金木の駅を降りて、駅前の道を歩く。
車窓からも見えた太宰の生家は、今では「斜陽館」という観光施設となっている。相変わらず強い陽射しが照りつけていたが、軽装であるためにあまり汗をかかないことが有り難かった。
斜陽館への道を歩いていると、一人の女性がパンフレットを配っていた。どうやらこのお宅も太宰にゆかりのある場所らしかった。しかしそれは家ともつかぬ、ごくありふれた商店の佇まいをしていた。しかし看板には「太宰治疎開の家 津島家新座敷」としっかり書かれていた。生家とは別にこのような家があることは知らず、意外に思いながらも、会釈をしてパンフレットを受け取った。
歩きながらパンフレットに目を通した。B5サイズのそれには「知る人ぞ知る大正建築」であると書かれていた。直感で、これはおもしろそうだと思った。しかし、名家に生まれ育った太宰が滞在したという割には、その家は大人しく控えめな印象で、こうしてパンフレットを渡されなければ分からないほど、今では周囲の家々のなかに埋没していた。途端に、中の光景を見てみたくなった。
百聞は一見に如かず。青森で急いだこともあり、幸い列車の時間にはまだ余裕がある。せっかく此処まで来たのだから、見られるものは見ておこうと思い、すぐさま踵を返してその家へと向かった。
恐る恐る扉を開けると親切そうなガイドの男性が現れた。500円を払った。
「ようこそいらっしゃいました。さぁさぁ、どうぞどうぞ。好きな太宰の作品は何ですか?」
「いまいろいろ読んでいる最中ですが、やっぱり『人間失格』が、いちばん……印象的ですね」
靴を脱ぎながら自分は当たり障りのないオーソドクスな返答をした。それは紛れもない事実であった。『人間失格』はこの夏に読み直したばかりであったし、何よりこの旅の契機でもあった。
自分が太宰の作品を読む時というのは、大体いつも同じ時である。それは寂しい時や暗く落ち込んだ時で、今ならば――大学生活も残り僅か、進路も決まらず、将来を案じながら、最後の夏休みを部屋で塞ぎ込み無為に過ごしている、このような状況で読むことが何より相応しいと思っていた。
思い返せば、恥の多い学生生活を送ってきた。自分の置かれた状況を、自分の心にあるほんとうのことを、どう言葉で表せばよいのか、その代弁者を探していた。それが、谷崎でも三島でもなく、太宰だった。
---
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。――『人間失格』
---
家に入ると、さっそく新座敷が現れた。
先ほどの大人しい佇まいとは裏腹に、時間の止まったような空間が表れた。太宰の死後、現代に至るまで長らく商店として使われていたのだから、人の来る玄関の方だけ作り変えられていたのも無理はない。
ここが太宰の生家である津島家の新座敷であり、また彼が戦時中に地元へ疎開してきた際に滞在し、二十二に及ぶ作品を執筆した家である。展示されていたかつての間取り図を見ると、かつては裏庭を介して生家と繋がっており、大層広く、立派な家であることが窺えた。
「ここはうぐいす張りになっています」
廊下の一部は寺院でもないのにうぐいす張りであった。京都では馴染みがあるから、その構造についてはよく分かる。以前訪れた等持院のそれを思い出して、用もないのに何往復か歩いて、満足した。そうして、この廊下を太宰は毎日歩いていた、ここがあの作品に登場する部屋であるなど、丁寧に案内をして頂いた。
「『津軽』を読まれたことはありますか?」
「いま、持ち歩いて読んでいるところです」
「『津軽』は戦時中なのに青森じゅうを回って酒を飲んだり遊んだりして、太宰にしては珍しく楽しい話なんですよね」
「ですよね」
そう言ってガイドの男性は文庫本を取り出して解説してくれた。付箋が貼られたその文庫本はボロボロになっていた。きっと今まで何度も解説をされてきたのだろう。
「せっかくだから座りましょう。太宰の目線になってご案内します」
二人分の小椅子が並び、自然の光だけが差し込む、ゆったりとした時間が流れる座敷の中で、作品の解説をして頂いた。加えてお勧めされた『富嶽百景』は、ちょうどいま持っている文庫本の中にも収録されている。しかしまだ読んでいない。後の楽しみが増えたと喜び、続けて解説を聞いた。
解説が終わると自由に室内を見学した。撮影はご自由にと言われたので、何枚かの写真を撮り、気になっていた造り付けのソファーに腰を掛けた。そのソファーは想像とは裏腹にミシミシと音を立てて大きく凹んだ。よく見ると中の金具が露出して、すっかりくたびれた様子であった。太宰はもちろんのこと、今までに多くの人が座ったのであろう。これが没落した名家の姿か、とも思った。
ふと外に目をやると、陽が差していた。斜陽であった。
この光景に出会えたことを幸せに思った。この光景を見るために、ここへ来たのだと思った。
---
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。――『斜陽』
---
そんな『斜陽』の一節が思い浮かんだ。
しばらくソファーで物思いに耽っていると、観光客の家族連れがやって来たので入れ替わりに去ることにした。去り際に記帳台を見つけたのでひとこと書いておいた。そして何かお土産をと思い、隣接する物販コーナーを訪れた。
「このTシャツは又吉さんもお持ちですよ」
「又吉さんって、あのピースの又吉さんですか」
そのTシャツは紺色に白字で「I LOVE DAZAI」と描かれたものであった。変わったTシャツを集めるのは好きなので記念にそれを求めた。休み明けのゼミにでも着て行こう。分かる人は、分かってくれるだろう。
それから丁寧にお礼を述べて疎開の家を後にした。もう、これでおなかいっぱいの気分である。けれども、まだまだ。
次に斜陽館へ向かった。先ほど列車からも見えた、金木の竜宮城とも呼ばれていたそれは大層豪華な佇まいであった。何故こんな田舎にこんな立派な建物が、と思うほど、それは周囲との調和を為していなかった。太宰は、かつてこの家が農民から土地を奪って出来た家であることを嘆いていたという。それを契機として、何の不自由もしなかったいわゆる「金持ちの息子」が、『人間失格』のような作品を書いていったのである。
---
私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数まかずが三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈がんじょうなつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い。
書画骨董こっとうで、重要美術級のものは、一つも無かった。
この父は、芝居が好きなようであったが、しかし、小説は何も読まなかった。「死線を越えて」という長編を読み、とんだ時間つぶしをしたと愚痴ぐちを言っていたのを、私は幼い時に聞いて覚えている。
しかし、その家系には、複雑な暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態しゅうたいを演じなかった。津軽地方で最も上品な家の一つに数えられていたようである。この家系で、人からうしろ指を差されるような愚行を演じたのは私ひとりであった。――『苦悩の年鑑』
---
放蕩息子の文学。それは本来、家長の文学と相克であるべきだったのだが――今やその放蕩息子は責任者たる家長を追い抜き、しまいにその存在すらも危うくし、日本文学の後継者と化した。
斜陽館では太宰に関する多くの資料が展示してあった。一部は蔵を利用して展示がされており、万が一の火災などにはちょうど良い備えであると感じた。
いちばん見たかった『人間失格』の直筆原稿が展示されていた。パソコンの無い時代であるから、当然、手書きである。手書きでものをしたためる時は、それなりに神経を使う。太宰がこの作品を一文字一文字紡いでいった心境は、果たしてどのようなものであっただろうか。そんなことを考えながら、全てをじっくりと見て回った。
二階の様子は絵に描いた大正浪漫そのものであった。きっとこの廊下をお手伝いさんが慌しく往復し、その隙を太宰もまた闊歩していたのだろう。
各部屋のつくりを隅々まで眺めながら、良さそうな構図を見つけてはしきりにシャッターを切った。自分の知る幾人かの女友達はこんな建築を好みそうだなと思った。
そうして、
「はい、わたしはここに立つから、ほら、写真を撮ってね」
なんて、かわいらしく注文をつけて言うのだろう。
そうして斜陽館を出た後は、近くの自販機でりんごジュースを買い、時折飲みながら、芦野公園駅を目指して歩いた。
道中、民家の脇を通り過ぎるたびに金木の人々の普通の暮らしぶりを垣間見て、やはりあの家はこの地において異質であったことを改めて感じた。栄枯盛衰とはそういうものかもしれなかった。
---
ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。――『津軽』
---
『津軽』にもある通り、芦野公園駅は小さな駅であった。もちろん久留米絣を着たお嬢さんは居なかったが、ホームでは何人かの観光客が列車を待っていた。
芦野公園14:36発→津軽五所川原15:00着
駅の周囲は松林に囲まれて独特の雰囲気を醸し出していた。奥に見える踏切ではしばしば車が通行していた。やがて踏切が鳴ったかと思えば、松林の向こうから二両連結の列車が姿を現した。この風景は今も昔も変わらないのかもしれない。ともかく、これで太宰のふるさとともお別れである。また、いつか、きっと。
そうして再び五所川原に戻ると、ちょうど弘前行きの「リゾートしらかみ」が停車していたが、指定席券が必要なので後続の普通列車に乗ることにした。何も急ぐことはあるまい。コインロッカーに預けていたリュックを引っ張り出し、また背負い、歩き始めた。
青森はともかく、五所川原に来ることはこれから先もあまり無いだろう。そんな場所に限ってまた訪れるのかもしれないが、駅で待ち時間のある時は、軽く周囲を歩くのが自分の旅の楽しみとなっていた。まだ夏の気配を残した空の下、青い屋根の並ぶ五所川原の路地裏を抜け、五能線の踏切に辿り着くとカメラを取り出した。今度は秋田行きの「リゾートしらかみ」がやって来るのである。先般の東北新幹線新青森駅の開業で新型となったその列車は、その近未来的デザインをこのローカル線の風景に馴染ませるように通過行った。太宰が見たら、どんな表現で例えるだろう。
五所川原16:11発→川部16:45着
川部16:50発→青森17:33着
そうして(この文章には、随分そうしてが多い)、また五能線と奥羽本線を乗り継いで青森に戻ると、程なくして寝台特急「あけぼの」が入線してきた。
これはもちろん、今朝到着した、上野から乗ってきた便の折り返しである。行きも帰りも変わらず悠々とした佇まいである。また十二時間をかけて上野までを走るのである。乗客の多くは秋田や山形からであろう。青森駅から乗り込んだ客は一車両あたり数人であった。
上野駅とは違い、開放感のあるホームで思い思いに写真を撮ることが出来た。次に来た時も、走っていてくれるだろうか。
青森18:19発→八戸19:48着
そうして冷たい風が吹いてきたところで構内のうどんを食べ、青い森鉄道の列車に乗った。八戸へ向かう。ここ青森から八戸の間は、東北新幹線が新青森まで開通したことに伴い、JR東北本線から「青い森鉄道」に転換された区間である。
車内には高校生の姿が多かった。最初は三人や四人でボックスシートに座っていた彼らが、途中の駅で別れの挨拶を交わし、一人、また一人ずつ抜けて行く様子をただ見ていた。
最後に残された彼は何を想っているのだろう。仲間が去った寂しさか、喧騒から解放された安堵か。電車通学に縁が無かった自分は、想像を巡らせることが容易ではなかった。
いずれにせよ、また翌朝には最初に席を確保するのだろう。後で乗ってくる仲間のために。
八戸は既に夜の帳が降りていた。しかし長らく新幹線の終着駅であったせいか駅は大きく、辛うじてコンビニは開いていたので翌朝の朝食を求めた。もう今夜は何も要らない。
乗り換えた八戸線の気動車は小気味良いエンジンの音を響かせて動き出した。非冷房車であるせいか、近くの窓は空いたままで、夜風が頬に当たった。この感触は一昨年に乗った気仙沼線と同じであった。しかしあちらは震災で不通となってしまった。この八戸線も沿岸部を通るために一時は不通となっていたものの、懸命な努力の甲斐あって、震災から一年後の三月に全線で運転を再開した。僅かな距離ではあるが、いま自分もその恩恵にあずかっている。そんなことを思っているうち、聞こえてくるエンジンの音が、鉄道の、地域の、復興の息吹そのもののように感じられた。
八戸20:15発→本八戸20:31着
本八戸の駅前にはフェリーターミナル行きのバスを待つ乗客が何人か並んでいた。自分もまたそこに並び、夜空を眺めながらバスを待った。転げ落ちるように下った東海道、そして上野から寝台特急で降り立った青森、太宰を追った五所川原、実はこれで十分なのかもしれない。此処まで来ていながら、まだ北を目指すのである。そこには目的や理由もない。
青森よ、さようなら。
ここまでは壮大な序章に過ぎなかった。
車窓からも見えた太宰の生家は、今では「斜陽館」という観光施設となっている。相変わらず強い陽射しが照りつけていたが、軽装であるためにあまり汗をかかないことが有り難かった。
斜陽館への道を歩いていると、一人の女性がパンフレットを配っていた。どうやらこのお宅も太宰にゆかりのある場所らしかった。しかしそれは家ともつかぬ、ごくありふれた商店の佇まいをしていた。しかし看板には「太宰治疎開の家 津島家新座敷」としっかり書かれていた。生家とは別にこのような家があることは知らず、意外に思いながらも、会釈をしてパンフレットを受け取った。
歩きながらパンフレットに目を通した。B5サイズのそれには「知る人ぞ知る大正建築」であると書かれていた。直感で、これはおもしろそうだと思った。しかし、名家に生まれ育った太宰が滞在したという割には、その家は大人しく控えめな印象で、こうしてパンフレットを渡されなければ分からないほど、今では周囲の家々のなかに埋没していた。途端に、中の光景を見てみたくなった。
百聞は一見に如かず。青森で急いだこともあり、幸い列車の時間にはまだ余裕がある。せっかく此処まで来たのだから、見られるものは見ておこうと思い、すぐさま踵を返してその家へと向かった。
恐る恐る扉を開けると親切そうなガイドの男性が現れた。500円を払った。
「ようこそいらっしゃいました。さぁさぁ、どうぞどうぞ。好きな太宰の作品は何ですか?」
「いまいろいろ読んでいる最中ですが、やっぱり『人間失格』が、いちばん……印象的ですね」
靴を脱ぎながら自分は当たり障りのないオーソドクスな返答をした。それは紛れもない事実であった。『人間失格』はこの夏に読み直したばかりであったし、何よりこの旅の契機でもあった。
自分が太宰の作品を読む時というのは、大体いつも同じ時である。それは寂しい時や暗く落ち込んだ時で、今ならば――大学生活も残り僅か、進路も決まらず、将来を案じながら、最後の夏休みを部屋で塞ぎ込み無為に過ごしている、このような状況で読むことが何より相応しいと思っていた。
思い返せば、恥の多い学生生活を送ってきた。自分の置かれた状況を、自分の心にあるほんとうのことを、どう言葉で表せばよいのか、その代弁者を探していた。それが、谷崎でも三島でもなく、太宰だった。
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ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。――『人間失格』
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家に入ると、さっそく新座敷が現れた。
先ほどの大人しい佇まいとは裏腹に、時間の止まったような空間が表れた。太宰の死後、現代に至るまで長らく商店として使われていたのだから、人の来る玄関の方だけ作り変えられていたのも無理はない。
ここが太宰の生家である津島家の新座敷であり、また彼が戦時中に地元へ疎開してきた際に滞在し、二十二に及ぶ作品を執筆した家である。展示されていたかつての間取り図を見ると、かつては裏庭を介して生家と繋がっており、大層広く、立派な家であることが窺えた。
「ここはうぐいす張りになっています」
廊下の一部は寺院でもないのにうぐいす張りであった。京都では馴染みがあるから、その構造についてはよく分かる。以前訪れた等持院のそれを思い出して、用もないのに何往復か歩いて、満足した。そうして、この廊下を太宰は毎日歩いていた、ここがあの作品に登場する部屋であるなど、丁寧に案内をして頂いた。
「『津軽』を読まれたことはありますか?」
「いま、持ち歩いて読んでいるところです」
「『津軽』は戦時中なのに青森じゅうを回って酒を飲んだり遊んだりして、太宰にしては珍しく楽しい話なんですよね」
「ですよね」
そう言ってガイドの男性は文庫本を取り出して解説してくれた。付箋が貼られたその文庫本はボロボロになっていた。きっと今まで何度も解説をされてきたのだろう。
「せっかくだから座りましょう。太宰の目線になってご案内します」
二人分の小椅子が並び、自然の光だけが差し込む、ゆったりとした時間が流れる座敷の中で、作品の解説をして頂いた。加えてお勧めされた『富嶽百景』は、ちょうどいま持っている文庫本の中にも収録されている。しかしまだ読んでいない。後の楽しみが増えたと喜び、続けて解説を聞いた。
解説が終わると自由に室内を見学した。撮影はご自由にと言われたので、何枚かの写真を撮り、気になっていた造り付けのソファーに腰を掛けた。そのソファーは想像とは裏腹にミシミシと音を立てて大きく凹んだ。よく見ると中の金具が露出して、すっかりくたびれた様子であった。太宰はもちろんのこと、今までに多くの人が座ったのであろう。これが没落した名家の姿か、とも思った。
ふと外に目をやると、陽が差していた。斜陽であった。
この光景に出会えたことを幸せに思った。この光景を見るために、ここへ来たのだと思った。
---
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。――『斜陽』
---
そんな『斜陽』の一節が思い浮かんだ。
しばらくソファーで物思いに耽っていると、観光客の家族連れがやって来たので入れ替わりに去ることにした。去り際に記帳台を見つけたのでひとこと書いておいた。そして何かお土産をと思い、隣接する物販コーナーを訪れた。
「このTシャツは又吉さんもお持ちですよ」
「又吉さんって、あのピースの又吉さんですか」
そのTシャツは紺色に白字で「I LOVE DAZAI」と描かれたものであった。変わったTシャツを集めるのは好きなので記念にそれを求めた。休み明けのゼミにでも着て行こう。分かる人は、分かってくれるだろう。
それから丁寧にお礼を述べて疎開の家を後にした。もう、これでおなかいっぱいの気分である。けれども、まだまだ。
次に斜陽館へ向かった。先ほど列車からも見えた、金木の竜宮城とも呼ばれていたそれは大層豪華な佇まいであった。何故こんな田舎にこんな立派な建物が、と思うほど、それは周囲との調和を為していなかった。太宰は、かつてこの家が農民から土地を奪って出来た家であることを嘆いていたという。それを契機として、何の不自由もしなかったいわゆる「金持ちの息子」が、『人間失格』のような作品を書いていったのである。
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私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数まかずが三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈がんじょうなつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い。
書画骨董こっとうで、重要美術級のものは、一つも無かった。
この父は、芝居が好きなようであったが、しかし、小説は何も読まなかった。「死線を越えて」という長編を読み、とんだ時間つぶしをしたと愚痴ぐちを言っていたのを、私は幼い時に聞いて覚えている。
しかし、その家系には、複雑な暗いところは一つも無かった。財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態しゅうたいを演じなかった。津軽地方で最も上品な家の一つに数えられていたようである。この家系で、人からうしろ指を差されるような愚行を演じたのは私ひとりであった。――『苦悩の年鑑』
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放蕩息子の文学。それは本来、家長の文学と相克であるべきだったのだが――今やその放蕩息子は責任者たる家長を追い抜き、しまいにその存在すらも危うくし、日本文学の後継者と化した。
斜陽館では太宰に関する多くの資料が展示してあった。一部は蔵を利用して展示がされており、万が一の火災などにはちょうど良い備えであると感じた。
いちばん見たかった『人間失格』の直筆原稿が展示されていた。パソコンの無い時代であるから、当然、手書きである。手書きでものをしたためる時は、それなりに神経を使う。太宰がこの作品を一文字一文字紡いでいった心境は、果たしてどのようなものであっただろうか。そんなことを考えながら、全てをじっくりと見て回った。
二階の様子は絵に描いた大正浪漫そのものであった。きっとこの廊下をお手伝いさんが慌しく往復し、その隙を太宰もまた闊歩していたのだろう。
各部屋のつくりを隅々まで眺めながら、良さそうな構図を見つけてはしきりにシャッターを切った。自分の知る幾人かの女友達はこんな建築を好みそうだなと思った。
そうして、
「はい、わたしはここに立つから、ほら、写真を撮ってね」
なんて、かわいらしく注文をつけて言うのだろう。
そうして斜陽館を出た後は、近くの自販機でりんごジュースを買い、時折飲みながら、芦野公園駅を目指して歩いた。
道中、民家の脇を通り過ぎるたびに金木の人々の普通の暮らしぶりを垣間見て、やはりあの家はこの地において異質であったことを改めて感じた。栄枯盛衰とはそういうものかもしれなかった。
---
ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。――『津軽』
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『津軽』にもある通り、芦野公園駅は小さな駅であった。もちろん久留米絣を着たお嬢さんは居なかったが、ホームでは何人かの観光客が列車を待っていた。
芦野公園14:36発→津軽五所川原15:00着
駅の周囲は松林に囲まれて独特の雰囲気を醸し出していた。奥に見える踏切ではしばしば車が通行していた。やがて踏切が鳴ったかと思えば、松林の向こうから二両連結の列車が姿を現した。この風景は今も昔も変わらないのかもしれない。ともかく、これで太宰のふるさとともお別れである。また、いつか、きっと。
そうして再び五所川原に戻ると、ちょうど弘前行きの「リゾートしらかみ」が停車していたが、指定席券が必要なので後続の普通列車に乗ることにした。何も急ぐことはあるまい。コインロッカーに預けていたリュックを引っ張り出し、また背負い、歩き始めた。
青森はともかく、五所川原に来ることはこれから先もあまり無いだろう。そんな場所に限ってまた訪れるのかもしれないが、駅で待ち時間のある時は、軽く周囲を歩くのが自分の旅の楽しみとなっていた。まだ夏の気配を残した空の下、青い屋根の並ぶ五所川原の路地裏を抜け、五能線の踏切に辿り着くとカメラを取り出した。今度は秋田行きの「リゾートしらかみ」がやって来るのである。先般の東北新幹線新青森駅の開業で新型となったその列車は、その近未来的デザインをこのローカル線の風景に馴染ませるように通過行った。太宰が見たら、どんな表現で例えるだろう。
五所川原16:11発→川部16:45着
川部16:50発→青森17:33着
そうして(この文章には、随分そうしてが多い)、また五能線と奥羽本線を乗り継いで青森に戻ると、程なくして寝台特急「あけぼの」が入線してきた。
これはもちろん、今朝到着した、上野から乗ってきた便の折り返しである。行きも帰りも変わらず悠々とした佇まいである。また十二時間をかけて上野までを走るのである。乗客の多くは秋田や山形からであろう。青森駅から乗り込んだ客は一車両あたり数人であった。
上野駅とは違い、開放感のあるホームで思い思いに写真を撮ることが出来た。次に来た時も、走っていてくれるだろうか。
青森18:19発→八戸19:48着
そうして冷たい風が吹いてきたところで構内のうどんを食べ、青い森鉄道の列車に乗った。八戸へ向かう。ここ青森から八戸の間は、東北新幹線が新青森まで開通したことに伴い、JR東北本線から「青い森鉄道」に転換された区間である。
車内には高校生の姿が多かった。最初は三人や四人でボックスシートに座っていた彼らが、途中の駅で別れの挨拶を交わし、一人、また一人ずつ抜けて行く様子をただ見ていた。
最後に残された彼は何を想っているのだろう。仲間が去った寂しさか、喧騒から解放された安堵か。電車通学に縁が無かった自分は、想像を巡らせることが容易ではなかった。
いずれにせよ、また翌朝には最初に席を確保するのだろう。後で乗ってくる仲間のために。
八戸は既に夜の帳が降りていた。しかし長らく新幹線の終着駅であったせいか駅は大きく、辛うじてコンビニは開いていたので翌朝の朝食を求めた。もう今夜は何も要らない。
乗り換えた八戸線の気動車は小気味良いエンジンの音を響かせて動き出した。非冷房車であるせいか、近くの窓は空いたままで、夜風が頬に当たった。この感触は一昨年に乗った気仙沼線と同じであった。しかしあちらは震災で不通となってしまった。この八戸線も沿岸部を通るために一時は不通となっていたものの、懸命な努力の甲斐あって、震災から一年後の三月に全線で運転を再開した。僅かな距離ではあるが、いま自分もその恩恵にあずかっている。そんなことを思っているうち、聞こえてくるエンジンの音が、鉄道の、地域の、復興の息吹そのもののように感じられた。
八戸20:15発→本八戸20:31着
本八戸の駅前にはフェリーターミナル行きのバスを待つ乗客が何人か並んでいた。自分もまたそこに並び、夜空を眺めながらバスを待った。転げ落ちるように下った東海道、そして上野から寝台特急で降り立った青森、太宰を追った五所川原、実はこれで十分なのかもしれない。此処まで来ていながら、まだ北を目指すのである。そこには目的や理由もない。
青森よ、さようなら。
ここまでは壮大な序章に過ぎなかった。