電脳筆写『 心超臨界 』

影は光があるおかげで生まれる
( ジョン・ゲイ )

日本史 鎌倉編 《 愛情と畏敬なき歴史評論は暗黒裁判と同じ――谷沢永一 》

2024-09-16 | 04-歴史・文化・社会
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ここ40年あまりの期間、日本の歴史研究者と名乗る連中は、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』のごとき、もっともツマラナイ本は持ちあげながら、このピカピカ光る『支那思想と日本』を、一貫して無視しつづけたのである。この貴重な指摘と論点を、日本歴史の再検討に生かそうとは誰も努めなかった。津田左右吉のこの論旨が、渡部昇一によって具体的に生かされるまで、実に35年の歳月を要した。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p258 )
解説――伝統の急所を説きあかす  谷沢永一

◆愛情と畏敬なき歴史評論は暗黒裁判と同じ

竹越与三郎の基本的な態度は、日本の歴史に対する愛着と畏敬である。この一線を踏みはずしたら、本人は歴史を書いているつもりでも、すべては空しい繰り言に終わる。

その典型的な徒労の愚著は、津田左右吉(つだそうきち)の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(岩波文庫)である。大正5年から10年(1916-21)にかけて出版された4巻本、横に積んで17センチに達する労作は、まことに奇妙キテレツな本である。初めから終りまで、日本の文芸はいっさいすべてダメ、なんの価値もなく取り柄もなく、エライのはたったひとり、小林一茶だけという、罵倒だけがエンエンと、いつ果てるともなく続くのである。

『源氏物語』がなぜツマラナイのか。津田左右吉がまくしたてる雄弁を、ほんのちょっとだけ聞いてみよう。

「こんな風に源氏は自己を罪あるが如くに思ひ、又た然(しか)らざるが如くにも考へ、甚だ曖昧である。が、曖昧であるのは即ち罪の自覚の強くないことを示すものであって、柏木がおのれに対して同じ罪を犯したとて、それを以て自己の罪を軽めるものと思うなどは、罪悪の悔恨の痛切でない証拠であらう。彼は実に罪悪の結果としての、此の世の栄華と歓楽とを満分に享受して、豪もそれを恥じなかったではないか。藤壺の悔恨は心弱い女の情に過ぎぬ。同じく心の弱い柏木は(中略)良心の呵責よりは源氏の不機嫌を恐れたやうな傾がある。当時の人の道念はほぼこれで察せられる」

まことに恐縮の極みである。今では不倫と軽く言うが、昔は姦通と呼びならわし、法律に姦通罪が定められていた。それを津田左右吉は自分の流儀で、法律の条文よりも厳しく解釈し、わが身を検事の立場におき、高だかとした口調で論告し求刑する。この人は文芸作品の読解を、裁判と勘違いしているらしい。なんとも珍無類の光景である。どうやら大正期の学者には、伝統を軽蔑する論法を、カッコいいと信じる一派が、かなりのさばっていたらしい。

日本の独立を守るために、明治の世代は心労を重ねたから、そのツライ努力の節目ごとに、心の支えを求めるため、わが国の伝統を重んじた。その苦労を身に染みるほどは体験せず、日本の近代化を当然のごとく受け取り、感謝しなかった二代目が、大正期に続出したヘリクツ屋である。志賀直哉の小説の主人公が、父親に反抗してダダをこねながら、一方では多額の仕送りを受取りつづけ、ツラの皮あつく平気の平左でいるように、国家という母屋がしっかりしていたから、甘えん坊が減らず口を叩いたのである。

しかし、また一方では、津田左右吉の論法が、格別の効き目をみごとに発揮した。昭和13年(1938)刊行の、『支那思想と日本』(岩波新書)がそれである。すでに発表ずみの論文2編に、修正を加えたこの本の論旨を「まへがき」で次のように説く。

「この二篇に共通な考(かんがえ)は、日本の文化は民族生活の独自なる歴史的展開によって独自に形づくられて来たものであり、随(したが)って支那の文化とは全くちがったものであるといふこと、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもってゐる別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたってゐず、一つの東洋文化といふものは無いといういふこと、日本は、過去に於いては、文化財として支那の文物を多くとり入れたけれども、決して支那の文化の世界につつみこまれたのではないといういふこと、支那からとり入れた文物が日本の文化の発達に大(おおい)なるはたらきをしたことは明かであるが、一面またそれを妨げそれをゆがめる力ともなったといふこと、それにもかかわらず日本人は日本人として独自の生活を発展させ独自の文化を創造して来たといふこと、日本の過去の知識人の知識としては支那思想が重んぜられたけれども、それは日本人の実生活とははるかにかけはなれたものであり、直接には実生活の上にはたらいてゐないといういふこと、である。日本と支那と、日本人の生活と支那人のそれとは、すべてにおいて全くちがってゐる、といふのがわたくしの考である」

中学一年生の私は、この本を読んで飛びあがるほど昂奮した。当時の教諭たちや新聞などが、言ったり書いたりしている通念に、真っ向から対立する見解が、堂々とじゅんじゅんと記されている。学問のすばらしさ面白さを、この200ページの1冊によってはじめて知った。学者とは実にエライものだと、私はつくづく感嘆した。

しかし、ここ40年あまりの期間、日本の歴史研究者と名乗る連中は、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』のごとき、もっともツマラナイ本は持ちあげながら、このピカピカ光る『支那思想と日本』を、一貫して無視しつづけたのである。この貴重な指摘と論点を、日本歴史の再検討に生かそうとは誰も努めなかった。

津田左右吉のこの論旨が、渡部昇一によって具体的に生かされるまで、実に35年の歳月を要した。
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