電脳筆写『 心超臨界 』

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( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

真理のひびき 《 価値ある人生に活きるには(1/2)―中村天風 》

2024-08-25 | 03-自己・信念・努力
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   [箴言二](1/2)

   価値ある人生に活きるには 先ず自分の本質の尊さを
   正しく自覚することが必要である
   If we would desire to live a valuable life, it is essential,
   above all, to be rightly aware of the intrinsic value of ourselves.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p22 )

人の人生は、なんとしても一回限りのものである。

絶対に二生はない。生まれかわったようだということはあるが、それは、ただ観念的に想定した二生なので、現実の二生というものは、決してないのが実際である。

その上にこの世にわれわれの生きている期間というものが、どんなに長生きしても、久遠永劫の宇宙生命の長さに比較すれば、むしろ夢一瞬の短いものである。

而(しこう)して、事実がまことに峻厳かくのごとくである以上は、いかなる場合にも、その生命存在の状態をできうる限り価値高くあらしめねばならない。

もちろん、このくらいのことは、多少なりとも人生を考える人ならば、誰でも考えていることであろうが、しかし、実際について検討すると、案外にも、ほんとうに価値高い人生に活きている人というのは、数においてあまりにも少ない。

いったいこれは何ゆえの結果かというと、要約すれば、人間の本質の尊さを、事実自覚していないがためだといってよいと思う。

多くいうまでもなく、人間には、人間がひとたび自分自身の本質の尊さというものを正しく自覚すると、「心」が自然と自己自身を気高い人生に活きるようにリードするという必然性がある。

だから、そうなるとその人は、必然的にどんなに僅かな時間でも、いつも価値ある人生を活きられることになる。

そもそも人間の本質というものが、いかなる尊さをもっているかというと、結論的にいえば、人間というものは、厳格に論断すれば、健康的にも運命的にも、常に幸福に恵まれるように、本来が作為されているという点に帰納される。

ところがこの尊厳なことがらを、なんと、それが未開非文明時代の人ならともかく、現代のこの文化時代に生きる人の中にも、正しく自覚して日々の人生に活きている人が、遺憾ながら極めて少ないのである。

むしろ、人間というものは、いくら用心しても努力しても、健康的にも運命的にも、ともすれば不如意の状態になりがちな憐れな不幸なものだというように、人間の価値判断をすこぶる低く考定して、それが少しも間違っていない正しい断定のように軽率に思量している人が、世間には相当多いのではないだろうか。

これはつまり、健康的にも運命的にも恵まれた幸福の状態に活きている人よりも、不健康、不運命に活きている不幸福な人のほうが、人間の仲間にはあまりにも多数を占めているという、いわゆる目に見える「現実」というものを、その判定の焦点にしているために外ならないと思う。

そして、またこの悲しむべき「現実」が、何ゆえの原因から招かれているのかということを探求する用意が、自己自身の心に欠如しているという、自己の人生考察に対するエラーには、大部分の人が少しも気づいていない。

もっとも数多くの人の中には、人間の本質の尊さをおぼろ気ながらも知っている人もあるが、その人々の実行している手段なるものが、残念ながら往々第二義的のみを重用して、第一義的な事を疎かにしている傾きがある。

もっと詳しくいうなれば、運命に対しては、うんと金を儲けていわゆる「富」を作り、あるいは地位名誉を高くなし得れば、幸運を克ち得るものと考え、また健康に対しては、医薬やあるいはその他の薬餌療法やまたは物理療法というがごとき、いわゆる人為治癒法のみを重用して、それ以上必要とする自然治癒の方法を存外軽視して、しかも健康獲得の目的を完全に達成しうるもののごとく思うというのが、第二義的手段と称するものである。もちろんこうした第二義的の手段や方法も、ある程度に健康を獲得し、運命を建設する上に必要であるには相違ないが、しかし厳格に論断すれば、すべてのことを完全にするには、まずその根本を確立することこそ、何をおいても先決手段でなければならないことはあえて多言を要せぬことである。

すなわちその根本を確立するということが第一義的の手段というので、それでは、人間の本質の尊さを完全に発揮するには、いかなる手段を実行することが、理想的な第一義的のものかというに、曰く「万物の霊長たる人間の真の生活目標の決定」ということなのである。

実際、この重要なことを考慮の外においたのでは、人間の本質の尊さを完全に発揮することは、絶対に不可能なのである。

然るに、たいていの人は、この侵すべからざる真理を自覚しないで、前述の第二義的手段だけを遂行すれば、その目的を達成しうるもののように考えている。

しかし、万一その考え方が間違っていないのならば、富める者や、名誉や地位の高いものをもつ人は、一様に幸運で、さらに肉体のみを本位とする神経過敏な衛生家や、やたらと薬剤療法を濫用する薬の愛好者は、総じて健康のはずである。

ところが、事実はまったくこれと反対である。

というのは、結論すれば、前述の人生決定の根本基礎である「生活目標」なるものが、万物の霊長たる真人としての理想的なものでないからである。

そこで、それでは真人としての理想的な生活目標は何? というと、曰く「霊性の満足」ということなのである。すなわちこれがほんとうの人間としてのもっとも正しくもっとも尊い生活目標なのである。

ところが、人生に対して相当の理解をもっているごとく見える人でも、この目標を重視せずして、おおむね多くは下に列記する四項目のいずれかを、意識的かまたは無意識的に、その生活の目標とし勉学したり、あるいはその職業や勤労に努力している。

その四項目とは、

  1.本能の満足を目標とするもの
  2.感覚の満足を目標とするもの
  3.感情の満足を目標とするもの
  4.理性の満足を目標とするもの

なのである。而(しか)して以上の四項目の満足を欲求するという意念は、かつて講演の際にもいったとおり、一般人類の共通的な人生欲求なのである。

したがって、一概にそれを非なりとして排斥すべきではないが、さりとて、上のいずれかを生活の目標にすると、いずれを目標としても、現実に人間の本質の尊さを完全に発揮することは、断然不可能になり終わるのである。

それはなぜかというと、以上四項目のいずれかを目標とすると、かりに相当の富や地位や名誉を克ち得ても、それでもって自己の人生の満足を徹底的にわがものとすることは、絶対にできないがためなのである。加うるに、人間の欲望というものには、自制心の極めて優れたものでない限りは、ほとんど際限のないものになりがちで、西洋の諺にも、

Avarice increases with wealth.(金持ちになればなるほど欲がでる)というのがあり、中国の『後漢書(ごかんじょ)』にも、

「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」(一つの望みを達するとさらに大きい欲を抱くということ)

という有名なものがある。

また日本にも、

「おもうこと一つかなえばまた二つ、三つ四つ五つ六(む)つかしの世や」

という道歌があるのを見ても、この消息は理解されることと信ずる。

その上に人間の欲求の炎は火と燃ゆるのに比べて、現実に満足を感じる獲得は、いつもあまりにも少なすぎるのが通常のありさまなのである。

(2/2)につづく
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