20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日進は集中砲火を浴び危機に瀕します。この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていたガルシア大佐は、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を手伝うのです。ちなみに、大佐はのちのアルゼンチン海軍大臣を務めた人でもあります。この秘められた史実は、平成11年にガルシア大佐の孫ホラシオ氏が初めて明らかにしたものです。
◎アルゼンチン武官の見た日露戦争
『日本人の物語』
( 占部賢志、致知出版社 (2013/3/29)、p20 )
◆装甲巡洋艦「日進」の奮戦
世界で「ツシマ」といえば、日本海海戦のことを指しますが、この海戦が長崎県対馬沖で繰り広げられたのは明治38(1905)年5月27日、28日の両日です。
この時、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、矢の如く北進してくるバルチック艦隊に対し、左へ敵前回頭して迎え撃つという、いわゆる「丁字戦法」をとった戦史はあまりに有名です。
連合艦隊は6隻単位で編成されていました。東郷司令官は第一戦隊の先頭を担う旗艦「三笠」に乗船、しんがりは巡洋艦「日進」が務めました。
連合艦隊がぐるっと左旋回を始めた時、バルチック艦隊からみれば、回頭中の艇は止まっているように見える。だから、ここぞとばかり旋回地点に猛攻撃を加えたのです。
甚大なダメージを受けたのは日進でした。最後尾のため、しだいにロシア側の照準が合い、砲弾が命中してきたからです。
司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』の中で「日進」被弾の凄絶さをこう書いています。
「十二インチ砲弾が飛んできて、前部主砲の砲塔に命中……。このため右側の砲身は吹っ飛んで海中に落ち、弾片が四方に散ってその一部は艦橋にいた参謀松井健吉中佐の胴から下をうばって即死させ、さらに鉄片群は上甲板、中甲板、下甲板を襲い、十七人を死傷させた。そのあとさらに九インチ砲弾が、すでに廃墟になっている前部主砲の砲塔に落下して大爆発し、その破片は司令塔のなかに飛びこみ、司令官三須(みす)宗太郎中将や航海長を負傷させた」
このように、艦内は混乱の極みに陥る。それほどの砲弾を日進は浴びたのでした。
ところが、翌朝、ロシア側のネボガトフ艦隊は連合艦隊に対し戦意をすっかり喪失します。日本側の艦の陣容にまったく変化がなかったからです。
◆観戦武官ガルシア大佐
では、満身創痍の日進がなにゆえ翌日も戦闘に参加し得たのでしょうか。
実は日進にはアルゼンチン海軍所属のドメック・ガルシア大佐が乗船していました。そして、艦内の危機的状況下、助力を惜しまなかったのです。この事実が近年明らかにされています。以下はその経緯にほかなりません。
実は連合艦隊に編入された、「日進」「春日」という二隻の装甲巡洋艦は、開戦直前にアルゼンチンから購入したものでした。
20世紀に入るや、アルゼンチンはチリとの関係が悪化し、海軍力増強のためにイタリアの造船所に巡洋艦2隻を発注。ドメック・ガルシア大佐は現場監督として派遣されます。
この2隻は「モレノ」「リバダビア」と命名され、1903年には竣工を迎えますが、イギリスの調停によってチリとの紛争は回避されることになります。
この情報を得た小村寿太郎外相は、早速連合艦隊補強のために購入を決め、ついに最新鋭の巡洋艦を手に入れることに成功します。モレノは「日進」、リバダビアは「春日」と改名されました。
ところで日本海海戦に際し、各国は選りすぐりの海軍武官を我が国に派遣します。中立の立場で艦隊に乗り込み、この一大開戦を観戦し、参考にするためです。42名の錚々(そうそう)たる海軍武官が世界から集まったといいます。
しかし、いざ出陣となると、連合艦隊の潰滅を予想して殆どが降りてしまいます。残ったわずかの武官の一人がガルシア大佐でした。彼はみずから造った愛すべきモレノ、「日進」に乗り込んだのです。
しかるに、日進は集中砲火を浴び危機に瀕します。この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていたガルシア大佐は、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を手伝うのです。ちなみに、大佐はのちのアルゼンチン海軍大臣を務めた人でもあります。
この秘められた史実は、平成11年にガルシア大佐の孫ホラシオ氏が初めて明らかにしたものです。曰く、「祖父は砲術士官であり、『日進』の破壊された砲台の射手として手伝ったことを常に自慢して話してくれました。……祖父は日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念をもって協力に踏み切った」と。
日露戦争終結後、明治天皇はガルシア大佐に金蒔絵(まきえ)の文箱と菊の御紋章入り一輪挿しを贈られています。おそらく、この事実を御存じだったのでしょう。
平成11年11月、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにある日亜学校に秋篠宮殿下の名を冠した「秋篠宮文庫」が設立されましたが、この開所式で明治天皇の贈り物も初公開されています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日進は集中砲火を浴び危機に瀕します。この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていたガルシア大佐は、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を手伝うのです。ちなみに、大佐はのちのアルゼンチン海軍大臣を務めた人でもあります。この秘められた史実は、平成11年にガルシア大佐の孫ホラシオ氏が初めて明らかにしたものです。
◎アルゼンチン武官の見た日露戦争
『日本人の物語』
( 占部賢志、致知出版社 (2013/3/29)、p20 )
◆装甲巡洋艦「日進」の奮戦
世界で「ツシマ」といえば、日本海海戦のことを指しますが、この海戦が長崎県対馬沖で繰り広げられたのは明治38(1905)年5月27日、28日の両日です。
この時、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、矢の如く北進してくるバルチック艦隊に対し、左へ敵前回頭して迎え撃つという、いわゆる「丁字戦法」をとった戦史はあまりに有名です。
連合艦隊は6隻単位で編成されていました。東郷司令官は第一戦隊の先頭を担う旗艦「三笠」に乗船、しんがりは巡洋艦「日進」が務めました。
連合艦隊がぐるっと左旋回を始めた時、バルチック艦隊からみれば、回頭中の艇は止まっているように見える。だから、ここぞとばかり旋回地点に猛攻撃を加えたのです。
甚大なダメージを受けたのは日進でした。最後尾のため、しだいにロシア側の照準が合い、砲弾が命中してきたからです。
司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』の中で「日進」被弾の凄絶さをこう書いています。
「十二インチ砲弾が飛んできて、前部主砲の砲塔に命中……。このため右側の砲身は吹っ飛んで海中に落ち、弾片が四方に散ってその一部は艦橋にいた参謀松井健吉中佐の胴から下をうばって即死させ、さらに鉄片群は上甲板、中甲板、下甲板を襲い、十七人を死傷させた。そのあとさらに九インチ砲弾が、すでに廃墟になっている前部主砲の砲塔に落下して大爆発し、その破片は司令塔のなかに飛びこみ、司令官三須(みす)宗太郎中将や航海長を負傷させた」
このように、艦内は混乱の極みに陥る。それほどの砲弾を日進は浴びたのでした。
ところが、翌朝、ロシア側のネボガトフ艦隊は連合艦隊に対し戦意をすっかり喪失します。日本側の艦の陣容にまったく変化がなかったからです。
◆観戦武官ガルシア大佐
では、満身創痍の日進がなにゆえ翌日も戦闘に参加し得たのでしょうか。
実は日進にはアルゼンチン海軍所属のドメック・ガルシア大佐が乗船していました。そして、艦内の危機的状況下、助力を惜しまなかったのです。この事実が近年明らかにされています。以下はその経緯にほかなりません。
実は連合艦隊に編入された、「日進」「春日」という二隻の装甲巡洋艦は、開戦直前にアルゼンチンから購入したものでした。
20世紀に入るや、アルゼンチンはチリとの関係が悪化し、海軍力増強のためにイタリアの造船所に巡洋艦2隻を発注。ドメック・ガルシア大佐は現場監督として派遣されます。
この2隻は「モレノ」「リバダビア」と命名され、1903年には竣工を迎えますが、イギリスの調停によってチリとの紛争は回避されることになります。
この情報を得た小村寿太郎外相は、早速連合艦隊補強のために購入を決め、ついに最新鋭の巡洋艦を手に入れることに成功します。モレノは「日進」、リバダビアは「春日」と改名されました。
ところで日本海海戦に際し、各国は選りすぐりの海軍武官を我が国に派遣します。中立の立場で艦隊に乗り込み、この一大開戦を観戦し、参考にするためです。42名の錚々(そうそう)たる海軍武官が世界から集まったといいます。
しかし、いざ出陣となると、連合艦隊の潰滅を予想して殆どが降りてしまいます。残ったわずかの武官の一人がガルシア大佐でした。彼はみずから造った愛すべきモレノ、「日進」に乗り込んだのです。
しかるに、日進は集中砲火を浴び危機に瀕します。この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていたガルシア大佐は、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を手伝うのです。ちなみに、大佐はのちのアルゼンチン海軍大臣を務めた人でもあります。
この秘められた史実は、平成11年にガルシア大佐の孫ホラシオ氏が初めて明らかにしたものです。曰く、「祖父は砲術士官であり、『日進』の破壊された砲台の射手として手伝ったことを常に自慢して話してくれました。……祖父は日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念をもって協力に踏み切った」と。
日露戦争終結後、明治天皇はガルシア大佐に金蒔絵(まきえ)の文箱と菊の御紋章入り一輪挿しを贈られています。おそらく、この事実を御存じだったのでしょう。
平成11年11月、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにある日亜学校に秋篠宮殿下の名を冠した「秋篠宮文庫」が設立されましたが、この開所式で明治天皇の贈り物も初公開されています。