電脳筆写『 心超臨界 』

水の流れが岩と衝突するところ常に水の流れが勝る
力ではなくその持続性によって
( お釈迦さま )

◆『七人の侍』は自衛隊を正当化するための宣伝映画だ――映画評論家・佐藤忠男

2024-06-28 | 05-真相・背景・経緯
§6-2 真正保守が追放され反日左翼と似非(えせ)保守だらけになった日本
◆『七人の侍』は自衛隊を正当化するための宣伝映画だ――映画評論家・佐藤忠男


ある日、私は、私よりはるかに映画通の同世代の友人から、次のようなことを聞いたのである。友人はこう言った。「七人の侍」ってのは、村人が武装集団を雇って、村を自衛するという話だろう」。「ああ」。「あの公開当時、あれは憲法違反の自衛隊を正当化するための宣伝映画だと悪口をいう評論家がいたんだぜ」。「えーっ」。私は信じられなかった。


◇自衛隊と『七人の侍』

『「言霊の国」解体新書』
( 井沢元彦、小学館 (1998/05)、p49 )

クロサワの『七人の侍』がリバイバル上映されている。

やはり、この作品は日本映画の最高傑作と考えていいだろう。

いや、単に日本映画というだけはなく、世界映画史の中でも指折り傑作と言っていいと思う。というのは、この映画は一つのパターンを築き上げたからだ。

典型(パターン)を一つ作るというだけでも大変なことなのに、黒澤明は『用心棒』にしろ『隠し砦の三悪人』にしろ、この『七人の侍』にしろ、後世の映画作家たちが模倣せざるを得ないような「典型」を数多く作った。

これは黒澤明の研究家も等しく認めるところである。

やはり黒澤明は天才なのだろう。

しかし、その天才性が適確に評価されてきたかという、それは疑問だ。

『乱』や『影武者』それに『八月の狂想曲』のことは、しばらくおく。今でも信じられないかもしれないが、『羅生門』『用心棒』『野良犬』『天国と地獄』『生きる』それに『七人の侍』(順不同)といった傑作を次々に発表していた時期ですら、黒澤明の評価は決して芳しいものではなかった。

そのことを最近、作家の小林信彦氏は次のように紹介している。

「〈訳のわからない時代だった。私が好きでたまらなかった黒澤明の映画は、否定的な意味で、保守的・権威的・家父長的と決めつけられ、黒澤明を好きだと表明することは、かなりの勇気が必要であった。〉西村雄一郎の告白である。そう、1960年後半、’70年代初めは、そういう狂った時代だった。」(「私の読書日記」週刊文春1991年10月24日号)

私は『七人の侍』が公開された 昭和29年(1954年)の生まれである。だから『七人の侍』も最初はテレビで見た。

面白かった。これこそ映画だと思った。

ところが、ある日、私は、私よりはるかに映画通の同世代の友人から、次のようなことを聞いたのである。友人はこう言った。

「七人の侍」ってのは、村人が武装集団を雇って、村を自衛するという話だろう」

「ああ」

「あの公開当時、あれは憲法違反の自衛隊を正当化するための宣伝映画だと悪口をいう評論家がいたんだぜ」

「えーっ」

私は信じられなかった。

だが、その友人は嘘を言うような男ではない。だから私は、まったく日本の評論家というのは、どうしようもないな、と思った。これは正直に告白しておくが、その通りに思ったのである。また、あまりのバカバカしさに、正直言って、そういう発言が本当にあったのかどうか、これまで確認することすら怠ってきた。しかし、今回、『七人の侍』のリバイバル上映を記念して(?)、調べてみたら、本当にあったのである。

十何年も前に発表された文章であるから、今では筆者の考えが変わっているかもしれないが、コトダマの害の実例として取り上げることにする。

それはこういう発言である。

「私は、戦争はまっぴらだった。(中略)これにたいして、外国から攻撃を受けた場合の自衛の権利はあるという議論が行われ、やがて警察予備軍は自衛隊と名を改め、本格的な軍隊へと増強されていった。この、警察予備軍が自衛隊と名を改めたのが、『七人の侍』の封切られた1954年だった。(中略)私には、このストーリーが、当時重大な政治問題となっていた自衛隊の存在を肯定し、その必要性を宣伝するもののように感じられた。そして私は、この映画に反感を持った」(『黒澤明の世界』佐藤忠男・著)

正確に言えば、これは『七人の侍』を自衛隊の宣伝映画と決めつけているわけではない。しかし、まあ、こういう形で「反感」を持たれたら、映画作家は困惑するだろうな。

これに対して私が反論する。というのも奇妙な話だが、まずおかしいと思うのは、「外国から攻撃を受けた場合の自衛の権利」が「議論」の対象であるといわんばかりの態度である。

これは議論の対象ではない。もともと「在る」ものであり、何人(なんびと)も否定できないものである。それは個人に「自分の身を守る権利」が、まったき議論の余地なく認められているのと同じことである。

これを否定することは、武器を持った相手には服従しろ、あるいは奴隷になれというのと同じことだ。人間の尊厳をこれほど損なうことはない。ヒューマニズムにもとるとはこのことだ。

もちろん、その「ヒューマニズム」が自衛隊という実在の組織によって真に守られるかどうか、ということについては別の議論があるかもしれない。

しかし、ここで明確にしておかねばならないのは、悪を倒すのもヒューマニズムであること、誤解を怖れずに言えば、「人間の尊厳を守るために他人を殺す」ヒューマニズムも在る、ということだ。これが認められないなら、ヒトラーとも「おともだち」になるしかない、ということにもなる。
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