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いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

タネは生きているか?

2006年01月09日 17時07分10秒 | 俺のそれ
先日妻と喫茶店でコーヒーを飲んでいた時に、ふと話題となったのが「生きてるってどういうこと?」から始まって、「タネは生き物か?」という謎に行き当たった。これって、どういうことなんだろうな?と。生物とは何だろな、ということにも繋がるのだけれども、よく判らなかった。植物のタネが死んでいるとも思えないのだけれど、生きてるんだろうか?タネはお店で袋に入れられて売られてるけれども、何かの活動を続けてるようにも見えないんですよね(笑)。


動物は死ぬと、元には戻れない。当たり前ですが。でも、一つひとつの細胞を調べると、直ぐには死なないはずだ。刺身は死んでるけれども、きっと一つひとつの細胞で見れば、鮮度のいいものは全部死んでいないかもしれない。「死ぬ」ということは、多分活動が停止していく過程だろうと思うが、生きてることとの境界は曖昧だろうと思う。死は徐々に進むのだろうな、と。生体全体で見れば、呼吸も止まり、血流も止まり、機能としては統御された活動は行うことが出来なくなっている。多分あらゆる命令系統もめちゃくちゃになる。どの組織もバラバラに活動してしまう。でも直ぐには全部死なない。生き延びる細胞はいくつもあるだろうと思う。〆た魚をすぐに食べると美味しいというのは、細胞が死んでないので恐らく「特定の有害物質」生成が進んでいないためなのではないかな、と思う。だが、死の過程であらゆる細胞が統御された活動から逸脱すると、めちゃくちゃな物質の産生が起こったりタンパク分解酵素などが貯まって自己破壊が進んだりするのだろう。急速に冷凍したりするのは、細菌感染を防ぐ意味と、細胞を固定する(自己破壊を進行させない)という意味があるのではないかな、と思う。


細胞の自己破壊が進むと、有用なタンパク質やアミノ酸の破壊が進むので、「旨み」が失われていったりするのではないかな。美味しいと感じるのは、大抵生物の体に必要なものを取り込む時に「有利になるように」働く仕組みであると思う。味覚が毒や有害物質を回避するための防御機能でもあり、「薬が苦い」と感じるのは「体にとっては毒」だからだと思う(なので、「体にいい薬」というのは根本的にウソであると考えるべきなのです)。


話を戻すと、死はゆっくりと訪れるだろうな、と。細胞一つが工場であるとするならば、今までは原材料が決まって運ばれてきて、工場内の様々な工程を経て、出荷されていく、というようなものです。死が訪れると、まず必要な原材料が全く届かなくなるのですね。出荷の為に運び出されることも止まってしまっています。でも、工場内の機械類などはずーっと動き続けている訳です。で、残っていた原料は工程に乗って、ある特定の部品とか材料ばかりがどんどん貯まっていってしまう。だが、いつかは製造工程に必要なものが全てなくなり、次第に機械類は暴走を始めるのです。機械類は今まで必要なものを作る為に動いていたのに、今度は各工程で排出された有害ガスとか廃液などで工場が侵蝕・破壊されていくのです。動きを止めることが無かった機械類は、逆に自分達の破壊するものとして作用してしまうということです。こうして、工場はめちゃくちゃになり、特定の有害物質が貯まっていくんだろうな、と思います。残るのは、壊れた機械類とか、廃液とか有害ガスなどだけになってしまう、ということですね。この工場が「いつから」死んだ状態、つまり廃墟となったのかは、ハッキリとは判りません。死ぬ瞬間というのが不明なのですね。ただ、統制された工程が機能しなくなった時点では、死んだも同然であると言えます。不可逆的な状態となれば、もう緩徐に進む「死」を止める術はありません。機械類の故障で一時的に生産ラインが止まることは有り得ますが、その場合には部分的な修復が行われて再びラインが元通り動けば「死」からは免れますね。そういう可逆的状態とは異なる、ということです。死がやってくると、機械類の勝手な暴走を止めることが出来ないのです。


車のブレーキやアクセルやハンドルというものは、「どのように動くか」決まっていますね。死が訪れると、そうした機能は全て滅茶苦茶になるのだろうと思います。つまり、車を止めようと思っても、ブレーキを踏めばアクセルみたいにスピードが上がったり、アクセルペダルを踏むのを止めるとギアが抜けて勝手なギアになったり、ハンドルを右に切ると左に行ったかと思えば左に切っても右には行かず、というような状態です。車を安全に止めることは出来なくなっているのですね。なので、暴走を食い止められない。情報が全くの出鱈目になっている、ということです。情報については、別な記事に書いてみたいと思います。


生きてるということは、統制された状態で「動いている」ということです。「動いている」というのも語弊があるかもしれませんが、何らかの活動している、ということですね。工場の生産ラインが動いているのと同じようなものかな、と。単に細胞と似たような脂膜を合成し、内部にアミノ酸やタンパク質を封入して、水溶液の中に保存しても、何ら生き物としての活動は起こりません。基本的に、情報が組み込まれていないからだろうと思います。では、情報が組み込まれるとはどういうことか。これはよく判らないです。前に「外部エネルギーの獲得」ということを少し書いたのですが(組織将来像の推測1)、恐らく、何かのエネルギーを獲得して、エネルギーを安定化させられる方向に進められる活動が生き物であるような気がするのです。


始めの話に戻って、植物のタネは情報の組み込まれたものだろうと思います。普通、ひまわりの種を机の上に置いたとしても、ひまわりは生えてこないし、タネはタネのままです。毎日眺めていても何も変化がないように見えます。ところが、土の中に埋めて、適度な温度と水分を与えた時に、初めてその意味が判ります。つまり条件設定されたカプセルのようなものなのです。上に述べた単なる「生物もどき」のような脂膜に封入されたタンパク質が黙って観察していても何も変わらないのと、机の上のひまわりのタネが何も変化がないことは非常に似ています。ところが、タネは何か別の環境に置かれたら、きちんと発芽してひまわりとなります。これが「生き物」ということなんだろうと思います。


タネの正確な仕組みを知らないですが、条件設定として、「水」「熱エネルギー」「空気」というものがあれば多分発芽すると思います。スイッチが巧妙に作られていて、この3つのスイッチが同時にONとなった時に初めて活動を開始するのだろうな、と。それまでは、まるで「死んだもの」のようにしか見えないのに。石ころと何も違いがないようにさえ見えるのに。熱エネルギーという外部エネルギーを受け取らないと、きっとスイッチは入らないのでしょう。熱エネルギーを受けた後で、何かのタンパク質のコンフォメーションに変化をもたらし、反応がスタートするのであろうか。まるで形状記憶合金のように熱エネルギーを受けると特定の形に変わり、その変化した形が何かの特定の反応の触媒となる、というようなことだと思う。その時の反応に必要なのが、水(加水分解のような反応?)とか酸素や二酸化炭素(呼吸?)であるかもしれない。カスケードのスタートみたいなものですね。ある種のアルゴリズムとも言えるかも。タネにはそういうものが、書き込まれている、組み込まれている、ということです。そういうスイッチが入る前の状態とは、生き物と言えるか?死んでる訳ではないが、他の単なる「物質」との区別は意外と難しいような気がするのです。


ウイルスの芽胞などもタネと似ている。芽胞そのものは増殖もしなければ何かの生物活動を行っているとも思えないのであるが、宿主に取り付くことが出来れば増殖を開始する。まさに映画「エイリアン」に登場する、謎の生物みたいなものだ。宿主内部で成長し、ある時期に達すると腹を食い破って出てくる。ウイルスも細胞内部で増殖して、いずれは細胞を破壊して飛び出してくる。そして次々と他の細胞に取り付いて侵入し、増殖を繰り返していく。B型肝炎ウイルスの芽胞は非常に強力なタネだ。煮沸とか普通のアルコール消毒くらいでは死んだりしない(元々生きていると言えるのか判らないが)。多くの細菌やウイルスは熱に弱く、煮たり焼いたりすると大抵死んでしまうし(だから、普通は生で食べるよりも加熱調理が推奨される)、アルコール消毒でも多くは不活性化される。だがB型肝炎ウイルスの場合には、不活性化させるにはもっと強力な薬剤とか、高温高圧滅菌とか、特別な方法でなければ芽胞の不活性化が出来ない。ウイルス自体は宿主細胞がいなければ長くは生き延びられないのだが、B型肝炎の芽胞は宿主細胞がいなくても生き延びることが可能なのだ。この芽胞は宿主がいない環境であると何の活動もできないので、単なるタンパク質の塊と違いがない。だが、ひとたび人体に侵入し宿主細胞に接触するとアルゴリズムのスタートスイッチが入り、肝細胞で増殖を開始するのである(例えば皮膚細胞では増殖出来ないので指で触れるだけでは感染しない、特定の種類の細胞にしか侵入できないのです)。ひまわりのタネと似ていて、特定の条件下でしかその活動は開始されないのです。


先の工場の例で言うと、工場は最初は閉まっていて活動をしていないが、「入り口のシャッターを開ける」というスイッチが入ることで工場の生産活動が開始されるようなものかな、と思います。シャッターが開けられると、従業員達が集まってきて、工場に原材料が運び込まれて・・・・、という具合に工場は活動するのですね。


生物の生物である所以は、情報が書き込まれている・組み込まれている、ということではないかと思います。特定のアルゴリズムを持っている、ということです。最も原始的な細胞(或いはウイルス?)があるとしても、恐らく過去数百万年か数千万年(それとも数億年?)に渡る進化の過程を過ぎたので、最も始めの頃に誕生した生物の基本形態から見ると、高度なシステムを持っているだろうと思います。なので、その過去を遡って生物原型を作らなければならないので、そういうものが生み出された条件を発見できないんだろうな、と思います。最初のアルゴリズムは何だったのか、これが謎なのですね。最初の原型となるものが発見できれば生命誕生の謎が判るかもしれません。多分アルゴリズムは単純であったはずです。


また変な例ですが考えてみましょう。

①形状記憶合金で作ったループがあり、熱エネルギーを受けるとループが真っ直ぐになる
②ループが真っ直ぐになると、箱を持ち上げる仕組みとなっている
③持ち上がった箱は滑り台に載せられる
④箱は滑り台を滑り落ちていく
⑤落ちた先には餅つきがセットされ、箱がぶつかって餅をつく
⑥箱は落ちた後、滑り台を落ちる時と逆にロープで引き揚げられる
⑦上りきると、再び滑り落ちて餅をつく
以下④~⑦が繰り返し。

このような装置があるとすると、「餅をつく」という仕事にエネルギーが変換されていくのです。熱エネルギーはスタートの①で合金の変形という力学的エネルギーに変換され、後は仕組まれた通りに進み、⑤まで行くと別な外部エネルギーを獲得しない限り箱を滑り台の上に運ぶこと(=仕事)が出来ません。ですが、生物が外部エネルギーを獲得するので(普通は太陽エネルギーとか地熱とか他の生物を食べるとかですかね)、活動が続くのです。そして、「餅をつく」ということにエネルギーが使用されてしまうのです。大昔の地球で言えば、タンパク合成とかもっと大型の生物の合成とか、そういうエネルギー変換ということですね。「化学結合にエネルギーを閉じ込めるという仕事」でもいいです。こういうアルゴリズムをどうやって獲得したかは不明ですが、このような仕組みを持たないものは生物ではなく単なる雑多な物質であろう、と。初期の原型としては例えば①のループが真っ直ぐになる、という仕組みを獲得するということです。タダの物質から生物に変わるということが、何かの境界で起こる訳ではないのかもしれません。


そして、エネルギーが移動することによって、生物は誕生したとも言えるでしょう。エネルギーの不安定さ(と言うのがいいのか判らないが、要するに移り変わること)があったが故ではないかな、と。エネルギー変化が全く無い場合には、物質は全て安定的になってしまうので、化学反応も何も起こらなくなってしまうからです。アルゴリズムの最重要部分は「自己複製」だろうと思います。増殖と言うべきかもしれませんけれども。



「空気嫁」問題

2006年01月09日 13時09分16秒 | 社会全般
私にはこのような論争は無縁であったのですが、ネット上で散見される典型的な問題であるようです。また、最近の若い人達の中には、ごく普通の現実世界での人間関係の中にも、こうした傾向があるように思えます。中々ユニークな議論であると思えます。どうして「空気」なのか?これについては、山本七平の『空気の研究』という著書があるらしく、かなり以前から十分論じられてきた事柄であるように思います。私は今初めて知ったのですが。読んだことがなかったので。


で、大雑把に言うと、「日本人は空気に支配されやすく、重要な決定でさえも空気による」ということのようです。大和出撃もそうなんだそうです。

Web東奥・長期連載/[よみがえる記憶/第2部 吉田満の遺言]

上の記事中には「空気とは「非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ判断基準」であり、それに抵抗する者を社会的に葬るほどの力を持つ超能力である-と定義、大和の実例で説く。」と示されていて、現代でも同じようなことが当てはまるだろうな、と思いますね。


こうした「空気」というものが、以前に書いた「雲」の印象に非常に近かったので、面白いと思いました(ネット言論の試練2)。現在でも以前と大きな違いがなく、「空気嫁」ということがコミュニケーションにおいては重要な意味がある、ということなんだろうと思います。社会学的な評価は知らないですが、今の若い世代においては個人の意思を率直にぶつけ合ったり、ある時には喧嘩したり、というような「本音の付き合い」という実体験が減っているということなのかもしれませんし。私が子供の時には、仲の良い友達同士であっても、何かのきっかけで喧嘩したりすることもあった。いつも他人に気遣うことばかりではなくて、本音を言い合ったりしたと思う。今はそういう体験を経ない若者が多くなって、うまく意志を表現できなかったり、衝突を避けることに重点が置かれ過ぎて、結果的にうまくコミュニケーションが成立せずストレスが過大に感じられることも多いのかもしれない。


こうした意志伝達という問題を考えると、不思議な考えが浮かんだ。それは非常に変な発想なので、いつものように下らない内容なのですけれども。これはおいおい書いていきたいと思います。