電脳筆写『 心超臨界 』

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( ガンジー )

日唐の政府行政組織のちがい――西尾幹二

2024-08-31 | 04-歴史・文化・社会
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中国の皇帝崇拝と神の代償としてのその絶対化による政治の形態は、人類史上例をみない特殊な世界であって、日本にはもともとなじみにくいものであった。日本の天皇は神の祭司である。祭政は分離され、中国のような政治権力の宗教化は日本では巧妙に避けられてきている。そのためには神祇官と太政官の二官分立の形式がいち早く賢明に採用され、確立されていたのではないかと私には思われる。今日の象徴天皇制の淵源はすでに律令の中に存在するのである。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p336 )
11 平安京の落日と中世ヨーロッパ

◆日唐の政府行政組織のちがい

日本と唐の行政組織をここに掲げる。唐の表は簡略化されている。すでに唐の制度を基としたとはいえ、日本の実状を鑑み、たんなる模倣とはいえない。きわめて独自な中央官制の仕組みが日本ではつくられていた。

 図:「日本と唐の行政組織の比較」

【日本】                        ┌中務省
       ┌──────────────────┐ ┌式部省
   ┌神祇官│               左弁官┼─┼治部省
   │   │┌────────────┐    │ └民部省
 天皇┤   ││    ┌左大臣┐   │    │
   └太政官││太政大臣┤ (1)  ├大納言│ 少納言│
       ││  (1) └右大臣┘ (1) │    │
       ││      (1)     │    │ ┌兵部省
   弾正台 │└────────────┘ 右弁官┼─┼刑部省
   衛門府 └──────────────────┘ └大蔵省
   左衛士府                     └宮内省
   右衛士府                        
   左兵衛府                        
   右兵衛府                         
 
【唐】
    ┌三師(太師・太傅・太保)
    ┌三公(太尉・司徒・司空)
    │
    │             ┌吏部尚書
    │        ┌左僕射─┼戸部尚書
    │   ┌門下省 │    └礼部尚書
 皇帝─┼三省─┼尚書省─┤
    │   └中書省 │    ┌兵部尚書
    │        └右僕射─┼刑部尚書
    │             └工部尚書
    │ 
    │   ┌太常寺卿・光禄寺卿・衛尉寺卿
    └九寺─┼宗正寺卿・太僕寺卿・大理寺卿
        └鴻臚寺卿・司農寺卿・太府寺卿

日本の官制は「二官八省一台五衛府」などといわれるようになった。弾正台(だんじょうだい)は、左大臣以下の役人を監視している機関であって、さしずめ検察庁の役割であり、後に検非違使(けびいし)にその仕事を譲って有名無実となった。各衛門府(えもんふ)は、諸門の出入りを管理し、礼儀を正し、巡検(じゅんけん)を行なう役所である。それ以外についていうと、太政大臣から左右の弁官までが太政官の組織であり、太政大臣、左大臣、右大臣そして大納言が議政官で、今日の大臣にあたる。八省は唐の六部尚書(りくぶしょうしょ)の明らかな真似であるが、一見しただけでも違いがわかる。唐の門下省(もんかしょう)は日本では少納言(しょうなごん)となって、太政官のなかに入れられ、中書省(ちゅうしょしょう)は中務省(なかつかさしょう)として八省のなかに収められている。そして、唐と決定的に異なる注目すべき点は、二官、すなわち太政官と神祇官(じんぎかん)がおかれ、大きな役割を果たしていることである。ゴチック(*)で書かれている唐の組織の尚書省はすべてを司るものであるが、これが日本では太政官の役割に集中している。また、唐では礼部尚書と称せられる祭礼祭祀の仕事をする官庁を日本では特別に神祇官という独立の官として、太政官と並ぶ重要なポストにしている点である。

 (*)ブログ注:ゴチック表示は“三省”、“尚書省”、“礼部尚書”の3箇所。

唐の機構の中心は、尚書省、中書省、門下省の三つの省で、おのおのが皇帝に直属していた。三省に分立していることが皇帝権力の自立性を保証していたのである。それに対し、日本の太政官は、この三省の権限をあわせもつ強力なポストであり、三省の一元化によって、逆に天皇の権力を制約する傾向にあったことはつとに知られている。太政大臣は最高の官で、養老律令に「太政大臣一人、右一人に師範たり」とあり、この一人とは天皇を指しているとされる。天皇の師範でさえあるという意味である。もっとも重んぜられたものであるから皇太子などがなり、奈良朝までは臣下でなった者は一人もいなかった。平安朝になって藤原良房(ふじわらのよしふさ)が初めて任ぜられて以来、藤原家の人々が代々これを受け持つこととなった。武家の出身でこの太政大臣の位置を占めたのが平清盛であった。このポストは相国とも呼ばれていた。清盛のことを入道相国と『源平盛衰記』などに書かれていたのは、ここに由来する。唐の制度と比較すると、太政官の発議権は大幅に認められていて、天皇の権力を制約するうえで大きな機能を果たし、摂関政治への道を開く基盤がすでにここにあった。

また、左大臣、右大臣、大納言など、国政上の重要な問題を審議する太政官府の議政官はいずれも畿内の有力な氏の代表者から選ばれる慣行であった。日本では大化改新以前から有力な氏の代表者が国政について合議する伝統があった。唐の律令の官吏登用試験制度はほとんど採用されない。したがって官僚の出身は血縁的な氏族社会の伝統にしたがっており、中国のような乾いた個人主義と絶対王権との組み合わせから成る構造とは異なり、初めから世襲制の身分意識が中央政府にも反映していたのである。

律令が定めた地方行政組織は、「国郡里制(こくぐんりせい)」と呼ばれ、六年任期の「国司」を中央から派遣したが、これは任期によって交代する官僚制の原理に基づく。しかるに国司のもとで実際に地方の行政に携わる「郡司(ぐんじ)」にはそれぞれの地域の豪族が任命され、任期の定めもなく、各一族のなかで世襲されることが多かった。郡司の制度には氏族制的な原理が生きつづけていたのである。

ひと口でいうと、日本の律令制度には中国的な律令制と、大和王権に由来する氏族制とがあい重なっており、日本の律令国家は「律令制」と「氏族制」の二重構造といってよいであろう。前者を代表するのは太政官―国司の体制であり、官僚制の原理に基づいている。後者を代表するのは郡司であり、血縁共同体の系譜を基礎にしている。ここにしてすでに日本の律令制度のもつ抽象性の欠如が歴然としている。中国の官僚社会の異様なまでに乾いた他者無関心的な個人主義に基づく、共同体的結合を欠いた専制体制と、日本の古代国家体制とは、初めから異なる体質を抱えていることを明らかにしている。

このことを日本古代史学者のある種の人々はとかくにネガティブにとらえ、「未開の日本」という言い方をしがちである。歴史書の多くは、あまり日唐の違いを言い立てることをしない。唐から学んだという言い方が優先する。しかし、なかにはもちろん日唐の制度の違いを言う人もいるが、大陸とこの日本列島との基盤を成す文化の違いよりも、発達段階の違い、文明の落差を言い立てる人が少なくない。

しかしこれはおかしいのではないだろうか。私は、前にも述べたが、日本は抽象的、理念的な古代中国の文民官僚独裁構造を横目に見て、確かにそれに刻印され、影響され、「後追い国家」になったけれども、縄文・弥生を含む1万数千年の森林と岩清水の文化風土は、無言のうちに受け入れうるものと受け入れられないものとの区別をし、選択していたことをそのことのうちに、日本と中国のその後の大きな展開の違いを示す原因があったと言ってよいであろう。スタートの時点からはっきり違いが現れているのである。

太政官と並べて神祇官が二官の一つとして置かれている。これは唐の礼部尚書を取り出して、もっとも重要な二官の一つとして据えられた。中国の制度には例のない扱いである。ここにすでに日本の特色が現れている。神祇官は神祇の祭典を司り、全国の神官を管理する役所で、当初からもっとも重きものと言われていた。『職原抄(しょくげんしょう)』にも「当官をもって諸官の上に置く、これ神国の風儀。天神地祇(てんしんちぎ)を重んずるの故なり」と書かれてある。

わが国は、もともと敬神のふうが盛んであった。祭事がすなわち政事であった。神武天皇の時代以来、皇祖の霊を祀り、民が天皇に服するのは、天皇がすなわち神に奉ずるためであった。天皇が天祖を敬うのはこれをもって民を治めることと異ならぬからである。崇神天皇の時代に初めて祭主がおかれた。こうしてしだいに神官の地位が天皇とは別に立てられるようになり、ついに神祇官が律令の柱になったものと思われる。

この構造は、見方によれば現代日本にまで及んでいるのである。日本の歴史を考えるときに中国史の写し絵にはなりえない重要なモメントとして欠かすことのできない要点である。とかくに日本の古代史家が日本の律令制を論ずるに際し、中国になきこの神祇官重視の構成を評し、「天皇を包む宗教的タブーがいかに強いか」とか。「天皇は司祭者的王としての原始性にとどまる」などといった社会科学的な表現の、いささか揶揄する口調で、現代の知性の優位の立場から裁断的な評語を与えていることが多いのは、とてもおかしい。日本史そのものを見誤る可能性を秘めている。

前項の末尾にもみたように、中国の皇帝崇拝と神の代償としてのその絶対化による政治の形態は、人類史上例をみない特殊な世界であって、日本にはもともとなじみにくいものであった。日本の天皇は神の祭司である。祭政は分離され、中国のような政治権力の宗教化は日本では巧妙に避けられてきている。そのためには神祇官と太政官の二官分立の形式がいち早く賢明に採用され、確立されていたのではないかと私には思われる。今日の象徴天皇制の淵源はすでに律令の中に存在するのである。
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