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いまここに在ることの恥(2)

日曜日、。旧暦、閏7月4日。

来週、急に関西に行くことになって、その準備に追われている。医療奉仕に海外に行っていた友だちが帰国するので、みんなで集まることになった。



『いまここに在ることの恥』のもう一つのテーマである「現代のファシズム」について述べる前に、「表現と時代との倫理的な関係」について、考えてみたい。

辺見さんは、1937年の南京大虐殺、1938年の国家総動員法公布という時代に注目して、この暗い時代に、たとえば、辺見さんの好きな太宰は何を書いていたかを問う。太宰は、「満願」という美しい掌編小説を書いていた。辺見さんは、次のように書いている。

「なるほど、うまいなあと私も感じ入る。けれども、うまいぶんだけ、ひっかかる。考えこんでしまう。状況と表現。状況と内面。時代と表現。そのことが、ひっかかってしょうがない。1938年の問題ではあるのですが、2006年のひっかかりとしても、これはある。もちろん、いかなる状況下にあっても『満願』のような物語はありうるし、作品として成立するでしょう。あるいはミニマムな人の常として、表現に値せずとはいえない。たぶん、そういってはいけない。だが、ひっかかる。大いにひっかかる。きょういいたいことの大事な点がここにかかわる。それはやはり恥にかかわるのです。(中略)いまは1938年ではありません、ですが、状況と表現の関係、ないしは時代と個の立ち居ふるまいの関係に苦しむのは無意味とはいえないと私は思うのです。私たちは『満願』を一幅の美しいスケッチとして読むことができます。しかし、『満願』の絵の近景や遠景に、国家総動員法や南京代虐殺といった光の屈折や血の臭いを想像し、必死で助けを求めただあろうはるかな遠音に耳をすますとき、時代を超えて恥はからだの内側から青痣のように浮きでてくるのです」(辺見庸著『いまここに在ることの恥』pp.147-148)

この本を読んで、まっさきに気になったのは、この箇所だった。二つの意味で気になった。一つは、ここに述べられているように、表現と時代の関係について。もう一つは、この本が描く世界と表現の関係について。

最初に述べたように、この本の読後感は暗褐色である。この本が描く世界の現実の中に、詩や俳句は居場所を持っているのか、というのが始めに感じた疑問だった。詩については、いくつも拮抗する作品や詩人をあげることがすぐにできる。たとえば、石原吉郎、鳴海英吉、トラークル。二次大戦を知らない賢治の作品の中にも、拮抗する作品は多くある。

夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業のはなびらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるへてゐる


宮沢賢治『春と修羅』第二集から

では、俳句はどうだろう。俳句は、南京大虐殺の前で、国家総動員法の前で、中国での人体実験の前で、カンボジア難民の前で、現代のファシズムの前で、どんな立ち居ふるまいをするのだろうか。次の句は、この春にぼくが書いた句である。

楽隊の後に楽隊チューリップ

正直言って、辺見さんの世界の中に、この句の居場所はないように思う。この句を辺見さんに見せたら、顔をしかめられそうな気がする。たまたま、自作を取り上げたが、現代に書かれている俳句は、どれもこれと似たような印象を受けるのではないだろうか。

だが、一方で、石原吉郎がシベリア抑留中に句会を行ったという話や金子兜太が戦場で句会を行ったという話は、どう理解したらいいのだろう。単に本土恋しいだけではないように思う。収容所での非人間的な扱いや仲間同士の密告・裏切りといった個々人がバラバラになっていくプロセス。戦場での死と隣り合わせ、といった孤独な極限状況が、逆に、本能的に人間の共同性回復へ向かわせたのではなかったか。句会が非人間的な日常の中で人間的な時間を回復する装置になっていたのではないか。

俳句が一見脳天気に見えるその裏には、世界の地獄があり、人と人の和解や人と自然の和解といった一瞬の現実とも一瞬の理念とも言える何ものかを表現することで、暗褐色の世界に拮抗しているようにも思えるのである。

虚子が戦時中どういう句を作っていたか。今度の関西旅行の車中で、確認してみたいと思っている。



いまここに在ることの恥 (角川文庫)
クリエーター情報なし
角川書店(角川グループパブリッシング)







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