電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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皇室との関係が深かった藤原氏の者はいくらもいるが、いずれも自分が天皇になろうとはしない。息子をならせようともしない。つねに孫を天皇にしようとするのである。このことが、藤原氏があれほど栄華を極めたけれども、亡びず今日に至っている理由なのかもしれない。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p239 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(1) 和歌に見る文化的洗練の達成
◆藤原氏の節度とは
このように見ると、不比等・三千代夫妻は、きわめて悪辣(あくらつ)みたいだけれども、重要なところで節度を守っていた。つまり自分が皇位に即(つ)こうという野心が、まったくなかったのである。
蘇我入鹿(そがのいるか)や恵美押勝(えみのおしかつ)が亡(ほろ)びたのは、自分が皇位に即こうという野心を示したからであり、道鏡の失敗も、まったく同じ原因であった。藤原氏は、鎌足も不比等も、平安朝になってからの有力者も、誰一人として自分が皇位に即こうとした者はいない。
たとえば藤原氏の最盛期を作った藤原道長(みちなが)は、
此の世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも 無しと思へば
という歌を作ったので有名である。
彼の後宮政策は、まことに素晴らしい。
その娘彰子(しょうし)は一条(いちじょう)天皇(第六十六代)に嫁し、後一条(ごいちじょう)天皇(第六十八代)と後朱雀(ごすざく)天皇(第六十九代)を産み、次の娘の妍子(けんし)は三条(さんじょう)天皇(第六十七代)に、次の娘の威子(いし)は後一条天皇に嫁し、また別の娘の嬉子(きし)は後朱雀天皇との間に後冷泉(ごれいぜん)天皇(第七十代)を産むという具合であった。
それであるから、一時期には、彼の長女彰子が太皇太后(たいこうたいごう)、次女妍子が皇太后に、三女威子が中宮(ちゅうぐう)になるという、まことに前代にも後代にも、おそらく世界じゅうのどこをさがしてもない閨閥(けいばつ)を作り上げた。自分の長女の息子(孫)に別の娘が嫁し、そしてそれに……というふうに重なっていくのである。
しかしここでも道長は、自分が皇位に即く気はさらさらないのである。道長ほど濃厚でなくても、皇室との関係が深かった藤原氏の者はいくらもいるが、いずれも自分が天皇になろうとはしない。息子をならせようともしない。つねに孫を天皇にしようとするのである。このことが、藤原氏があれほど栄華を極めたけれども、亡びず今日に至っている理由なのかもしれない。
そして面白いことには、こういうふうにして出来た天皇は、あんがい藤原氏の専横(せんおう)を快く思わなかったりするのである。天皇の位に即かれると、血の繋(つな)がりで律し切れぬ別の意識が生ずるものらしい。それはずっと昔、蘇我氏の娘からお生まれになった崇峻(すしゅん)天皇(第三十二代)が、蘇我氏の権力を憎むというような例にも見られたことであった。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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皇室との関係が深かった藤原氏の者はいくらもいるが、いずれも自分が天皇になろうとはしない。息子をならせようともしない。つねに孫を天皇にしようとするのである。このことが、藤原氏があれほど栄華を極めたけれども、亡びず今日に至っている理由なのかもしれない。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p239 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(1) 和歌に見る文化的洗練の達成
◆藤原氏の節度とは
このように見ると、不比等・三千代夫妻は、きわめて悪辣(あくらつ)みたいだけれども、重要なところで節度を守っていた。つまり自分が皇位に即(つ)こうという野心が、まったくなかったのである。
蘇我入鹿(そがのいるか)や恵美押勝(えみのおしかつ)が亡(ほろ)びたのは、自分が皇位に即こうという野心を示したからであり、道鏡の失敗も、まったく同じ原因であった。藤原氏は、鎌足も不比等も、平安朝になってからの有力者も、誰一人として自分が皇位に即こうとした者はいない。
たとえば藤原氏の最盛期を作った藤原道長(みちなが)は、
此の世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも 無しと思へば
という歌を作ったので有名である。
彼の後宮政策は、まことに素晴らしい。
その娘彰子(しょうし)は一条(いちじょう)天皇(第六十六代)に嫁し、後一条(ごいちじょう)天皇(第六十八代)と後朱雀(ごすざく)天皇(第六十九代)を産み、次の娘の妍子(けんし)は三条(さんじょう)天皇(第六十七代)に、次の娘の威子(いし)は後一条天皇に嫁し、また別の娘の嬉子(きし)は後朱雀天皇との間に後冷泉(ごれいぜん)天皇(第七十代)を産むという具合であった。
それであるから、一時期には、彼の長女彰子が太皇太后(たいこうたいごう)、次女妍子が皇太后に、三女威子が中宮(ちゅうぐう)になるという、まことに前代にも後代にも、おそらく世界じゅうのどこをさがしてもない閨閥(けいばつ)を作り上げた。自分の長女の息子(孫)に別の娘が嫁し、そしてそれに……というふうに重なっていくのである。
しかしここでも道長は、自分が皇位に即く気はさらさらないのである。道長ほど濃厚でなくても、皇室との関係が深かった藤原氏の者はいくらもいるが、いずれも自分が天皇になろうとはしない。息子をならせようともしない。つねに孫を天皇にしようとするのである。このことが、藤原氏があれほど栄華を極めたけれども、亡びず今日に至っている理由なのかもしれない。
そして面白いことには、こういうふうにして出来た天皇は、あんがい藤原氏の専横(せんおう)を快く思わなかったりするのである。天皇の位に即かれると、血の繋(つな)がりで律し切れぬ別の意識が生ずるものらしい。それはずっと昔、蘇我氏の娘からお生まれになった崇峻(すしゅん)天皇(第三十二代)が、蘇我氏の権力を憎むというような例にも見られたことであった。