がらないでおくものか。計画的犯行をする時、九つのK子を同じ部屋に寝かせておくのもおかしいし、自分が刺されてから、はじめて寝ているK子を起こしましたというのもうなずけない。暗闇の格闘なら、まちがって子どもを傷つけないともかぎらないではないか」(一四頁―一五頁)ここでも、瀬戸内さんは鋭い言語感覚を発揮し言葉と現実のズレを見事に突いている。検事の求刑が言葉の運動だけで成り立っていて、言葉に先行する現実(あるいは、真理)を言葉がつかまえていないことを「矛盾」として示しているのである。言葉の虚偽性を突いていると言ってもいい。ここで、注目すべきは、この作家の美質の一つである女性性である。検事の求刑は、「男性権力者の作文だ」と言っているのである。そして、この作文は繰り返し被疑者の耳に吹き込まれ、やがて「真実」になっていく。ゲッペルスの大衆操作の方法と原理的には変わらない。
国家や権力を否定する思想家や作家は多そうで、現実にはそう多くない。本書の、とりわけ法律と裁判を批判、というよりも否定する「裁判と冤罪」の章を読んだある編集者が「瀬戸内さんはまるでアナーキストですね」というと即座に「私はアナーキストですよ」といったという話も聞いた。瀬戸内さんの言葉を聞いてみよう。「私は革命家は好きだが、革命家と政治家は全くちがう。革命家ははじめから命を賭して、自分以外への何者かのために奉仕しようという情熱に燃えているから美しい」(四十頁)この奉仕の情熱は、宗教的な情熱ときわめて近い。日本で最初に『資本論』を翻訳した高畠素之や堺利彦、阿部磯雄、山川均、片山潜などに見られるように、初期の社会主義運動は、キリスト教の影響下から出発している。やがて、大正時代のアナボル論争を経て、社会主義者は、アナーキストとボルシェビストへ分裂してゆくが、本誌同人黒川洋氏によれば、アナーキストは、例外なく、俳句を詠み、ボルシェビストは短歌を詠んだという。中央集権的な組織論を主張したボルシェビストたちが、宮廷秩序の枠内で発達し、宮廷秩序の維持に貢献した短歌を好んだというのは、なかなか示唆的ではなかろうか。
瀬戸内さんは、俳句を詠む。しかも、瀬戸内さんの俳句は単なる文人俳句ではない。完全に散文とは切れた「ザ・俳句」である。
生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
日脚のぶひめごともなき鏡拭く
雛飾る手の数珠しばしはづしおき
戦火やみ雛の顔の白さかな
反戦の怒涛のうねり梅ひらく
あかあかと花芯のいのち白牡丹
待ち待ちし軀の中まで天の川
鈴虫を梵音と聴く北の寺
御山のひとりに深き花の闇
菜の花や神の渡りし海昏く
雛の間に集ひし人のみな逝ける
こうした本格的な俳句は、宗教者、社会主義者、女性解放論者、アナーキストといった日本の解放運動の一つの系譜が、瀬戸内さんの中へ、統一的に流れ込んでいることを示しているのではなかろうか。
「まえがき」で瀬戸内さんは、本書は遺言だと書いている。たとえば、毎週金曜日、官邸前に集い、あるときは、スーツのまま、あるときは、普段着でデモをしている人々は、この遺言に応える人々である。「原発の問題もそう。危険にさらされているのに、じっと並んでね。それは行儀がいいんじゃなくて、飼いならされているだけなのよ。我々は税金を払って政治家たちを養っているのに、なんで言うことばかり聞くんですか」(二一四頁)権力の言葉ではなく、真理の言葉に耳を澄ませることは、新しい主体の誕生と同義である。新しい主体は、まだ少ないが、たしかに、生まれつつある。そのライフスタイルを変えながら。
『それでも人は生きていく』(二〇一三年五月 皓星社 二三〇〇円+消費税)
初出:雑誌『トスキアナ 18号』(2013年11月 皓星社)
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朝鮮人従軍慰安婦の写真集『重重』
2013-07-12 / 本

日本軍部隊に朝鮮で徴用され、中国の日本軍部隊に慰安婦として搾取され、戦後、故郷の朝鮮に帰ることができなくなった元日本軍従軍慰安婦たちの物語である。著者の安世鴻(アンセホン)氏が、中国で暮らしている元日本軍慰安婦の存在を知ったのは、2001年のことという。以降、中国各地を訪れては、その暮らしを写真に収めて来た。
昨年、新宿のニコンサロンで予定されていた「重重」写真展が、直前に中止を通告され、東京地裁に仮処分を申し立てて開催にこぎつけたことは、新聞報道などでもよく知られている。去年、ぼくも、ボディチェック装置まで備えた、過剰な警備の中を開催された写真展に行ってきた。このときは、おもに、写真だけだったが、今回、書籍になった本書を読んで、新たな衝撃を受けずにはいられなかった。文章がついている分だけ、ハルモニ(おばあさん)たちの苦渋に満ちた過酷な人生と現在の老いが切実に迫って来る。写真に添えられた文章を読みながら、われわれは、いったい、同じ人間に何をしてしまったのか、という問いが繰り返し、頭の中を過る。
従軍慰安婦は、朝日新聞とNYタイムズが作った捏造だとか、ほかの国もやっていたとか、すでに国家間の賠償は済んだとか、そんな薄っぺらい正当化は、彼女たちの実存的苦悩の前では、何の意味ももたないことがよくわかる。そして、あの戦争が明らかに、侵略戦争だったことが、感得されてくるのである。侵略の本質は、「暴力」である。朝鮮半島で良いこともした、などという言説が、いかに手前みそで幼稚なものかも見えてくる。インフラ整備などは、効率的な植民地経営の一環だったにすぎないのだから。
この夏、多くの人に読んで欲しい一冊である。
安世鴻(アンセホン)著、大月書店、2500円。翻訳も読みやすい。植田祐介訳。
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漱石『夢十夜』について
2012-12-08 / 本

■ウェブのフリーマガジンZouXに書いた漱石の『夢十夜』に関する書評。ZouXは、一定期間後、古い記事は消えるようなので、記録として、以下に転載。
夏目漱石『夢十夜』
フォード(1863-1947)とフロイト(1856-1939)が同時代人だったことをご存じだろうか。片や、大量生産の原型を作った自動車王、片や「無意識」を発見した精神分析の元祖。この二人、直接、関連性はないように見えるが、人間(社会関係)の「モノ」的側面に光を当てたという意味で、共通するのである。工場のラインで、自動車の部品を一心に組み立てる工員と、朝のカフェーで無意識に貧乏ゆすりを繰り返す若者。このとき、二人は「モノ」になっている。あるいは、そう扱われている。
夏目漱石(1867-1916)は、日本の近代小説のパイオニアの一人であるが、奇しくも、フォード、フロイトと同じ空気の中にいた。この点は、漱石を語る上で、重要なのではないだろうか。漱石の「西欧」とは、フォードとフロイトの「西欧」でもあった。1900年代は、フォード社を中心にして、大量生産方式が完成に向い、チャップリンの「モダンタイムス」(1936)に象徴されるように、資本主義の「人間疎外」が、一つの頂点を迎える時代にあたる。同時に、フロイトの登場で、「無意識」がテーマ化されてくる時代でもある(『夢判断』の発表は1900年)。社会関係の内と外に、同時に問題が見出された点に注目したい。
この時代に、漱石が「夢」をテーマにしたのは、フロイトの影響が感じられるが、「夢」そのものは、文学的モチーフとしては古くからある。たとえば、古今和歌集には、小野小町の「思ひつつぬればや人のみえつらん夢としりせばさめざらましを」という歌が見える。
『夢十夜』を読んでいると、不思議な感覚に囚われる。一般に覚めた意識で計画的に執筆された作品とは異なる、ある種の「昏さ」が感じられるのである。「自分はこういう風に一つ二つと勘定していくうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。」(第一夜)「おれは人殺しであったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。」(第三夜)「『今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る』…『深くなる、夜になる、真直になる』」(第四夜)「女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた」(第五夜)「庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いているといって健さんが知らせに来た。」(第十夜)
『夢十夜』は、人間にはどうにもならない「昏い力」が存在することを夢の形で告げている。この「昏い力」の正体は、人間の内と外に疎外された社会関係だということができるが、物象化された社会関係を考える場合、資本主義的な新しい形態だけでなく、芸術に体現された古代からの「物」について考えてみる必要があるだろう。そのヒントは、「物語」の語源にある。物語は「モノ騙り」(「モノ」が「騙る」)だと、俳人の五十嵐秀彦氏から、以前、ご教示いただいたが、このときの「モノ」は単純に物ではない。「モノ」はフロイトが発見した無意識と意識の間を漂い、社会関係の内と外に同時に存在する。「モノ」はマルクスが言う意味での「物象化」に深く関連しながら、<否定的/肯定的>という価値を超えた古代的なものに触れている。一見、神秘的に見える「モノ」をめぐる議論は、実は、大きな問題圏の中にある。紙幅の関係で展開できないが、一つだけ触れると、現在、われわれが当たり前だと思っている科学主義的な認識枠組みを根底から覆すような契機を含んでいるのである。
則天去私の思想は、人間の内側に問題解決を求めたものだが、内側の問題は、つねに外側の問題とつながっている。『夢十夜』は、「夢」をモチーフとしたことで、上記の消息を無意識的に示すことができたのではないだろうか。
◆あわせてお勧め:十人の監督が十夜の夢を描いたDVD版「ユメ十夜」(監督:実相寺昭雄、松尾スズキ、西川美和ほか、日活株式会社 2006)。
(初出「ZouX 305」)
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司馬遼太郎の短編
2010-11-03 / 本


(写真)Bernの秋の雨
今日は、朝から、白岡へ行ってきた。義父と久しぶりに会う。長年、仕事の傍ら、蜜柑やキーウィ、レモンや柿、柚や大根、茄子や山芋などを作ってきた自慢の畑へ、みんなででかける。周囲は、宅地になってしまったが、よく手入れされた庭のような家庭菜園。ひととき、みかん狩りや柚狩りになった。両手に持ちきれないほどの野菜や果物を貰ってくる。早速、茄子をタジン鍋で食す。スーパーのものよりも、実が詰まっていて美味である。茄子はあまり大きくなると、大味になるらしい。
その義父が、勤めていた頃、大のファンだったのが、司馬遼太郎である。ぼくも家人も司馬さんは大好きで、これまで、『街道をゆく』シリーズやエッセイ、対談をおもに読んできた。小説は、なぜか、これまで、一冊も読んでいない。帰りに、ぼくらがファンであることを知った義父が、もう読まないからと、ダンボール箱一杯に、司馬遼太郎を詰めてくれたのである。あとで、送ってくれると言うが、ぼくは待ち切れずに、短編集『最後の伊賀者』と『新史太閤記』(上下)を野菜や果物の間に挟むようにして持ち帰って来たのである。帰りの電車で、即、『最後の伊賀者』を読み始めたら、止まらなくなって、さっきまで読んでいた。
小説も、コミックも歴史系は好きで、これまで、ぼちぼち、読んできたが、司馬遼太郎は、面白すぎる。とくに、蕪村や秋成が出てくる「天明の絵師」は、抜群の面白さだった。藤沢周平が、一から物語を構成するのに対して、司馬遼太郎は、史実を調べ上げて、空隙を自分の想像力で埋めていく。なので、実在の人物や事件が、実に生き生きと内側から描かれている。蕪村の人物造形は、司馬さんのものだろうが、実際、こういう人物だったのではないかと思われてくる。司馬さんの小説の方法は、物語るだけではなく、批評するスタンスが同時にあるために、読者の人情に訴えて話に引きこむ安っぽさがない。
天才とは父の蕪村のような者こそそうではないか。孤高で気むずかしくて、人が好くて、暮らし下手で、独り歩きができないほどに心もとなげなところがあって、つい近所の法事にでかけても、道をまちがえて夜半になってもたどりつけない、―そんな人間こそ天才なのだ、とお絹はおもっていた。(『最後の伊賀者』p.192)
「天才」と言う概念は、19世紀のショパンあたりのロマン派から、という議論はあるにしても、現代から見れば、蕪村は、まさに天才なのであるから、こんな感じだったのかもしれない。
また、司馬さんは、蕪村にこんなことを言わせている。
「心が、砥げてくる」
刃物のように、と蕪村はいった。旅に出れば、自分の心の奥にある、あったとも思えぬ意外な琴が、意外に鳴りだすこともある。「その琴の音を」と蕪村がいった、「聴く。聴くことが旅というものだ、その音だけが自分を高めてくれる」(『同書』p.211)
語られている思想からは、芭蕉や蕪村をいかに読み込み理解しているかがわかる。結局のところ、人間や人生を知悉していなければ、なかなか、上記のような文章は、出てこないのではないだろうか。内容だけでなく、語り方に注目すると、欧文文体を独自に取り込もうとしている様子もうかがわれる。この短編集を書いたとき、司馬遼太郎37歳である。
この短編「天明の絵師」(『最後の伊賀者』所収)は、蕪村とその弟子、月渓(呉春)を軸に秋成や応挙などが出てくる興味深いものだが、読後、一つ疑問が湧いてくる。それは、蕪村ほどの天才芸術家が、なぜ、自分とはまったく資質の異なる、いわば絵画技術者である呉春を評価したのか、ということである。蕪村の友人の秋成は、呉春をこう評している。
「絵がカタチならば世に絵は要らぬ、ホンモノの山水があればいい、というのがあの男(秋成)の画論だ。絵は精神(こころ)である、それに尽きる、とあの男はいう。精神がなくて、カタチのみうまい絵師は、うまければうまいほど絵から遠ざかり、俗の俗になる、とあの男はいう」(『同書』p.209)
蕪村は現世で貧窮のうちに死に、呉春は名利を博し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇まで及んだ。
司馬さんの言いたいこととは違うかもしれないが、蕪村は、蕪村としてしか、ありようがなく、呉春は呉春としてしかありようがなかったのではあるまいか。二人には、そんななにか必然的なものを感じた。
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サイバープロテスト!!!
2009-11-28 / 本

■『サイバープロテスト』(皓星社)が遂に明日刊行! 「現存」に疑問を持つすべての者たちへ。社会運動にインターネットはいかなる可能性を持ち得るのか、あるいは得ないのか。感情論やセンセーショナリズムに傾くことなく、冷徹な分析のメスが光る。
人と人のコミュニケーションは、一緒に食事することから始まるが、高度情報化と高度消費化が進展する「ポストモダン状況」にあっては、実体性の喪失したネットコミュニケーションは、実体剥奪(戦争や殺人等)にこそふさわしい、というパラドックスを本書がどのように解き明かしているのか、実に興味深い。
一九六九年、黒人女性活動家アンジェラ・デイヴィス(現在、カリフォルニア州立大学バークレイ校教授)救援の動きが、社会主義圏・資本主義圏―今やいずれも崩壊!―の枠と距離を越えて、ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、大西洋を越え跨って、ルカーチやラッセルによってなされていた。あれから四十年! ネット社会はそれだけの濃密さのある主張と意思伝達を実現できるのか、が問われている。「インターネットと社会運動」―両極端のベクトルは合流できるのか、興味深い視点である。一読をすすめたい。
『ルカーチの存在論』公開講座十九周年講師(D合)社会哲学者 石塚省二
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『大空襲三一〇人詩集』書評
2009-05-04 / 本


(写真)木漏れ日
古典・名作・問題作をマンガで読破、というシリーズが面白くて、一気に7冊読んでしまった。遠い昔に翻訳で読んだ作品もあれば、途中で放棄した作品もあり、未読の作品もある。7冊中一番おもしろかったのは、ヒットラーの『わが闘争』。期待はずれだったのが、夢野久作の『ドグラ・マグラ』。原作を読みたいと思ったのが、ドストエフスキーの『悪霊』とメルヴィルの『白鯨』。
COAL SACK63号が出たので、投稿した書評と詩と翻訳詩を順次アップする。
◇
『大空襲三一〇人詩集』書評―歴史・詩・倫理
本書を読んで、まっさきに思ったのは、この詩集は中学高校の教材にふさわしいのではないか、ということだった。「愛国心」が、空虚な観念に対する愛であるのに対して、この詩集には、具体的な生活の中で生きた人間に対する具体的な愛があふれている。おそらく、人は、他者も自分と同じようにだれかを愛していることを、学ばなければならないのだろう。愛は哀であり、その感情に国境はない。
五月三日と五月四日と、
敵機は連日やってきた。
重慶は惨憺たる爆撃を受け、
死者は山のようにつみ重なった。
その中の一つの死骸と見えたもの、
母一人と子供二人だった。
一人の子供は腹の下に横たわり、
もう一人はふところに抱かれていた。
骨と肉とはコークスとなり、
かたくくっついて引き離せない。
ああ、やさしい母の心は
永久に灰にはできないのだ。
郭沫若「惨目吟―惨状を目にうめく」全行
人には、必ず、だれか愛する人間がいる。そして、人を愛するとはどういうことなのか、人は学ばなければならない。そんなメッセージが、このアンソロジーには籠められているように思える。
本書を読み進めていくと、日本の空襲の詩を読んでいても、「いったいわれわれは何をしてしまったんだろう」という想いに囚われる。国家という近代的な統治枠組みを超えたところに詩はあり、それが、本書の編集方針である海外詩の掲載と相まって、「われわれ人間は…」という気分にさせるのだ。歴史は、小林秀雄が言うように「畢竟、思い出にすぎない」のかもしれない。しかし、その思い出は個人的なものではなく集団的なものであり、自然現象ではなく人為的なものである。
爆弾が私を
この石に 白い壁に焼き付けた。焼けた輪郭。
爆弾の閃光が野外にいた私を見つけて
ここで私の体も影も 終わらせたから もう
影を落とすことはない。ただここにこんなにも明るい姿
でいるので
太陽でさえも気が付かない。大通りの人びとは
好むところに立っていたものだ―
私は彼らの周りを歩く。立ち止まるのは
良いことではない。彼らの影は今やみんな私の影―
私は石の上でまるで白そのものだ。
ウィリアム・スタフォード「爆心地」全行
歴史の背後には、この世から消された数多くの歴史がある。そして、この思い出は、われわれの生活を規定するのである。今ここにある歴史はいったい誰の歴史なのか、という批判的な認識と、誰の歴史を作るべきなのか、という実践的な志向性は切り離せない。ベンヤミンが言うように、歴史はこれまでずっと勝者の歴史だったからである。安部内閣に媚びるように、文科省が沖縄戦の歴史を国家の歴史として、新しく作り出そうとしたことは記憶に新しい。このとき、大規模な反対運動が沖縄から起こった。そのエネルギーと同質のものが、このアンソロジーにはあるように思う。散文が、外部の事態を描写し、脳に働きかけるのに対して、詩は、心身全体に働きかけてくる。歴史は、散文だけでは捉えきれない。歴史の核は、むしろ詩とともにあるのではなかろうか。詩のアンソロジーという方法は、諸力のせめぎあいの中で作られる歴史に投じた一石の貴重な波紋である。
もう帰ろうといえば、
もう帰りましょうという。
ここは僕らの家の焼けあと。
きのうまでのあの将棋駒のような家は
急にどこかに行ってしまって、
今朝はもうなにもない、なにもない、
ただ透き通るような可愛らしい炎が
午前四時くらいの地面一めんに
チロチロ光りながら這いまわっているばかり。
ゆうべ水と火の粉をくぐったオーバーの、
よごれた肩先をぼんやり払って、
もう帰ろうとまたいえば、
もう帰りましょうと、
お前は煤けた頬で哀れに復唱する。
光子よ、帰ろうといってもここは僕らの家。
いったいここからどこへ帰るのだ。
自分の家から帰るというのは
いったい、どうゆう家だ。
菅原克己「自分の家」全行
本書は、現代の空爆の詩も多数収めている。日本の詩人たちが、現代の空爆をいかに感受したかの貴重な記録にもなっている。筆者は、懇意にしているある俳人から、こんな意見をいただいた。きみたちは、パレスチナの視点から詩を書いていれば、それで満足かもしれないが、イスラエルを擁護する詩が書けるか。周り中から叩かれるが、その勇気があるか。イスラエルだってハマスにさんざん家族を殺されているじゃないか。そもそもイスラエルがあんな化け物国家になったのも、アウシュヴィッツ体験があるからではないのか。この意見は、さまざまなことを考えさせてくれる。一つは、イスラエルを擁護する詩とはなんなのか、ということ。これは、イスラエルの爆撃を正当化する詩のことであり、端的に言って、戦争に協力する詩のことだろう。これは逆も言える。ハマスを擁護する詩を書けば、ハマスの自爆テロに協力した詩になる。これを行えば、先の大戦のときに、多くの詩人、俳人が行った戦争協力となんら変わらないことになる。イスラエルのエージェントでもなくパレスチナのエージェントでもない地点にしか、詩はないだろう。この議論を理論的に敷衍すると、国家であれ、集団であれ、個人であれ、殺人はいけない、という立場に行きつく。この一つの具体化が死刑制度廃止論である。殺される側の人間が、大量殺戮を行った人間でも、自分の家族を殺した人間でも、どんな人間でも、である。つまり、反戦の詩を書くなら、自分のもっとも大切な人間を殺した人間でも、「殺すなかれ」と言えなければならない。
人を殺さない人間を育てる緊急性を感じるのは、筆者だけではないだろう。このとき重要なのは、倫理には、社会的基盤があるという認識である。人と人の距離が離れ、対面的状況が崩れると、倫理も崩壊する(社会哲学者 石塚省二)。航空機やコンピューターのような技術は人と人の距離を引き離す。技術と倫理、コミュニティと倫理は密接に関わっているのである。教育と同時に、技術やコミュニティを再考することの必要性を感じる。
![]() | 大空襲三一〇人詩集 |
クリエーター情報なし | |
コールサック社 |
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原爆詩集英語版書評
2008-05-09 / 本


(写真)スポットより撮った下り貨物
先日、『原爆詩集181人集』の英語版の書評を詩誌『COAL SACK』に書いた。時間があまりなかったので、書いているときは必死だったが、時が経って見直してみると、論理の粗雑さと強引さが目立って、恥じ入るばかりだが、恥も公にするのがブログの効果でもあろうと思うので、あえてアップする。石の中にかすかに玉が混じっていることを願う。
◇
The sounds of logos
logos(ロゴス)は、なかなかやっかいである。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ福音書)ここで言う、「言」がlogosである。もともとギリシャ起源の言葉であるが、logosの「論理」の側面は、logic、logique、Logikに引き継がれ、「知」の側面は、ラテン語のconscientiaを経由して、英語のconsciousness(意識)、conscience(良心・道徳)に、ドイツ語のVernunft(理性)に受け継がれていく。logosは、言葉であり、神であり、論理であり、知であり、倫理であり、一切の始原である。日本語を欧米の言語に翻訳するということは、唯一神が前提になったlogosの世界に踏み込むことを意味する。
consciousnessやVernunftの例からわかるように、logosは哲学する。logic、logique、Logik(論理)という強力なエンジンを洗練させながら、知の探求である哲学する運動を生み出すのである。それは、神の存在証明を経て、無神論へ、コギトの誕生へ、ich哲学へ、進歩史観を前提にした実証主義へ、やがて近代科学へと展開していく(logosを翻訳したラテン系の言葉の中に、すでにscienceが含まれているのは偶然ではない)。ここから二十世紀科学の最悪の到達点である原爆まではlogical processの中にある。だが、他方で、logosには、批判や倫理、他者性などの契機が含まれ、二次大戦のさなかに、『全体主義の起源』(アーレント)や『啓蒙の弁証法』(アドルノとホルクハイマー)を生んでいる。9.11事件以降は、周知のように、他者性がいっそうテーマ化されてきている。日本語で書かれた原爆の詩を英語に翻訳することは、原爆を生んだ当のlogosの世界に、日本語の詩を投げ込むことに他ならない。logosの世界は、別の面から見れば、自/他、神/人、主観/客観、貧/富、信/不信などといった厳格な二元論の世界であり、日本語の詩の世界とは、近代化が進んだとは言え、ある意味で、相互浸透的な一元論の世界である。logosの世界は、その積極的な側面―自己批判、倫理、他者性―を中心に激しく共振しながら、内部から大きく揺さぶられるはずである。
Give back our fathers. Give back our mothers.
Give back our old folk.
Give back our children.
Give myself back to me. Give back all the people
related me.
Give back peace,
peace which won’t crumble
as long as the world of human beings lasts.
まるで、神に訴える預言者の言葉のようではないか。遠い昔から幾多の戦乱に辛酸をなめた者たちが、神に苦難の意味を必死に問う言葉のようではないか。これが峠三吉という「異教徒」の詩であることがわかったとき、この言葉が向けられているのが、神ではなく、西欧世界全体であることがわかったとき、イラク、アフガン、パレスチナなどで起きている悲惨さを織り込むようにして、西欧世界に突き刺さるのではないだろうか。
不思議なことに、この詩は、日本語として発せられたとき、ブーメランのように、己に帰ってくる。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
ここにあるのは、「加害者性」という響きである。先の戦争で、親兄弟を失った中国の民が、日本語でこの詩を朗読したらどうだろう。植民地として抑圧を受けた朝鮮半島の民が日本語でこの詩を朗読したらどうだろう。すさまじい衝撃が襲うのではないだろうか。「加害者性」は、ひとつの歴史的な現実というだけではない。今もまさに「加害」は地球上で行われ、たとえば、日本の米軍基地という形でわれわれの税金がそれを支えている。もっと言えば、後期近代の資本主義システムに組み込まれている以上、ここに生きていること自体が、「加害者即被害者であり被害者即加害者」なのである。
翻訳という行為は、他者を対象化し、自覚させるばかりか、翻って、母国語自体に含まれうる他者性をも浮き彫りにしてしまうのである。
It may have been a mistake the first time,
but it is a betrayal the second time.
この重々しい響きはどうだろう。聖典に書かれた唯一神ヤハウェの言葉だと言っても、それほど違和感なく受け入れられるのではないだろうか。この「無題メモ」と題された栗原貞子の詩は、次のように続く。
We’ll not forget
the promise we’ve made to the dead.
「we」という言葉には、どこか排他性がつきまとう。それは「they」が暗黙に前提されているからだ。「they」は異教徒・異民族であり、幾多の宗教戦争の記憶が、「we/they」の区分にはまとわりついている。これは、9.11以降のテロの遍在化や中東の宗派対立に現われているように、けっして過去のことではない。栗原貞子の日本語の詩は優しい。
無題メモ
一度目は あやまちでも
二度目は 裏切りだ
死者たちへの
誓いを忘れまい
この詩には、主語がない。とくに最後の二行に注目すると、「we/they」の区分を一気に超えて、普遍的な高みを志向していることがわかる。この詩の主語は人類であるべきだと、栗原貞子は語っているかのようである。
Green has already come into the willow by the moat,
smiling under the sky enveloped in mist.
The water has returned, clearly flowing,
asking for an elegy in my heart.
濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頬笑む空の下
水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる
(原 民喜「悲歌」第一、第二連)
この詩には、はっきりと自然が現われている。第一連では、柳の緑が「smiling under the sky」と歌われ、「smiling」が比喩だとしても、そう表現する作者の中では、もはや、柳も人も命という次元では同一のものとして感受されている。この感受性があってはじめて、第二連で、命の始原であり終極である「the water」からの呼びかけを「asking for an elegy in my heart」と受け止められるのである。命に国境がないように水に国境はない。この星の水が求めるもの。それが「an elegy」だというのだ。「悲歌」と題された原民喜の詩は、「an elegy」に置き換えられたことで、遠くギリシャを呼び出してくる。elegyの語源になったelegeiaというギリシャ語は、人生の悲劇や死を悲嘆する「嘆き」を意味する。ギリシャ人たちは、この嘆きを慰めるために、「永遠」という観念を見出した。原民喜の詩の最後の二連は次のようになっている。
As if every parting word were exchanged so casually,
as if every agony were wiped away so casually,
as if a benediction were still visible on the other side,
I would walk away, I want to vanish now
into a void…into the yonder side of eternity.
すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに
私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに
(原 民喜「悲歌」第三、第四連)
まさに、古代ギリシャ人の感覚のようではないか。原民喜が詩の表題に「悲歌」を選んだときすでに、英語の「eternity」が心の中に芽生えていたとしか思えない。この時点で、もはや、東西文化の比較論は意味を失ったようにさえ思われる。深い「嘆き」を癒すためには、人は「永遠」を必要とするのだ。
Warm-hearted people lived there before.
Winds once blew on windowpanes, making them gleam.
Window frames could always catch peaceful scenery.
Clouds were drifting hand in hand as in a round dance.
Ah, what a long absence!
A long, long absence of humanity.
The summer of 1965.
I walk down the steps of twisted memories,
looking for what was lost,
jingling a bunch of keys in my heart.
かつては熱い心の人々が住んでいた
風は窓ガラスを光らせて吹いていた
窓わくはいつでも平和な景色を
とらえることができた
雲は輪舞のように手をつないで
青空を流れていた
ああなんという長い不在
長い長い人間不在
一九六五年夏
私はねじれた記憶の階段を降りてゆく
うしなわれたものを求めて
心の鍵束を打ち鳴らし
(木下夕爾「長い不在」全)
この木下夕爾の「長い不在」という詩は、リチャード・ライト(一九〇八―一九六〇)の俳句を思い出させる。ミシシッピの黒人小作人の長男、ライトは、米国での長期にわたる反差別運動に疲れ、最晩年、パリに亡命する。そこで、四、〇〇〇句の俳句を残した。その中にこんな句がある。
I am nobody:
A red sinking autmn sun
Took my name away.
俺はだれでもない
赤い秋の落日が
おれの名前を消したのだ
(注‐筆者訳)
同じ英語で読み比べてみると、なにか同質のものを感じないだろうか。「A long, long absence of humanity」という夕爾の響きは、ライトのこの三行を呼び出してくるかのようである。同時代を生きた二人が、海を挟んで、響きあう。東西文明の壁などやすやすと超えられてしまったかのように。これは、どういうことだろうか。logosの世界の辺境で抑圧されて生きざるを得ない人々には、夕爾の詩は親しいものに違いない。そうなのだ、原爆詩集の英語版は、西欧世界の核を内側から揺さぶるだけでなく、周辺部分を巻き込む力を持っているのである。願わくば、こうした階級的・地域的・文化的な辺境に住む人々の手に、この詩集が渡らんことを!
『COAL SACK』60号より
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コミック「墨攻」1-3
2007-02-16 / 本
金曜日、
。北風。
終日、仕事。いまだ、終わらず。気分転換に、コミック版「墨攻」(小学館文庫)を読む。映画と比べると、いかにも、漫画的にデフォルメされた濃いキャラクターが躍動するが、それに慣れると、コミック版の方が映画より数段上だとわかってくる。映画は、墨者、革離の英雄ぶりを中心に描いているが、コミック版では、一見、よく考えられたエンターテイメントの装いをしているものの、完璧な反戦漫画になっている。戦いに巻き込まれた人間たちの悲惨さと哀しさに胸を打たれる。コミックを読んでから、仕事にすぐに戻れないほどに、その衝撃は大きい。読んでいて「お前らもう止めろ!」と叫びたくなる。映画のエピソードは、コミック版では、ちょうど、1巻から3巻にあたる。コミック版は、全8巻なので、梁城の攻防が終わったあとの革離の行動が描かれるのだろう。いったい、どうなるのか。人間の歴史について、深い反省を迫るコミックだと思う。

終日、仕事。いまだ、終わらず。気分転換に、コミック版「墨攻」(小学館文庫)を読む。映画と比べると、いかにも、漫画的にデフォルメされた濃いキャラクターが躍動するが、それに慣れると、コミック版の方が映画より数段上だとわかってくる。映画は、墨者、革離の英雄ぶりを中心に描いているが、コミック版では、一見、よく考えられたエンターテイメントの装いをしているものの、完璧な反戦漫画になっている。戦いに巻き込まれた人間たちの悲惨さと哀しさに胸を打たれる。コミックを読んでから、仕事にすぐに戻れないほどに、その衝撃は大きい。読んでいて「お前らもう止めろ!」と叫びたくなる。映画のエピソードは、コミック版では、ちょうど、1巻から3巻にあたる。コミック版は、全8巻なので、梁城の攻防が終わったあとの革離の行動が描かれるのだろう。いったい、どうなるのか。人間の歴史について、深い反省を迫るコミックだと思う。
![]() | 墨攻(ぼっこう) 文庫版 コミック 全8巻完結セット (小学館文庫) |
クリエーター情報なし | |
小学館 |
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獄門島
2007-01-27 / 本
土曜日、
。午前中、仕事、午後、図書館で仕事。夕方、紀伊国屋で、『数学する遺伝子』(早川書房)という面白そうな本を衝動買い。ぼくは、ずっと以前から、英語やドイツ語の組み立てと数学はよく似ていると感じてきた。この本は、人間の言語能力と数学能力は、同じ脳の特性から出ているという仮説から出発して、二つの能力の関連にメスを入れているようなのだ。本屋で広告を見て、即、購入した。数学関連が少ない趣味の一つになってきた感じ。
◇
一ヶ月前になるけれど、新聞の特集で、横溝正史の『獄門島』の特集を読んだ。そのとき、なんとも言えず、懐かしかった。中高生のときに、何冊か読んだ記憶があるからだ。推理小説は、一時期、熱中して読んで、それきりまったく読まないけれど、横溝の世界は、どこか、諸星大二郎に通じるところがあり、郷愁を覚えた。記事によれば、芭蕉の発句が事件のキーになっているというではないか。これでは、読まないわけにはいかないのである。
読んでみて、まあ、面白いといえば面白いけれど、子供だましだなと感じた。現実にありえないことを想定して、物語が成立しているからだ。たとえば、芝居で使う張子の釣鐘を警官が懐中電灯で調べたとき、それを張子だと気がつかぬわけはない。小心な漢方医や善良な町長が殺人をしてきて、何の動揺も何の行動の変化もないわけがない。そもそも、網元の側近三人(村長、漢方医、住職)が、いくら、網元の死を目前にした願い事とは言え、殺人を引き受ける設定に無理がある。かりに、非常に濃い主従関係から死後もその意向を実行するとしても、根本的な問題が残る。重要情報を確認せずに殺人という重大な行為を実行に移すはずがないという問題である。つまり、網元の孫の一人が戦死し一人が生き残った場合に、この網元の意向が実行されるはずだった。孫の一人の戦死は、金田一耕介自身が島に伝え、官報で確認された。しかし、もう一人の孫の生存情報源が実にあいまいなのである。この点を側近の三人は確認していない。つまり、現実にその孫が島に生還して姿を確認してから殺人プログラムが稼動されるはずである。
まあ、そんなわけで、中高生のときよりもスレてしまったぼくには、物足りないものが残った。ただ、作中、次の箇所が印象に残った。
「お小夜か、あれは気ちがいでしたな。あんたは知るまいが、この中国筋にはカンカンたたきという筋のものがある。四国の犬神、九州の蛇神、それとは少しおもむきがちがうが、ふつうの者と交わりができぬものとしてある。いわれを話すと古いが、なんでも陰陽師安倍晴明が、中国筋へくだってきたとき、供のものがみんな死んでしもうた。そこで晴明さん、道ばたの草に生命をあたえて人間とし、これをお供にして、御用を果たしたが、さて、京へ帰るとき、もとの草にもどそうとすると、そのものどものいうことに、せっかく人間にしていただいたのだから、このままでおいてくだされと頼んだのそうだ。そこで、晴明さんんもふびんに思って、そのまま人間にしておくことにしたが。もとをただせば草だから、たつきの業を知らぬ、晴明さん、そこで祈祷の術を教えて、これをもって代々身を立てよといいきかされたというのじゃが、その筋のものを草人、一名カンカンたたきといって、代々祈祷をわざとしている(後略)」(横溝正史『獄門島』p.302 角川文庫)
横溝正史は、漁民の生活や網元の権力など、じつによく知っていて、作中に描いている。そうした前半部分の方が作品としてはリアリティがあっていいように思う。推理小説という枠が前面に出た後半部分は、上述した理由から、ぼくとしては、評価できない。そんな中に、ふいに挿入されたのが、上記部分である。この話、実に面白い。調べてみようかなと思っている。

◇
一ヶ月前になるけれど、新聞の特集で、横溝正史の『獄門島』の特集を読んだ。そのとき、なんとも言えず、懐かしかった。中高生のときに、何冊か読んだ記憶があるからだ。推理小説は、一時期、熱中して読んで、それきりまったく読まないけれど、横溝の世界は、どこか、諸星大二郎に通じるところがあり、郷愁を覚えた。記事によれば、芭蕉の発句が事件のキーになっているというではないか。これでは、読まないわけにはいかないのである。
読んでみて、まあ、面白いといえば面白いけれど、子供だましだなと感じた。現実にありえないことを想定して、物語が成立しているからだ。たとえば、芝居で使う張子の釣鐘を警官が懐中電灯で調べたとき、それを張子だと気がつかぬわけはない。小心な漢方医や善良な町長が殺人をしてきて、何の動揺も何の行動の変化もないわけがない。そもそも、網元の側近三人(村長、漢方医、住職)が、いくら、網元の死を目前にした願い事とは言え、殺人を引き受ける設定に無理がある。かりに、非常に濃い主従関係から死後もその意向を実行するとしても、根本的な問題が残る。重要情報を確認せずに殺人という重大な行為を実行に移すはずがないという問題である。つまり、網元の孫の一人が戦死し一人が生き残った場合に、この網元の意向が実行されるはずだった。孫の一人の戦死は、金田一耕介自身が島に伝え、官報で確認された。しかし、もう一人の孫の生存情報源が実にあいまいなのである。この点を側近の三人は確認していない。つまり、現実にその孫が島に生還して姿を確認してから殺人プログラムが稼動されるはずである。
まあ、そんなわけで、中高生のときよりもスレてしまったぼくには、物足りないものが残った。ただ、作中、次の箇所が印象に残った。
「お小夜か、あれは気ちがいでしたな。あんたは知るまいが、この中国筋にはカンカンたたきという筋のものがある。四国の犬神、九州の蛇神、それとは少しおもむきがちがうが、ふつうの者と交わりができぬものとしてある。いわれを話すと古いが、なんでも陰陽師安倍晴明が、中国筋へくだってきたとき、供のものがみんな死んでしもうた。そこで晴明さん、道ばたの草に生命をあたえて人間とし、これをお供にして、御用を果たしたが、さて、京へ帰るとき、もとの草にもどそうとすると、そのものどものいうことに、せっかく人間にしていただいたのだから、このままでおいてくだされと頼んだのそうだ。そこで、晴明さんんもふびんに思って、そのまま人間にしておくことにしたが。もとをただせば草だから、たつきの業を知らぬ、晴明さん、そこで祈祷の術を教えて、これをもって代々身を立てよといいきかされたというのじゃが、その筋のものを草人、一名カンカンたたきといって、代々祈祷をわざとしている(後略)」(横溝正史『獄門島』p.302 角川文庫)
横溝正史は、漁民の生活や網元の権力など、じつによく知っていて、作中に描いている。そうした前半部分の方が作品としてはリアリティがあっていいように思う。推理小説という枠が前面に出た後半部分は、上述した理由から、ぼくとしては、評価できない。そんな中に、ふいに挿入されたのが、上記部分である。この話、実に面白い。調べてみようかなと思っている。
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クリエーター情報なし | |
角川書店(角川グループパブリッシング) |
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