ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

親の責任

2012-07-01 09:09:00 | ニュース

今日も、イギリスに行く前に書き溜めてタイマーでUPしたものです。


イギリスに行く前の21日に、オウム真理教の元信者、菊池直子容疑者の両親のコメントが発表されました。

そこには、親として被害者の方々に申し訳ない思いでいっぱいです、と綴られていました。

―――と、それだけであれば、私はだよなぁ、と何も感じなかったことでしょう。

しかし、両親のコメントはそれでは終わりませんでした。

最後に菊池直子容疑者本人に呼びかける言葉があったのです。

「直子、生きていてくれてありがとう。あなたに会いたい気持ちでいっぱいです。こんなことを言って世間では許される言葉ではないでしょうが、どうしても娘に会いたい、という気持ちが湧いてくるのをお許しください。」

確か、こんな文面でした。

内容的なことしか覚えていないので、文章は実際のものとは少し違うと思いますが。


私はこの部分をニュースで聞いたとき、思わず涙があふれてしまいました。
これは世間に公表されることがわかっているわけですが、世間的には許されるコメントではないでしょう。

「生きていてくれてありがとう。」なんて、何の罪もない被害者は、その生きてさえいてくれれば、という願いがかなわず何十年も苦しんでいるのですから。

それが加害者側の親が自分の娘が、「あ~、生きていてよかった。」などと、本心で思っていても実際にマスコミを通じてその心情を吐露するなんてことは許されることではありません。

でもそれがわかっていても、この菊池直子容疑者のご両親は、それを言わずにはいられなかった。

なぜでしょう?

それは、娘がオウム真理教に出家してしまってから、ずーっと長年、本人と直接連絡をとることができなかった状況がひびいていると推測できます。(確か菊池直子容疑者は高3のときに出家したとか聞いた覚えがありますから、20年以上連絡がとれなかったわけですね。)

今回も娘が逮捕された、この世に生きてはいたのだ、ということがわかっても何も両親のほうからコミュニケーションをとるすべはない。

しかし、せめて世間全般に自分たちの今の本当の気持ちを訴えれば、まわりまわって娘にこのコメントが届くかもしれない、それによって何とか罪を悔いてつぐなってくれ、という悲痛な願いだったのではないでしょうか。

どこまでいっても、何十年も会わなくても、子どもがどんな変貌を遂げてしまっていても、やっぱり親にとっては子どもは子どもでしかないんだなぁ、と思うと何だかその思いに理屈抜きで泣けてきてしまったのでした。

そして、次にいったい子どもの罪はどこまでが親の責任なんだろう、と思いました。

今回の菊池直子容疑者逮捕の件にかかわらず、テレビで流れるニュースに時としてその加害者の親に現在の心境などをルポに行くテレビ局などを見ているといつもそのことを思います。

道徳的に言えば、未成年が犯した罪に対しては、どういう教育してたんだ、という意味で、親にも責任がある、というのが世間一般の風潮でしょう。

しかし、時に日本のマスコミというのは、加害者がいい年こいた大人になっていてもその親にコメントを求めに行く、謝罪の言葉を吐かせたい、という取材方針のようです。

前なんて、50いくつになった男、しかも何十年も前に家を出て行ったきり消息不明、という男が犯した罪について80の齢を超えた親に「どう思いますか?」と取材に行っていたときにはさすがに驚きました。

そんな年齢になって犯した罪に親の責任なんてあるわけないだろう、と思いました。


日本は特に欧米社会に比べると、血のつながりは一蓮托生とばかりに加害者の年齢にかかわらず、そういうふうに育てた親には罪がある、という考え方が根強いような気がします。

実際に、私たちはいくつになろうと子どもの頃の思い出のほうが鮮烈だったり、その頃に培った道徳観を大人になってもずーっと携えて生きていっている、というふうに考えたら、いくつになった加害者であろうと、その倫理観念を育てたのは親だ、という考え方も成り立ちます。


日本では一律に未成年だったら罪が軽くなりますが、それとて犯罪によっては軽くする必要なんてないのでは、という気もします。

「人の命を奪ってはいけない。」ということは、3歳の子どもにだってわかることです。

それを19歳だからといって20歳に比べて罪が軽くなるというのは心情的に納得できないという人たちが多いのはわかります。(実際に、19歳というきわどい年齢の場合は場合によっては成年と同様にみなされるようになりましたね。)

イギリスではむかし、10歳の子どもが5歳の幼児を殺したという事件でその10歳の子どもに死刑の判決が下った例があります。


本当にどこまでが親の責任なんだ、ということについては考えても考えても私の中では結論は出ません。

しかし、これだけは何度も言います。

どんな子どもだって、その子どもに対する親の気持ちは終生変わらないんだなぁって。

こんなにも終生変わらないものってほかにありますか。

無条件の愛ですよねぇ。

その変わらなさ、痛々しいまでにむき出しの愛に涙が出るんです。

でも・・・

とまた私は、ご主人がうつ病で自らの命を断ってしまった友人のことを思います。

彼女はご主人が長年うつ病が治りかけたようにみえる、あぁ、またひどくなった、ということを繰り返しているときには何とか快方に向かってくれないか、ということを切に願っていました。

しかし、亡くなってしまってからは、「どんなかたちであってもいい、どんな姿になってもいい、とにかく生きてさえいてくれたら、私は何も望まなかったのに。」と言い続け、自分を責めていました。

同様のことをオウム真理教の被害者の家族も思っているに違いない、と思うと、気持ちはわかるけれど、菊池直子容疑者の両親には、やはり娘とコンタクトをとるためにマスコミを利用したといわれてもしかたがないのかもしれない、あそこまで娘に対して感情的なコメントを発表するのは間違いだった、と言う気もまたしてくるのでした。

結局・・・

こういうときに人はつぶやくのでしょうね・・

「罪を憎んで、人を憎まず。」

そして1つの罪が生まれることで、その周辺で傷つく人たち、派生する別の罪を思うと、本当にどんなことであれまっとうに生きなくてはいけないなぁ、と改めて思うのでした。




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