ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

悪魔の囁き

2012-07-17 09:15:00 | 社会・経済

少し前に4年前に秋葉原殺人事件を犯した被告が「解」という本を書いた、ということでその内容の一部をテレビで伝えていました。

秋葉原通り魔事件・・・

覚えていますか?

っていうより、私にはまだ昨日のことのように思えます。

もうあれから4年も経っていたなんて、びっくりです。

せいぜい1年ちょっと前くらいの感覚でした。

あとの私の3年はどこへ行ってしまったんでしょう?と言いたいくらいです。


ま、それはいいですが。

私はこの被告が無差別に「誰でもよかった」と言って殺人を犯す犯人のなかでは、最初からちょっと異色に思えていました。

というのは、たいていこういう罪もない見知らぬ行きずりの人を巻き込もう、とする犯人というのは、「事件を犯して、死刑になりたかった。」と言いますよね。

これがまず私にはさっぱり理解できない。


もちろん、社会に憤りを感じたことがある、ということから殺人を犯す、という行為までには天と地ほどの開きがありますから、もともと殺人犯の心理は理解できなくて当たり前なのかもしれませんが、それにしても、まったく意味がわからない。

死にたけりゃ、勝手に死ねばいいじゃありませんか。

それをどうして、人を殺して死刑になる、という1クッションかます必要があるのか? 

自分で自殺する勇気はないから、悪いことをして他の人に自分を殺してもらいたい、という心理だというなら、そのために罪もない赤の他人を殺すという勇気(これを勇気と言っていいのかどうか・・)ならある、というのがこれまたわからない。

そしてこの秋葉原の被告には、そういう犯人の心理とはちょっと一線を画したものを感じていたのでした。

よく言えば、もともとはごく普通の常識の持ち主で、何かの歯車が狂ってしまったがゆえにここまでの事件を起こしてしまったけれど、自分が死にたかったわけでも、人を殺したかったわけでもない人間に違いない、という感じを受けていたのです。

その私の感覚は当たっていました。

その手記には、被告が「僕は死にたかったわけではないし、人を殺したかったわけでもない。」ということがちゃんと書かれてあったのです。

では何が被告をあそこまでの連続殺人に駆り立ててしまったのか?


その理由は非常に幼稚なものでした。

会社を同僚の嫌がらせにあって嫌気がさして辞め、ネットの書き込みだけが自分の本当に居るべき場所、家族のように感じていたところ、その自分に成りすました輩があることないこと書き立てたから、そのやり場のない怒りのために殺人に走った、というのです。


理由はちゃちなものだし、とうていそれくらいのことで殺人に走る、ということが理解できるわけではありません。

理解する必要もないかもしれません。

けれど、番組で紹介されていた被告の文章からは、あぁ、ここで止めることもできたかもしれないのに、こういうサインがあったから殺人にGOがかかったのか、という情景描写が実に淡々と他人事のように描かれていました。

例えば私たちでも、出かけようとするときにプツンと靴紐が切れたとしたら、「やだ~。なんか今日は出掛けないほうがいいってことかしら?」と考えたりしますよね。

でも、そういう風に思うってことは、何か自分の心の中に気が進まないことがあって、その部分と靴紐が切れたことが波長を合わせるからそう思うんですよね。

これがもし、大好きなアーティストのコンサートに行くときだったりしたら、こんなことぐらいで出掛けるのをやめたほうがいいってことかしら?なんて思いませんもん。

秋葉原の被告は、えっ、いちいちそんなことをそういう風に受け取っちゃったの?とどんどん自分を追い込んでいったようなところがあります。

どういう風に受け止めるかはその人の心の中にあるものを映し出しているんですよね。

しかしいずれにしても私たちは、自分の身になにかふりかかったり、思わぬことが起きたとき、「でも、これって自分にとっては何か学びがあるのかも。」と考えようとします。

事実、今回私はイギリスに行けなかったですが、それを決して「だからこれは私がティーチャーになるべきではない、ってことなんだ。」というようには受け止めていません。

私は、そのときB61「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」とワークしていましたが、この上部がペールピンク、下部がペールイエローのボトルのシェイクカラーはペールコーラルです。

コーラルのテーマは、「分かち合う」ということです。

私がイギリスに行けなかった、ということを知った多くの友人からはそれはそれは温かいメッセージをいっぱいもらいました。

「あら、大変だったわね。」ぐらいのことを言われるかな、とは思っていましたが、友人たちの思いやりはそんなものではありませんでした。

1つ1つが本当に親身になってくれて、自分のことのように毎日毎日お祈りしてくれた人もいますし、「何か出来ることがあったらいつでも言ってね。」と言ってくれた人もいます。

そんな胸が熱くなるような温かいメッセージに触れているうちに、私は自分のなかで「オーラソーマのティーチャーになりたい。」と思ってきた気持ちのあり方が変わってくるのを感じました。


以前は、ただオーラソーマをもっと知ってほしいから、教えることが好きだから、自分にはティーチャーになる使命があるように感じたから、ということでした。

ひたすら「私が、私が」だったわけですね。

しかし、この友人達のメッセージに触れているうちに私はだんだん、「この温かい気持ちを私は誰かに返したい。そのためにティーチャーになりたいのだ。」と思うようになったのです。

人との関係性のなかで、その温かさに触れたことによって、また次代にそれを受け継ぎたい、という気持ち。

それが、私がB61「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」とワークしたことによる気付きだったと思います。

さて、普通に生きている人間、あるいはもっともっとポジティブに生きている人であれば、このように自分の身に起きたことを学びとして生かしていこう、と思って日々生きているわけですが、この秋葉原殺人事件の被告は、その逆にわざわざちょっとしたサインを自分自身を殺人へと駆り立てるGOサインだと思って突っ走ってしまったのです。


例えば、彼は、トラックで秋葉原の交差点に突っ込む前に、5回も同じ通りをうろうろとしています。

その間、彼は逡巡していたんです。

そして5回目の交差点に差し掛かり、ふいに右折車が割り込むようにして自分のトラックの前に来たとき、一瞬ですが、彼は、「あぁ、この車が割り込んでくれてよかった。これで今回も俺は突っ込まずに済む。」と思っているのです。

しかし、その右折車の横をふと見やると、その右折車をさらに右から追い越して前に出られるスペースがあることに気付きます。

そこで、悪魔が囁きます。

(さぁ、ここ通って突っ込めるじゃないか。)と。

そういう風に受け取ってしまうのですね。


さらには、何人かを跳ね飛ばしてすぐにトラックを停車させざるをえなくなったとき、そこで止めるかと思うと、彼の中の悪魔がまた囁きます。

(ナイフ持ってただろう? そのために買ったんじゃなかったのか。車が使えなくなったら、今度はナイフだ。)と。


こんな感じで、これは自分が犯したことじゃなくて、悪魔に囁かれたんだ、と彼が手記で書いているわけではありません。

でも私には1つ1つ、悪いものと波長を合わせていくと、こういうことになるのか~というように受け取れました。

どこに波長を合わせるかで、とんでもなく人生が狂ってしまうことがありますね。

だからこそ、人間にはある程度の楽観的な観念が必要なんだ、と思います。





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