はてさて、オーラソーマは仏教とも関連しておりますです、ということを昨日は3原色の傾向とともに書かせていただきましたが、今日は、私が最近、観音経と般若心経は唱えられるようになりたいな、と思い買った本から得た知識をそのまま受け売りしようと思います。
まずは般若心経について。
これは観音様があまりにも気持ちよさそうに瞑想していたので、弟子のシャーリープトラが、
「観音様がされている瞑想はどのようなものなのですか?」と尋ねると、観音様が、
「これは私がはるか昔から慣れ親しんできた般若波羅蜜という瞑想なんだよ。」とその境地を教えてくれたところから始まります。
般若心経とは一言で言えば、「智恵の大海」です。
誰の心の底にも大きな広い悟りの海がある。その海のことを般若波羅蜜といいます。
観音様は自分の智恵の海に下りていき、改めてそこからこの世のありようを眺めてみると、世界がこれまでとはまったく違った新しい姿で見えてきました。
そこで観音様は悟ったのです。
この世界を形作っている色や形や感覚や思いなどは、すべてみなこの海の表の起こっては消える波のようなものだった、ということに。
そしてそれがわかったとき、観音様はこの世のすべての悩みや苦しみからいつしか解放されていたのでした。
そう、ここではこの世のありさまを海の波にたとえています。
それがちょっと新鮮で、わかりやすいと思ったので、皆さんにも紹介したいと思いました。
私たちがふだん自分で眼にしているものは確かにそこに存在していると思っている、けれど本当はそうではない・・
そのことについて私はこれまでいろいろな本を読み、それぞれの著者がわかりやすく説明してやろう、という方法に従って、少しばかりわかったような気になったり、かえってわからなくなったりしたものでした。
般若心経のものはかなりわかりやすくなぞらえられています。
私たちがそこに「在る」と思っているものは、私たちが思いこんでいるような確実なあり方で存在しているわけではない。
それは、例えていうなら、海の上に立っては消える波のようなもの。
波を固定してつかまえようとしてもつかまえられないように、それらは常に移ろいゆき、そこには何ひとつつかまえられるような実体はない。
実体がないとはいえ、ではそこにないのか、といえばそうでもない。
波は海そのものと切り離すことはできません。
波と海とは常にひとつのもの。
それが般若心経のもっとも有名な、「色即是空 空即是色」の意味だったのです。
私たちはこの世に産まれ、また死んでいく。
それは大海のひとつの波が生まれ、また消えていくようなもの。
しかし、その大きな海そのものは生まれることも消え去ることもない。
ただ、そこにある。
この大海こそが私たちの本体なのだから。
私たちはだから、実は最初から生まれることもなく、消滅することもない、そういう存在だったのだ、と言っているわけです。
心のみにくく汚れた姿と美しく清らかな姿も、波の形の違いのようなもの。
どちらも般若波羅蜜の大海の表面に立つ波なのですから、その本体に違いはないのだ、というわけです。
醜く汚いものと清らかな姿とは正反対のように見えるけれど、どちらも同じ大海の波のかたちなんだ。
どちらもひとつの真実のあらわれなんだ。
欲望をいちがいに悪いもの、汚れたものと決め付けていたらこの世の深い真実はつかめない。
もっと広い大きな見地から眺めれば真実の姿に気付くだろう。
人間が死を恐れるのも、波のカタチだけを見ているから。
でも、もし自分というものが表面の波のひとつにすぎないのではなく、その大きな海そのものなんだということが本当にわかったら、死を目の前にしてもあわてたり恐れたりすることはなく安らかでいられるはずだ。
少しばかりの財産が増えた、減ったと喜んだりがっかりするのも、日ごろ私たちが価値の世界に生きているから。
でも、それもただ波のカタチがすこし大きくなったり、小さくなったりするようなもので、海そのものは増えも減りもしない。
本当の自分である般若波羅蜜の真実の世界は永遠に変わらない。
とはいえ、俗人である私たちは苦しいことがあればやっぱりそれは現実的な苦しみだし、欲望もあるし、でどうしたらいいんだ?となるわけですが、実際にお釈迦様も、この般若波羅蜜の世界は、わたしたち人間の知力で理解できるものではありません、と言っておられます。
それは人間のはからいをはるかに超えたものなのだから、人がそれを悟ろうとするならば、ひたすらただ信頼して、般若波羅蜜の大海に自らを投げ入れるほかない、ということなのです。
そこで、シャーリープトラはさらに観音様に尋ねます。
「では、実際に私たちがその般若波羅蜜の世界に飛び込むとしたらどうしたらいいんですか?」と。
それに対する観音様の答えが「般若心経をとなえろ。」ということなわけですね。
シャーリープトラは「え? たったそれだけのことでいいんですか?」と拍子抜けして聞き返します。
観音様は、「そ。たったそれだけのことでいいんだよ。」と繰り返します。
なぜ、たったそれだけのことでいいのか?
その答えは、般若心経が“マントラ”だからです。
皆さんは、“マントラ”という言葉を聞いたことがおありでしょう?
マントラとはサンスクリット語で「真言」のことです。
真言とは何か、というと、「その言葉自体が指し示すものそのもの」のことです。
わかりやすく言うと、普通言葉とは何かを指し示すもののことですよね。
そこに蓮の花がある。
だから「ハス」と言葉でその名を呼ぶ。
しかし、真言とは、何もないところに「ハス」と唱えれば、そこにホンモノの蓮がぱっと現れる言葉だ、ということなわけです。
つまり、般若波羅蜜の大海のことが理解できなくても、そこに飛び込む勇気がなくても、ただ般若心経のマントラを唱えれば、そこに般若波羅蜜の大海がパッとあらわれ、唱えた人は般若波羅蜜の大海の真ん中に存在することができる、というわけです。
こりゃあ、大衆に受けるはずだわ。
難しい修行した悟りを開いた人にならなくてもいいんだもん。
マントラとはバイブレーション(波動)でもあります。
この世はすべて波動でできていますから、そのマントラのバイブレーションに波動をあわせて、日常世界で汚れてしまった心の洗濯をする、と考えればいいでしょうか。
人間のバイブレーションはけっこう粗雑に出来ているらしいです。
だから汚れや垢をためやすいんだそうです。
そこで汚れを取り去ってくれるマントラ(洗剤)を入れて、そのバイブレーションの洗濯機でぶるぶるっと洗うと次第に心が澄んでいく、というわけですね。
わかるような気がするなぁ。
だって、一番シンプルなマントラである「オウム」というこの世に最初に出来たといわれている音を唱えただけで、心が澄むと同時にぴぃ~んとギターの弦を調律して張り詰めたような気持ちよさがあるもん。
表現アートセラピー講座で、5人ずつぐらいのグループに分かれて、みんなでいろんな高さの「オウム」を輪唱していったときの心地よさ。
あれは、「カエルの歌が・・」の輪唱にはない心地よさがやっぱりあったよな。
それは真言の力だったのでしょう。
オーラソーマはいろんなものとつながっていて奥深く、探究好きの私を飽きさせません。
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