ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

打ち込めるものが見つからないという悩み

2012-07-22 09:08:00 | 身辺雑事

最近なぜか立て続けに「わたし、今、こういうことで人生悩んでます・・」という方のお話を伺う機会があったんですが、それがみなさん、ほぼ同じ悩み。

これは私にも何かメッセージがあるな~と思って、今日は自分自身の考えをまとめるためにもこの話題を選びました。


その立て続けに続いた皆さんの悩みがどういうものか、と言うと。

「これからの私の人生、何を目標に、生きがいにしていったらいいかわかりません。」というもの。

そして、それが悩みだ、とおっしゃる方々は(みな、つながりはありません。)皆、傍から見れば「どうして悩んでるの?」と不思議に思えるくらい生活には恵まれている人たち。

つまり、自分が働かなくてもご主人に結構な稼ぎがあり、何不自由なく暮らせる立場。

自分としては家計を支えるためではなく、好きなことに打ち込める立場なわけですよ。

だから人によっては「贅沢な悩みだねぇ。」とか、「うらやましいわ。そんな悩みを抱いてみたいわ。私なんて、毎日生活していくことで必死よ~」なんて言いたくなるかもしれません。

私はそういう方々が一様に自分の生き方について悩んでいるのを聞いて、なんだかじぃ~んとしてしまいました。

彼女たちは、実に真剣に悩んでいるんです。

そんな悩みを抱えなくてものほほんと何不自由なく暮らせるんなら、毎日てきとーに遊んで暮らして、んでもって時には趣味にでもいそしんで優雅に日々を送ればいいだけじゃなぁい?なんて誰も思っていない。

このままではいけない・・

自分の奥底からふつふつと湧き起こってくるその小さな声に耳を傾け、自分の人生に焦っている・・

その姿がとっても愛おしいなぁ、って思えて。

やっぱり人間っていうのはどれだけ体力的には衰えようとも、死ぬまで自分の魂が成長し続けることを望んで必死に生きていきたい、って思ってるんだなぁ、と思って。

だから、“暇つぶし”のような趣味や優雅なひとときでは心が動かないんだね。

自分がもっと何かのために必死になってやった、という充実感が味わえないことには生きながらにして死に等しい、ぐらいの感覚がどこかにあるからこれほどまでに真剣に悩むんだね。

それはとっても美しい姿です。

人間には「悩む力」ってものがあるんだなぁ、と思います。

それは天が「選択の権利」を私たちに与えてくれたからにほかなりません。

選択の余地もない人生であったら、こんな悩みは起こらないわけだから。


エデンの園を追われたアダムとイブも、食べてはいけない、と神さまに言われていた実を食べてしまったから楽園から追われたわけだけれど、少なくとも「絶対にお前たちには食べられないようにしてやるぅ。」ということを神はしなかったわけです。

「食べてはいけない。」ということは言っておくけれど、それでもその誓いを破って食べたければ、その選択もあるわけよ、そのせいでその後の人生どうなるか、っていうことも自分で引き受けないといけないけれどね、という選択権を神は与えてくれたわけですよね。


いったんこういう悩みの滝つぼのなかに落ち込むと、自分の好きなことに没頭して生き生きと毎日暮らしている人たちのことが眩しすぎてしょうがない。

いいなぁ、とは思うんだけど素直に近寄っていって「そういう生き方っていいよね。私もそういうものを見つけたいのだけれど、今、見つからなくて悶々としているの。あなたの近くにいたらそういうものが見つかるかもしれないから、ちょっと近くにいさせて。自分もうきうきと楽しくなってくるわ。」・・・とはならないんですね。

どうしてあの人は、あんなにも生き生きとしていられるんだろう?

いいなぁ。

それに比べて私は・・

そのうち嫉妬と憎悪のような気持ちまでがこみあがってきて、そんな自分がまたイヤで余計に落ち込んでしまう、という悪循環のなかに入っていきます。


でも、私は彼女たちの気持ちがとってもよくわかります。

オーラソーマと出会う前の自分がそうだったから。

しかもそれは20年以上に渡って続きました。

それを言うと、たいていの人は言葉を失います。

(じゃあ、私なんてまだまだいいほうなのかな・・)と思って、この人にはさすがに自分の悩みは打ち明けられないわ、と遠慮してしまうみたいなので、それは言わないようにしてるんですけども。

こういう悩みを抱いている多くの人たちにそんな私が助言できることがあるとすれば、まずはこんなふうにして悶々と悩んでいる自分っていうものも丸ごと受け止めて受容してあげましょう、ってことです。

そんな自分を最低の人間のように思って卑下する必要は何もありません。

私たちは生まれたときからすでに完全なんだから。

完全に目覚めているはずの、ありのままの自分に気付けばいいだけなんだから。

そして受けとめることができたら、この悩みをほ・ん・っ・とうに悩み切ったら、必ず自分が何かに向かって動き始めるはずだ、ということを100%信じましょう。

よく、「どうしたらいいのかは、自分ではもう、わかってるんだけどね・・」というふうにつぶやくときがありますけれども、わかっていながら動き出せないのはどうしてなのか?

それは、悩んでいるようでありながら、今のままでいい、と自分が思っているからです。

今のほうがラクだから、変われなくっても、今のままでも困ることはないから、というのが本音ってわけです。


何でも物事が動き始めるとき、というのは多大なエネルギーが必要となります。

自転車だってこぎ出しにはちょっと力がいる。

えぃ、えぃ、ってペダルをこがなきゃならない。

けれど、いったんスピードに乗ったら、あとはペダルの上に足を乗せているだけで前に進んじゃうよ~んて感覚になってきます。

最初だけは大変かもしれないけれど、本当に心から自分がこのままではイヤだ、と思っているなら、必ず「あなたのように生涯かけてやりたい、っていうライフワークが私にはまだ見つからないから。見つかったらそれからは絶対に動き始めるから。」なんて言っていないで、絶対にすぐにでもその今、立っている足元から動き始めるはずなんです。


そのためには、今の自分を否定するのではなく、全面的に受け容れてあげるところから始めましょう。

何でも“否定”から始まるエネルギーというのは、それはそれは最初こそ強いものがありますが、のちのちそれは虚しいものだということに気付くから。

否定するものがなくなったとき、エネルギーも消失してしまうことになります。

でも、自分にくつろいで本当に楽しいからやってるだけ、というエネルギーに支えられたものはいつになっても決して消失はしません。

人というものは、永遠に色あせることのない真実のエネルギーを求めるように出来ているんですねぇ。

その美しいエネルギーを自分も持っているんだ、ということを心から信じましょう。


なんだか今日はちょっと上から目線のような記事になってしまいました。

ちょっと恥ずかしいな。

でもこれは私が身をもって体験してきた真実だと思うから、ぜひともお伝えしたいな、と思いました。





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