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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p105 】
3 世界最古の縄文土器文明
3-3 エジプト文明に並ぶ長期無変動文明
安田喜憲氏の『世界史のなかの縄文文化』によると、日本列島では氷河時代にも動植物の繁殖がつづいていた。氏は、湖水底の下層の花粉分析などによって、氷河時代にも種が絶滅したことがない、類まれな恵まれた地域であることを証明している。先にも述べた約1万2千年から1万1千年ほど前の最終氷河期の終了と、気温の上昇につれて、地表の乾燥化が進み、砂漠が拡大して、地球上にはサハラからアラビアを経てタクラマカン、ゴビに至る大砂漠地帯が出現した。人口増加と食料危機に見舞われたせいであろうが、この時期に人間の大移動が発生し、西アジアで農耕・牧畜が開始された。この同じ時期に、日本海に対馬海流が流れこんで、日本列島では温帯の落葉広葉樹林(ナラ、ブナなど)に覆われた森の時代へと移行していった。人間にやさしい環境となったのである。
安田氏は森林の多い環境を、砂漠の多い西方ユーラシアとつねに比較して考える。「新人」の群れが西から東へ移動したのは、サケ、マスなどの漁撈(ぎょろう)資源と植物食の豊富な森林資源を求めてのことであり、人類が極東に及び、やがてベーリング陸橋を渡ってのアラスカへの移動も、同じ動機に基づくものであろう。シベリアと日本とで土器の出現する年代に、あまり大きな差がない理由も、これで説明できるというのである。
氷河期の終結とともに、草原の時代から森の時代へと変化したのは日本列島だけではなく、北欧も同様であった。けれども、北欧の場合には暖流の流入という幸運はなかった。そのため、落葉広葉樹林の広がりは日本より4千年以上遅れ、土器の出現は5千年以上も遅れている。安田氏は次のようにまとめている。
北欧と日本は、旧石器時代から新石器時代への地球環境の激変期において、草原の民から森の民へと変わるという世界史の中の並行する現象を示している。人口圧と食糧危機の中で、草原の狩猟の民は、森の狩猟、漁撈、採集の民に変身することによって生き延びることができたのだ。そしてその技術革新の最先端を切っていたのが、ほかならぬ日本列島だった。と彼はみるのである。
従来文明とは、都市化、国家、高度の宗教と結びつけて考えられてきた。国家や都市の成立を見ないところは未開、野蛮である。王権や都市文化が成立したところから文明が始まる。これは、どこまでも西方ユーラシアを基準においた歴史の見方ではないだろうか。安田氏はそのように問うている。いまだ農耕の始まっていない日本列島は、未開野蛮の深い闇の中に沈んでいたのではなく、人口圧と食糧危機を乗り越えようとした同じ時期の人類が、砂漠と草原では牧畜や農耕に、他方森林と海辺では、狩猟や漁撈に活路を見いだしたのではないだろうか、と考えるのである。環境の違いに、それぞれ違った対応があっただけの話で、文明の高低の差ではない。
これまで古い文明の基準は、メソポタミアやエジプトを基準にした都市国家、統一国家をモデルに測定されてきた。都市化、国家の出現を見ないところは原始社会である。縄文人はいまだ文明人とは呼べない。そういう前提にしばられ、世界最古の土器が発掘されても、縄文農耕が証明されたあとでも、文明の存在を認めたがらない日本人学者がきわめて多かった。欧米人の調査した西アジアの結果を妄信し、その基準でしか歴史を見ないのが日本の学会の習性なのである。
安田氏はこの風潮に敢然として異を唱え、まことに新しい古代文明論を展開している。森林の文化を砂漠の文化の基準で計ってはならない。それどころか、森林資源を主とする北欧からアジア大陸東北部の中で、日本列島は技術革新の最先端を切ってさえいた。氏の主張で大切なのは、森の生態系を核とする生活下で、少しずつ熟成していった日本人の自然観、あるいは世界観は、その後の歴史時代にも受け継がれ、大陸とはまったく異質な日本文明進展の根幹を形成していったのではないかという指摘である。
氏がそう確信するのは、列島が1万有余年も大きな民族変動を受けなかったという、考古学上の証拠を握っていることに由来する。縄文文明がこの意味でも、エジプト文明と並んで長期にわたって変動しなかった有力文明のひとつであると氏は語って倦(う)まない。
日本の縄文文化は、エジプト文明と同じく、1万年近くの長期にわ
たって継続し、かつその文化的画期において、民族の移動や侵入の
影響が少ないという、世界でもまれにみる特殊性を有していた。
(中略)
エジプト文明の盛衰と縄文文化の盛衰は、完新世(かんしんせい)(
以前は沖積世とよばれていた、引用者註)の気候変動という生態軸
を導入することによって、一つの視野のなかでとらえることができ
た。
日本の縄文文化は民族の破壊をまぬがれ、自然生態系に長らく依存
した生業を維持したという点で、エジプト文明はナイルの水収支に
強く依存したという点において、完新世における気候変動が人類文
明の進展に与えた影響を検証するもっともよいフィールドであると
いえる。そこには気候変動の人類に対する影響が、1万年に及ぶ長
い時間軸のなかに、文明の所産としてともに記録されているからで
ある。エジプト文明と縄文文化は、完新世の人類文明史と自然史と
のかかわり、気候変動と文明の盛衰のかかわりあいの研究のスタン
ダードを確立する最適の条件をそなえている。
【安田喜憲『世界史のなかの縄文文化』】
私は縄文文明が世界の有力文明のひとつであるか否かということ自体に、自分なりの論点をもちだせる資格をもたない。しかし、われわれが日本の歴史を考えていく際に、有史以来の日本史の時間が、それに先立つ縄文や弥生の1万有余年の長大な時間量を背負っていて、歴史がその過去に動かされて今日に至っているということは、無視できないように思われる。
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3 世界最古の縄文土器文明
3-3 エジプト文明に並ぶ長期無変動文明
安田喜憲氏の『世界史のなかの縄文文化』によると、日本列島では氷河時代にも動植物の繁殖がつづいていた。氏は、湖水底の下層の花粉分析などによって、氷河時代にも種が絶滅したことがない、類まれな恵まれた地域であることを証明している。先にも述べた約1万2千年から1万1千年ほど前の最終氷河期の終了と、気温の上昇につれて、地表の乾燥化が進み、砂漠が拡大して、地球上にはサハラからアラビアを経てタクラマカン、ゴビに至る大砂漠地帯が出現した。人口増加と食料危機に見舞われたせいであろうが、この時期に人間の大移動が発生し、西アジアで農耕・牧畜が開始された。この同じ時期に、日本海に対馬海流が流れこんで、日本列島では温帯の落葉広葉樹林(ナラ、ブナなど)に覆われた森の時代へと移行していった。人間にやさしい環境となったのである。
安田氏は森林の多い環境を、砂漠の多い西方ユーラシアとつねに比較して考える。「新人」の群れが西から東へ移動したのは、サケ、マスなどの漁撈(ぎょろう)資源と植物食の豊富な森林資源を求めてのことであり、人類が極東に及び、やがてベーリング陸橋を渡ってのアラスカへの移動も、同じ動機に基づくものであろう。シベリアと日本とで土器の出現する年代に、あまり大きな差がない理由も、これで説明できるというのである。
氷河期の終結とともに、草原の時代から森の時代へと変化したのは日本列島だけではなく、北欧も同様であった。けれども、北欧の場合には暖流の流入という幸運はなかった。そのため、落葉広葉樹林の広がりは日本より4千年以上遅れ、土器の出現は5千年以上も遅れている。安田氏は次のようにまとめている。
北欧と日本は、旧石器時代から新石器時代への地球環境の激変期において、草原の民から森の民へと変わるという世界史の中の並行する現象を示している。人口圧と食糧危機の中で、草原の狩猟の民は、森の狩猟、漁撈、採集の民に変身することによって生き延びることができたのだ。そしてその技術革新の最先端を切っていたのが、ほかならぬ日本列島だった。と彼はみるのである。
従来文明とは、都市化、国家、高度の宗教と結びつけて考えられてきた。国家や都市の成立を見ないところは未開、野蛮である。王権や都市文化が成立したところから文明が始まる。これは、どこまでも西方ユーラシアを基準においた歴史の見方ではないだろうか。安田氏はそのように問うている。いまだ農耕の始まっていない日本列島は、未開野蛮の深い闇の中に沈んでいたのではなく、人口圧と食糧危機を乗り越えようとした同じ時期の人類が、砂漠と草原では牧畜や農耕に、他方森林と海辺では、狩猟や漁撈に活路を見いだしたのではないだろうか、と考えるのである。環境の違いに、それぞれ違った対応があっただけの話で、文明の高低の差ではない。
これまで古い文明の基準は、メソポタミアやエジプトを基準にした都市国家、統一国家をモデルに測定されてきた。都市化、国家の出現を見ないところは原始社会である。縄文人はいまだ文明人とは呼べない。そういう前提にしばられ、世界最古の土器が発掘されても、縄文農耕が証明されたあとでも、文明の存在を認めたがらない日本人学者がきわめて多かった。欧米人の調査した西アジアの結果を妄信し、その基準でしか歴史を見ないのが日本の学会の習性なのである。
安田氏はこの風潮に敢然として異を唱え、まことに新しい古代文明論を展開している。森林の文化を砂漠の文化の基準で計ってはならない。それどころか、森林資源を主とする北欧からアジア大陸東北部の中で、日本列島は技術革新の最先端を切ってさえいた。氏の主張で大切なのは、森の生態系を核とする生活下で、少しずつ熟成していった日本人の自然観、あるいは世界観は、その後の歴史時代にも受け継がれ、大陸とはまったく異質な日本文明進展の根幹を形成していったのではないかという指摘である。
氏がそう確信するのは、列島が1万有余年も大きな民族変動を受けなかったという、考古学上の証拠を握っていることに由来する。縄文文明がこの意味でも、エジプト文明と並んで長期にわたって変動しなかった有力文明のひとつであると氏は語って倦(う)まない。
日本の縄文文化は、エジプト文明と同じく、1万年近くの長期にわ
たって継続し、かつその文化的画期において、民族の移動や侵入の
影響が少ないという、世界でもまれにみる特殊性を有していた。
(中略)
エジプト文明の盛衰と縄文文化の盛衰は、完新世(かんしんせい)(
以前は沖積世とよばれていた、引用者註)の気候変動という生態軸
を導入することによって、一つの視野のなかでとらえることができ
た。
日本の縄文文化は民族の破壊をまぬがれ、自然生態系に長らく依存
した生業を維持したという点で、エジプト文明はナイルの水収支に
強く依存したという点において、完新世における気候変動が人類文
明の進展に与えた影響を検証するもっともよいフィールドであると
いえる。そこには気候変動の人類に対する影響が、1万年に及ぶ長
い時間軸のなかに、文明の所産としてともに記録されているからで
ある。エジプト文明と縄文文化は、完新世の人類文明史と自然史と
のかかわり、気候変動と文明の盛衰のかかわりあいの研究のスタン
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【安田喜憲『世界史のなかの縄文文化』】
私は縄文文明が世界の有力文明のひとつであるか否かということ自体に、自分なりの論点をもちだせる資格をもたない。しかし、われわれが日本の歴史を考えていく際に、有史以来の日本史の時間が、それに先立つ縄文や弥生の1万有余年の長大な時間量を背負っていて、歴史がその過去に動かされて今日に至っているということは、無視できないように思われる。
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