電脳筆写『 心超臨界 』

他者の働きによるのではなく
自ら他者に尽くすことにより成功をつかめ
( H・ジャクソン・ブラウン Jr. )

日本のカミの概念――西尾幹二教授

2016-03-10 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p237 】

8 王権の根拠――日本の天皇と中国の皇帝

8-2 日本のカミの概念

日本のカミの概念について別項でも述べるが、私ももちろんきわめて定説に近いことしかいえないし、先人の言葉に頼る以外には方法がない。日本人のもつカミ概念を、よく包括的にとらえたものとして評価され、引例されるのは、次の本居宣長の言葉である。

  さて凡(すべ)て迦微(かみ)とは、古(いにしへ)の御典等(みふみど
  も)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀
  (まつ)れる社(やしろ)に坐す御靈(みたま)をも申し、又人はさらに
  も云はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其餘(そのほ
  か)何(なに)にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)の
  ありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり
                   『本居宣長『古事記傳』三』

宣長は、人間であれ自然であれ動植物であれ、なんであろうとも類まれな超自然的異常な力を感じさせるもの、畏怖の念を抱かせるものであれば、善悪を問わず神であるとしているのである。神々は、目には見ることができない。しかし、神々は浮遊している。そして木、石、火などの自然物や鏡や御幣などに宿ったりする。風や雷などの自然現象として現れることもあるし、人に乗り移って託宣を述べたりすることもある。自然物や人間に宿って姿を現さない限り、神々としての力は立ち現れない。つまり、日本の神々はきわめて具体的な事物や現象において考えられるもので、抽象的理念的な存在ではない。

これは通例アニミズムと呼ばれるものにほぼ等しい。日本の古代信仰を考えるときに、魂が浮遊する霊力で、ものに付着したり離れたりするという「遊離魂」のあり方を理解しないと、よくわからない一面がある。一般に人間の魂は死後もなお存在し、自然物や他の人間に付着して立ち現れ、それが神と意識されるというふうにも理解されている。

上のような古代日本人の信仰のあり方は、いまのわれわれ、つまり自然科学の物質概念を取り入れて以来の近代日本人には、容易に理解できるものではないかもしれない。しかし、ここを起点にして当該テーマを考えていかない限り、直面している問題の解明をわれわれは一歩も進めることはできないであろう。日本人におけるカミの観念は、先に述べた「天」の概念とは異なり、人間と神との連続を前提としている。

古代の日本人が自分自身のカミの概念をも十分に意識しえていない状況下で、中国大陸よりさまざまな新しい理念や思想を未知の文字とともに取り入れ、当惑し、おそらくしばらくの間は自己混乱のなかに終始しながら徐々にわがものとしつつ、しかも十分にはこれを理解しないで自分流に改造し、変形して、その変容そのものを自らの行き方の根源的な形式にしていったという困難なプロセスを、われわれはこのケースにも認めざるをえないであろう。

縄文時代以来、この列島は一貫して四季の変化に富んだ森林と岩清水の文化を形成してきた。砂漠と大河の文明圏には、そもそも属していない。この列島に最後まで、今日に至るまでついに無関係だったのは、遊牧民と牧畜である。

砂漠では草も木もなく、倒れた動物の死体は、ただ白い骨を残すだけである。しかし、森の中では草も木も成長し、いつか朽ちて土に帰り、また新しい芽が出てくる。動物の死体の上に虫が群がり、腐肉の下から樹木が生い立ち、そびえるような巨木になる日もくる。その巨木もいつかは倒れ、別の植物がその上に生い茂るときもこよう。

自然は永遠に循環する。時間は直線をなして進むのではなく、円環をなして展開するのである。インドの輪廻転生という観念もここから出てくる。

日本ではひとつの生物が他の生物に生まれ変わり、それが繰り返される自然再生の循環は宗教的観念としてではなく、春夏秋冬の周期的時間観念と結びついて、ある種の理解されやすい連想観念のなかにある。古来日本人の世界では、「生まれ変わり」という言葉がよく使われたものである。

われわれは人間と隔絶した神の世界を持ったことはないし、それをよく知らない。おそらくいちばんそうした絶対的超越者という神の信仰によく似た形式の宗教形態に近づいたのは、鎌倉仏教における親鸞の阿弥陀仏信仰であろう。しかし、それもある時代の特定の条件が生み出した信仰形態であって、必ずしも長続きしてはいない。

人が死ねば誰であろうとみなホトケになるというあいまいな意識が、残念ながらこの国の民衆の心の中にあるカミの観念である。

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