電脳筆写『 心超臨界 』

人は自らの信念の産物である
( アントン・チェーホフ )

◆民族の劣性への転落

2024-05-24 | 05-真相・背景・経緯
§4 戦後の戦争に敗れた日本
◆民族の劣性への転落


この日本民族の転落の状況を長谷川氏は次のごとく表現している。「近代化の馬力と速度において東洋一といわれただけに、その同じ力による、世紀の転落の歴史も、高速度で日本を押し流してしまった」。なぜそうなったかというと「伝承にある優性なるものが、人為的に抑圧され、劣性なるものが無軌道に跳梁(ちょうりょう)して、健全な優性の頭脳を病的な劣性の頭脳におきかえ、社会的、国家的な意識をその奴隷とした」ためである。


『パール判事の日本無罪論』
( 田中正明、小学館 (2001/10/5)、p214 )

敗戦後、日本人が民族的自尊心を失い、卑屈になり、劣等感に陥ってしまったことは、否定できない事実である。敗戦を通じて、過去の日本のあやまりや失敗を正しく反省することは、当然なことであり、それは正しいことである。だが、不当なる劣等感に陥り、あやまった罪悪感を抱くということは行き過ぎである。自分が罪を犯したという意識をもてば、卑屈にならざるを得ない。この意識をことさらに煽りたて、事実までねじ曲げて、過去の日本のすべてを罪悪であると決めつけたのが東京裁判である。

たしかに、アメリカの占領政策は、日本国民を骨抜きにしようということが、その大きな狙いの一つであった。権力や法律に弱い日本人の習性と相まって、軍事裁判といういかめしい外貌をまといつつ行なったこの占領政策は、日本民族の弱体化に100パーセントの効果を収めることに成功したのである。日本人の精神生活に烙印したこの根深い爪痕(つめあと)は、終戦後今日にいたるまで、毒素のごとく、日本人の体内に残存し、これがいろいろな形をとって発酵しているのが、現在の日本の姿であるといえよう。前述の日本社会のはなはだしい歪(ゆが)みや、アンバランスも、その源をここに発しているといっても過言ではなかろう。

当時アメリカは、東京裁判の被告は、A級戦犯の28名ではなくして、日本国民全体であると公言していた。事実、幾万人というB・C 級戦犯はもとより、日本の指導的立場にあった幾十万の人びとが、戦犯の名によって追放処分を受けた。そして残念なことに、日本国民のほとんど全部が、この占領軍の裁きを当然の処置として受け入れ、戦争に協力した罪を互いになすり合った。同胞間の醜いなすり合いと、密告、讒訴(ざんそ)が横行した。国家・民族への忠誠心こそ、最高の道徳であると信じていた日本国民は、これがとんでもない間違いであったという宣告を受けるや、自分たちはいかに非国民的であったかということを公然と誇るようになり、ことさら国を恨み、同胞を悪しざまにののしりはじめた。日本人として生まれたことは恥辱であるとさえ信じるようになった。価値は完全に逆転したのである。

多くの国民は、満洲事変はもちろん、日清戦争や日露戦争まで、すべて日本の「侵略戦争」であったと信じ込むようになった。今なお学校ではそのような教育を行なっている。また、太平洋戦争は、アメリカやイギリスの民主主義と日本の帝国主義との戦いであって、日本が悪かったのだと頭から決めてかかっている。すなわち日本は、明治このかた、世界に顔向けできないような、侵略戦争という罪悪を積み重ねてのしあがった国であるという迷信を、骨の髄までたたき込んだのが、この東京裁判である。これを多くの日本人は、平和と人道による正しい裁判である、と妄信した。そして日本人はすべて、この断罪に服することによってのみ更生することができると信ずるようになり、“一億総懺悔(そうざんげ)”というようなことばが、まことしやかに唱導され、国民はこれに服したのである。誇張していえば、日本民族あげて、前科者、または犯罪者として、見えざる捕縄につながれたのである。

このような過度の犯罪感や劣等感は当然の帰結として、日本国民の人間性を極度に卑屈にしてしまった。希望も理想もない、虚脱された、長いものに巻かれろ式の人間像ができあがってしまった。パンパンとはみずからの貞操を売って外国人に生活を依存する、不幸なる女性を指すことばだが、戦後日本の政治・経済・文化そのものが、パンパン政治であり、パンパン経済であり、パンパン文化であった。その影響は今日に及んでいる。

敗戦によって、日本に民主主義がもたらされたといわれる。人間性の解放とか、民主主義の発達とか、そのことばは美しいが、どう考えてみても、敗戦後日本人のモラルが急速に低下したのは事実であり、そこから派生する戦後の日本の社会現象が、手に負えないものとなっていることも事実である。今日見るような狂った世相、たとえば年々おびただしく数を増加させている青少年の犯罪と、その質の悪化、法秩序を無視した集団的暴力的な治安の攪乱(かくらん)、旺盛(おうせい)な賭博心理、野獣性剥き出しの享楽主義、責任のない自己主張、自由と放縦のはき違いから生ずる人生観の歪み等々、このような源が、占領政策の教育効果の影響からきていることを、われわれは否むわけにはゆかない。これを評して、長谷川如是閑(にょぜかん)氏は「日本民族の劣性への転換」であると、つぎのように述べている。

「元来、生命体における伝承された優性なるものと劣性なるものとは、当の生命体が病的変態に陥らないかぎり、それ自体の歴史の創造過程において、ほとんど意識されずに、実践的に選(よ)り分けられて、生命体の向上発展を可能にするのであるが、その主体である生命体が、無意識の選択能力を失ったと思われる場合には、おのれにある優性と劣性は、自覚的に識別されなければならない。それには、まず客観的に、その伝承の歴史的事実が認識されるべきである」(長谷川如是閑著『失われた日本』6ページ)

ここにいう生命体とは、日本国家のことを指しているのである。長谷川氏のいうとおり、たしかに日本は敗戦という未曽有(みぞう)の衝撃にあって、生命体が病的変態に陥り、無意識に選択能力を失ってしまったのである。こうしたときにこそ、その伝承の歴史的事実の認識から出発しなければならないのに、それがかえって逆に東京裁判によって歴史的事実は歪められ、自覚的・意識的に、日本民族の優性を抑え、劣性を煽りたてたのである。この日本民族の転落の状況を長谷川氏は次のごとく表現している。

「近代化の馬力と速度において東洋一といわれただけに、その同じ力による、世紀の転落の歴史も、高速度で日本を押し流してしまった」。なぜそうなったかというと「伝承にある優性なるものが、人為的に抑圧され、劣性なるものが無軌道に跳梁(ちょうりょう)して、健全な優性の頭脳を病的な劣性の頭脳におきかえ、社会的、国家的な意識をその奴隷とした」ためである。

日本という生命体の健全な頭脳を病的な頭脳に置き換え、社会的・国家的な意識をその奴隷とした“人為的”なるものとは、いったい何を指すのであろうか。これこそ2年8カ月にわたって“執念深い報復の追跡”を行なった東京裁判を中心とするアメリカの占領政策である。

慧眼(けいがん)なるパール博士は、勧告文の中で、すでにこのことを指摘しているのである。すなわち、敗戦によって心のよりどころを失い、物質的にも困窮した時代に、国民を苦しめている一切の弊害はここにあるのだといって、虚偽の原因を示し、これを宣伝し鼓吹する者にとっては、人心をあやまらせることはきわめて容易である、人心を支配しようと欲する者にとっては、今こそ絶好の機会である、しかもこの弊害を取り除く以外に解決の途はない、それをこうせよといって、扇動し鼓吹するには、現在ほど適当な時期はない、こんな時期につけ込んで、法律に名を借り、軍事裁判といういかめしい外貌をまとって、日本民族の弱体化を狙うようなやり方は許しがたい、というのである。そして、司法裁判所たるものが、このような妄想(日本人の罪悪感や劣等感)を、植え付ける仕事に手を貸すべきではない、と主張し、この裁判が与える日本国民への思想的影響を憂慮したのである。この博士の憂慮はいみじくも的中したというべきであろう。
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