§5 戦後の戦争に敗れた日本
◆冷戦後の「カルタゴの平和」――狙い撃ちにされた日本
ベルリンの壁が壊された89年には、早くもCIA長官ウィリアム・ウェブスターが、「今後、日本を含む経済ライバル国家が情報活動の対象となろう」と言明しました。翌90年にはジェームズ・ベーカー国務長官が、「冷戦での戦勝国は日本だった。冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語りました。92年にはCIA長官のロバート・ゲイツが、「CIA情報活動の4割を経済産業分野に振り分ける」と宣言しました。
『国家と教養』
( 藤原正彦、新潮社 (2018/12/14)、p16 )
当時のアメリカは、1980年代にレーガン大統領の経済政策、レーガノミックスが施行され減税と軍拡が行われた結果、財政赤字(歳入より歳出が大きいこと)と経常赤字(海外との貿易や投資活動による収支が赤字)という双子の赤字に苦しんでいました。
一方の日本は、世界経済の中で一人勝ちをしていました。
ベルリンの壁が壊された89年には、早くもCIA長官ウィリアム・ウェブスターが、「今後、日本を含む経済ライバル国家が情報活動の対象となろう」と言明しました。翌90年にはジェームズ・ベーカー国務長官が、「冷戦での戦勝国は日本だった。冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語りました。92年にはCIA長官のロバート・ゲイツが、「CIA情報活動の4割を経済産業分野に振り分ける」と宣言しました。
そして93年にはクリントン大統領がすでに進行していた「ジャパン・バッシング(日本叩き)」を大々的に展開し、日米貿易交渉を指して「貿易戦争(trade war)」とただならぬ表現を用いました。戦争(war)とは、「勝つためならどんなことでもする」という意味を含んでいて非常に不穏な言葉です。対日貿易赤字の主たる原因は、日本の家電や日本車ほど質の高い製品を作れないという自らの技術力不足にあるのに、それを棚に上げ日本叩きに走ったのです。
冷戦時には、自由主義、資本主義が共産主義より優れている証拠として超優等生日本はアメリカにとって大切な国でした。外交、防衛に限らずあらゆる庇護を与えられました。冷戦終結で日本はもうその意味では不要となったのです。アメリカが変貌しました。外交・防衛で日本を庇護下におくことは、日本国内に多くの米軍基地を設けるなど戦略的に巨大な利点がありますから、無二の盟友であることは冷戦後も維持しました。ところが、経済ではあっという間に最大のライバル国となったのです。経済において他国はすべてライバルと言えますから、日米は普通の間柄になったとも言えます。
90年代半ばから今日にかけて、金融ビッグバン、新会計基準、市場原理、グローバル・スタンダード、小さな政府、官叩き、地方分権、規制緩和、大店法、構造改革、リストラ、ペイオフ、郵政改革、緊縮財政、商法や司法の改革、消費増税、TPP……と矢継早に登場しました。すべてアメリカが我が国に強く要求したもの、ほとんど強制したものであり、アメリカの国益を狙ったものでした。一人勝ち日本を叩き落とすための緻密な戦略にそったものでもあったのです。
日本人は第二次大戦の世界を牛耳ってきたアメリカ情報機関の、冷戦終結に伴うドラマチックな変貌などにさしたる注意を払いませんでした。大新聞もCIA長官達の発言をベタ記事としただけでした。そしてアメリカからの度重なる改造要求は、バブル崩壊後の日本経済を立て直すための、盟友からの温いアドバイスと受け止めてしまいました。政官財のみならずメディアも、大きな疑惑を持たず乗ってしまったのです。そのように思わせるための情報工作も盛んになされました。我が国ではここ20年余りの長期にわたってデフレ不況が続いていますが、これは経済統計の整った20世紀以降で世界最長のデフレなのです。それまでアメリカでの最長は大恐慌の4年間(1930~33)で、日本では昭和恐慌時の5年間(1927~31)でした。世界金融史上ダントツに長いこのデフレの正体は、軍事上の無二の盟友アメリカが、経済上では庇護者から敵に変わったことに、世界一お人好しの日本人が気付かなかったための悲劇、と言って過言ではありません。
バブル大崩壊という災難につけこんだ新自由主義の強要は、ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)と呼ばれる、新自由主義拡大のための典型的テクニックだったのです。人々が茫然自失から正気を取り戻す前に、一気に体制を変えてしまうということです。ショックにつけこんだ卑怯な方法です。火事場泥棒です。母親を亡くして2ヵ月後の女房にプロポーズした私に大きな口は叩けませんが、お見合いが1引き分け4連敗だったため仕方ありませんでした。
ショック・ドクトリンに関しては、チリの軍事クーデターが典型的です。1973年、アメリカは民主的に選ばれたアジェンデ政権をCIAを用いたクーデターにより倒しました。そしてその混乱に乗じ、ピノチェト軍事政権を立て、新自由主義の教祖とも言えるシカゴ大学教授ミルトン・フリードマンの弟子達(シカゴ・ボーイズ)を、経済政策担当としてチリに送り込みました。彼等は国営企業の民営化や福祉・医療・教育など社会的支出の削減などを行いました。初めの2年間ほど景気は回復しましたが、すぐに経済成長はマイナスに転じ、自由貿易によって国内製造業は壊滅、貧困率は前政権時代の2倍の40%となりました。そのため1985年にシカゴ・ボーイズは追放されたのです。スマトラ沖大津波で被害を受けたスリランカやイラク戦争後のイラクでも似たことが起きました。ボリビア、ウルグアイ、アルゼンチンなどでも同様でした。
小さな政府、規制緩和、民営化などを徹底してから、それらを米金融資本が買収し、その国を経済的植民地にしてしまおうという、恐ろしい目論見でした。
ミルトン・フリードマン教授とシカゴ大学経済学部で同僚だった宇沢弘文教授によると、フリードマンはベトナム戦争時、北ベトナムに水爆を使用するよう主張していたそうです。他人の惨事につけこむなどという卑劣な方策を考え出した人だけのことはあります。
◆冷戦後の「カルタゴの平和」――狙い撃ちにされた日本
ベルリンの壁が壊された89年には、早くもCIA長官ウィリアム・ウェブスターが、「今後、日本を含む経済ライバル国家が情報活動の対象となろう」と言明しました。翌90年にはジェームズ・ベーカー国務長官が、「冷戦での戦勝国は日本だった。冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語りました。92年にはCIA長官のロバート・ゲイツが、「CIA情報活動の4割を経済産業分野に振り分ける」と宣言しました。
『国家と教養』
( 藤原正彦、新潮社 (2018/12/14)、p16 )
当時のアメリカは、1980年代にレーガン大統領の経済政策、レーガノミックスが施行され減税と軍拡が行われた結果、財政赤字(歳入より歳出が大きいこと)と経常赤字(海外との貿易や投資活動による収支が赤字)という双子の赤字に苦しんでいました。
一方の日本は、世界経済の中で一人勝ちをしていました。
ベルリンの壁が壊された89年には、早くもCIA長官ウィリアム・ウェブスターが、「今後、日本を含む経済ライバル国家が情報活動の対象となろう」と言明しました。翌90年にはジェームズ・ベーカー国務長官が、「冷戦での戦勝国は日本だった。冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語りました。92年にはCIA長官のロバート・ゲイツが、「CIA情報活動の4割を経済産業分野に振り分ける」と宣言しました。
そして93年にはクリントン大統領がすでに進行していた「ジャパン・バッシング(日本叩き)」を大々的に展開し、日米貿易交渉を指して「貿易戦争(trade war)」とただならぬ表現を用いました。戦争(war)とは、「勝つためならどんなことでもする」という意味を含んでいて非常に不穏な言葉です。対日貿易赤字の主たる原因は、日本の家電や日本車ほど質の高い製品を作れないという自らの技術力不足にあるのに、それを棚に上げ日本叩きに走ったのです。
冷戦時には、自由主義、資本主義が共産主義より優れている証拠として超優等生日本はアメリカにとって大切な国でした。外交、防衛に限らずあらゆる庇護を与えられました。冷戦終結で日本はもうその意味では不要となったのです。アメリカが変貌しました。外交・防衛で日本を庇護下におくことは、日本国内に多くの米軍基地を設けるなど戦略的に巨大な利点がありますから、無二の盟友であることは冷戦後も維持しました。ところが、経済ではあっという間に最大のライバル国となったのです。経済において他国はすべてライバルと言えますから、日米は普通の間柄になったとも言えます。
90年代半ばから今日にかけて、金融ビッグバン、新会計基準、市場原理、グローバル・スタンダード、小さな政府、官叩き、地方分権、規制緩和、大店法、構造改革、リストラ、ペイオフ、郵政改革、緊縮財政、商法や司法の改革、消費増税、TPP……と矢継早に登場しました。すべてアメリカが我が国に強く要求したもの、ほとんど強制したものであり、アメリカの国益を狙ったものでした。一人勝ち日本を叩き落とすための緻密な戦略にそったものでもあったのです。
日本人は第二次大戦の世界を牛耳ってきたアメリカ情報機関の、冷戦終結に伴うドラマチックな変貌などにさしたる注意を払いませんでした。大新聞もCIA長官達の発言をベタ記事としただけでした。そしてアメリカからの度重なる改造要求は、バブル崩壊後の日本経済を立て直すための、盟友からの温いアドバイスと受け止めてしまいました。政官財のみならずメディアも、大きな疑惑を持たず乗ってしまったのです。そのように思わせるための情報工作も盛んになされました。我が国ではここ20年余りの長期にわたってデフレ不況が続いていますが、これは経済統計の整った20世紀以降で世界最長のデフレなのです。それまでアメリカでの最長は大恐慌の4年間(1930~33)で、日本では昭和恐慌時の5年間(1927~31)でした。世界金融史上ダントツに長いこのデフレの正体は、軍事上の無二の盟友アメリカが、経済上では庇護者から敵に変わったことに、世界一お人好しの日本人が気付かなかったための悲劇、と言って過言ではありません。
バブル大崩壊という災難につけこんだ新自由主義の強要は、ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)と呼ばれる、新自由主義拡大のための典型的テクニックだったのです。人々が茫然自失から正気を取り戻す前に、一気に体制を変えてしまうということです。ショックにつけこんだ卑怯な方法です。火事場泥棒です。母親を亡くして2ヵ月後の女房にプロポーズした私に大きな口は叩けませんが、お見合いが1引き分け4連敗だったため仕方ありませんでした。
ショック・ドクトリンに関しては、チリの軍事クーデターが典型的です。1973年、アメリカは民主的に選ばれたアジェンデ政権をCIAを用いたクーデターにより倒しました。そしてその混乱に乗じ、ピノチェト軍事政権を立て、新自由主義の教祖とも言えるシカゴ大学教授ミルトン・フリードマンの弟子達(シカゴ・ボーイズ)を、経済政策担当としてチリに送り込みました。彼等は国営企業の民営化や福祉・医療・教育など社会的支出の削減などを行いました。初めの2年間ほど景気は回復しましたが、すぐに経済成長はマイナスに転じ、自由貿易によって国内製造業は壊滅、貧困率は前政権時代の2倍の40%となりました。そのため1985年にシカゴ・ボーイズは追放されたのです。スマトラ沖大津波で被害を受けたスリランカやイラク戦争後のイラクでも似たことが起きました。ボリビア、ウルグアイ、アルゼンチンなどでも同様でした。
小さな政府、規制緩和、民営化などを徹底してから、それらを米金融資本が買収し、その国を経済的植民地にしてしまおうという、恐ろしい目論見でした。
ミルトン・フリードマン教授とシカゴ大学経済学部で同僚だった宇沢弘文教授によると、フリードマンはベトナム戦争時、北ベトナムに水爆を使用するよう主張していたそうです。他人の惨事につけこむなどという卑劣な方策を考え出した人だけのことはあります。