ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「西の魔女が死んだ」を読んで

2012-07-23 09:09:00 | 本と雑誌

以前、ブリッジコースのときに私のことを「西の魔女・・」と書いてくださった方がいて、そのときのことを私は「岐阜が“西”っていう意識がなかったからなかなかそれが私のことだとは思わなかったよ~」という内容でこのブログに書いたら、コメント欄で「それって、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』っていう小説からきてるんじゃないですか?」と教えてくださった方がいて、とてもステキな小説ですよ、ということでしたので、読んでみることにしました。


そして読後、とてもすがすがしく心が洗われたような気持ちになりました。

最後はちょっと切なくもある小説なんですが、この小説がずーっと1つの静謐でおだやかなトーンを保っているのは、ひとつには“西の魔女”こと、主人公のおばあちゃんの話し方によるところが大きいと思います。

お話のほとんどはこのおばあちゃんと孫の会話で成り立っているんですが、このおばあちゃんは小さな孫であろうともちゃんと一人前の扱いをしてくれて、「~だそうですね。」などの丁寧な言葉で話してくれます。


そしてもう1つは、物語の舞台。

緑に囲まれていて、自分たちが食べるぶんのジャムやらパンやらは自分で作る、という生活。

なんだか私はデヴ・オーラを思い出してしまいました。

わたしもこういうところで1ヶ月ぐらいのんびりと過ごしてみたいなぁ、って。

今日は、この物語のなかで私が最も印象的だった1つのシーンを皆さまにもご紹介したいと思います。

なにせ、「そうよ、そうなのよぉ!」と最近私がずっとそういう考えでいたことをまさにわかりやすく孫娘との会話のなかで語ってくれていたシーンだったので。

梨木香歩さんという方は、名前が今風なのでもっとずっとお若い方だとばかり思っていたら、プロフィールを見たらなんと同級生じゃないの!

それだけできっと梨木さんもこのシーンでのことはすごく言いたかったことに違いない、と思ってしまいました。

夜、おばあちゃんと枕を並べて寝るときに、ふいに孫娘の主人公まいは、おばあちゃんにこう尋ねます。

「ねぇ、人は死んだらどうなるの?」

それは以前に彼女が自分のパパに同じことを聞いたとき、パパは「なんにもなくなるんだ。」と言い、彼女はそのことがとてもショックだったからです。

それに対して、おばあちゃんは、「ではおばあちゃんの信じている死後のことを話しましょうね。」と話し始めるのです。

以下、そのシーンをそのまま抜粋します。

「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやってきたのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけれど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、年をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら。」

「じゃあ、魂がわたしなの?」

「まいは魂と身体が合体して、まい自身なんですよ。」

まいはしばらく考えたが、やはりよく分からなかった。

「じゃあ、こうやって、考えたり、うれしかったり悲しかったりするわたしの意識はどうなるの。私はそれが消えてなくなるのがいちばん怖いの。」

「まい、おばあちゃんはさっき、上等の魔女は、外からの刺激に反応しない、って言いましたね。でも、それを完璧に遂行するのは無理です。正確には、上等の魔女ほど、外部からの刺激に反応する度合いが低い、と言うべきでした。なぜなら、肉体を持っている人間なら、だれでも傷を負ったら痛いと思うし、風邪をうつされて高熱が出たら、意識が朦朧としてくるでしょう。食べ物がなくなってお腹がすいたら、怒りっぽくなる人もいるでしょうし・・」

「わたしも少しそういうとこある」

「そう? 最近では、カルシウムが足りないといらいらするとも言われていますよね。それだって身体があるからで、やっぱり身体が意識に影響を与えていますよね。」

「だからわたしは魂と身体の合体というわけなの?」

「そうです。で、死ぬってことは、その身体の部分がなくなるわけですから、やっぱり死んだ後もまいは今のまいのままだとは、言いづらいですね」

「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」

「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」

まいはしばらく考え込んだ。

「それじゃあ、身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。何だか苦しむために身体ってあるみたい」


このときまいは、鶏小屋が何ものかに襲われて無残に殺されていたにわとりのことを思っていました。

そして、

「もしああいう目に遭うとしても、身体をもつ必要があるの?」と、責めるようにおばあちゃんに聞きます。

それに対してまたおばあちゃんはこのように言います。

「あの鶏にはあの鶏の事情があったのでしょう。魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから」

「成長なんて」

まいは、なぜだか分からなかったが腹が立ってきた。

「しなくったっていいじゃない。」

おばあちゃんは困ったようにため息をついて、

「本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」

まいは何となく、納得したくなかった。けれど、長年心にあって苦しんできた重しがようやく取り除かれて、別のドアが開かれたような、明るい気分にもなってきているのも事実だった。

「それに身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか?寒い冬のさなかの陽だまりでひなたぼっこしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに幸せだと思いませんか? 鉄棒で初めて逆上がりができたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?」

確かにそうだった。まいは返事の代わりに少しふくれてうなずいた。おばあちゃんは笑いながら、さあ、もうそろそろあきらめなさい、というように、

「今夜はこれでおやすみなさい。」と言った。

大変長い引用をしてしまいましたが、この柔らかな日差しを感じるような文章のなかで皆さんにもお伝えしたかったからです。

私たち人間と言う存在は、そもそも魂と肉体というちょっと矛盾したものを抱えている存在なのだ、ということを。

そして何だかちょっとスピリチュアルのことを学ぶと魂ばかりが崇高な存在で肉体はその下僕にすぎないような存在につい考えがちだけれど、そうではなくて魂は肉体を使って感じることによって体験ができるし、体験することによってしか成長ができないしくみになっているんだ、ということ。

だから肉体をもっていると時にはつらいことや悲しいこと、苦しいこともあるけれど、楽しいこと、嬉しいこと、わくわくするような心が躍ることもまたあるのだから、それをぜーんぶ引き受けて、いつも1つ1つコツコツと何かにぶち当たりながら、その場でこうかな、ああかな、と無骨に生きていくしかないんだ、っていうことを。

それにしても・・・

ブリッジコースで「西の魔女・・」と書いてくださった方が、もし私が、この「西の魔女が死んだ」のおばあちゃんみたいだ、と言うことから「そっと優しく、あなたがあなたであるべき場所にお行きなさい。」ってきっと言うんでしょうね、と私のことを書いてくれたなら、それはそれは光栄です。


つい最近、別の人にも私のことを「犬のお母さんが、一緒に行こうと言ってくれるなら、いっておいで、と旅させてくれるのが猫のお母さん、そんな気がします。恵津子さんは猫っぽいです。」と言われました。

この方はこの「西の魔女・・」の話も踏まえたうえでそう言ってくださったんですけど。

私ってそういうふうに見えるのかなぁ。

自分では自覚ないなぁ。

でも、そうありたいなぁ、とは改めて思いました。

だからそういう風に見えるなら嬉しい限りです。

すべての人はパーフェクトな存在であり、その人の持っている限りの可能性を信じてあげたい。

だからできるだけ手出しはしたくない、って思います。

この小説は映画にもなっています。

どんなふうに映画になって、誰が演じたんだろう、というのに興味があって、ちょいとネットで調べてみたら、おばあちゃん役はサチ・パーカー。

この人は、シャーリー・マクレーンの娘さんで、シャーリー・マクレーンと言えば大の親日家で有名なので、娘にも日本名っぽい名前をつけたんだとか。

私はその昔、シャーリー・マクレーンが“目覚めた”という「ダンシング・イン・ザ・ライト」とかの3部作、読みましたよぉ!

その頃のわたしには、何のこっちゃ、という感じでしたが(笑)

ここへきて、またつながったかぁ。

改めて、家のなかじゅう探してまた読んでみようかしらん。

そして、サチ・パーカーも私とほとんど同世代の人じゃないですか。

この映画もちょっと見てみたくなりました。

改めて、「西の魔女が死んだ」を教えてくださったじゃむ太朗さん、ありがとうございます。






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