ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

目は口ほどにモノを言う

2012-07-18 09:10:00 | 社会・経済

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        今月の新月は明日、19日 13:24 です。

    今月も願いがかないやすいという新月のときに

    一緒に祈りませんか

    今月は、大津のいじめ事件などに象徴されるような

    人が人の心を失っていることに対して、本来の心を

    取り戻し誰もが自分の問題として受けとめられますように、

    ということと、九州を中心とした大雨で被害を受けられた

    方々が1日も早く元の生活を送ることができますように、と

    いうことをメインにお祈りしたいと思います。

    一緒に祈ってくださる、という方は、いつものようにコメント欄

    にメッセージをください。

    その方をより感じながら、あわせて幸せをお祈りしたいと

    思います。

    私は、明日東京へオーラソーマの講座を受けに行っているため、

    13:24には祈れませんが、新月の影響がもっとも強い、と

    言われている8時間以内にはホテルに帰り、祈りの時間を持ちたい

    と思っています。


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決して気持ちのいい話題でないことはじゅうじゅうに承知しているのですが、今日もまた秋葉原殺人事件のことにお付き合いください。


昨日、私が何を言いたかったかと言うと・・・

彼のしたことは決して許されることではありませんが、いったん「秋葉原に突っ込む」と決めたあとの描写は、私には非常によく説明できている、と思えたのです。


誰でも、何かを「やる」と決めたとき(それがいいことでも悪いことでも)、いったん決めてしまったことなのに、実際にそれを行動に移すときには相当なエネルギーを要すると思います。

(いいのか、ほんとうにいいのか。)と(今なら踏みとどまれるぞ。)というような思いと戦います。

そういうとき、人はほんのちょっとしたサインを自分にとってGOがかかった、と思い込んだり、STOPと天から言われたんだ、と思い込んだりして踏みとどまったりするのでしょう。

GO
STOPか、結果は天と地ほどに違いますが、そのわけ目となったのはほんの些細なことで、しかし、それは確実に自分のなかに潜んでいる、もう決めていた何かとそれが波長が合ったからなのです。

人は信じたいものを信じる。

だからこそ、自分がどうしても秋葉原に突っ込む、と決めていたのだとしたら、そちらに傾くようなサインだと受け取ってしまうんでしょう。

しかし、私は1つ、手記のなかで目を見張る部分がありました。

被告は5回もうろうろとトラックで秋葉原の交差点付近を回っていた、と言いましたが、その最初のとき、「よし! 行こう!」と自分にGOをかけたときがあったそうです。

しかし、そのときは、その瞬間にたまたま自分の目の前を向こう側から歩いてきた通行人とばっちり目があってしまった。

もちろん、被告はトラックのハンドルを握っているときですから、車のガラス越しにですけれど。


そうしたら、その瞬間、その通行人の目が、ものすごく驚いた様子で、「どうして? どうして私なの? 許して。やめて。」と懇願し、語っていた、というのです。

それに被告はひるみ、そこで突入するのを思いとどまりました。

そうして、ずっと思いとどまってくれたらよかったのに・・・


私たちは通常運転しているとき、たとえ車であっても、ドライバーの意志を反映して、ちょっとした車の動きに悪意を感じたり、ゆったりしてリラックスしたものを感じたりします。

普通に道を運転していて、隣の車線の車に言うに言えないかすかな動きから、(あ、この車、こっちの車線に入ってきたがってるな。)と思っているということがわかることがよくありますもんね。

このとき被告は「よし! 突っ込もう」と思っていたわけですから、ちょっとした車の動きにその意志が表れていたと思われます。

それに対して、ほんの0.何秒の間に、前を行く通行人は、

「わたしを轢こうとしているの?」

「だとしたらどうして? どうしてあなたのことをしらない私なの?」

「いや、私はそんなの嫌。まだ死にたくない。」

「轢かないで。やめて。」

「お願いします。助けてください。」

    ・・とまぁ、これだけのことを訴えているわけです。それも目だけで。

そして被告もそのメッセージをちゃんと受け取っている。

これってすごくないですか?

まさに目は口ほどにモノを言う、ですね。


でも、じゃあ本当に目が口ほどにモノを言っているのか、といったらそんなはずはありません。

目は心を映し出している窓なだけで、その人が一瞬にして思った潜在意識が目に表れている、ということでしょう。

この通行人の人だって、ほんの0.何秒という一瞬のうちにそれだけの言葉を確かに脳で考えている、ということはないでしょう。


私たちは普段、考えていることのほんの何十分の1か何万分の1かがようやく言葉になるそうです。

実際はもっともっといろんなことが頭の中では浮かんでは消え、浮かんでは消え、しているわけですね。

それは顕在意識にはのぼってこない潜在意識のかたちにならない言葉たちだ、ということができるかもしれません。

でも、目はそれらの言葉にならなかった潜在意識をすべて完璧に演じることができるのですね。

しかも、間違いなくその意味を相手に伝える伝達能力もある。

すごい!

よく目だけで演技ができる役者はうまい役者だ、といったりしますが、それはつまり、言葉にならない潜在意識下にある思いをいかに人に伝達することができる人かどうか、ということなんですね。

そして、誰でもいざ、というときは国宝級にうまい役者にひけをとらないだけのことができるんですね。

また、受け取るほうも実際に言葉で伝達されるよりも、直接潜在意識下にズキューンと弾を打ち込まれるような感じで、目で伝えられたことにはすごく強い意志やこめられた思いを見るんじゃないでしょうか。

だから、被告は手記でつづっていますが、その後は人と目合わせないようにした、と書いています。

彼はトラックで5人を跳ね飛ばしたあと、14人の人を次々にナイフで襲ったのですが、その14人を襲うときには意図的に目を見ないようにした、と言っているのです。

そのようにして、大量の人を傷つけながら、自分が傷つけたことを覚えている人の顔はたった3人だと言います。

被告がもっとまともに目を合わせようとしていたら、これだけの殺人を犯すことはできなかったでしょうね。


重ねて言いますが、彼のしたことは決して許されることではありませんし、被害者の方がたのことを思うと面白半分にみえるような記事を書くべきではなかったかもしれません。

ただ私は今は、事件そのものに触れる、とか深く洞察してみたい、ということではなくて、被告が書いた手記で、「目を合わせた人がこう訴えていたからそのときはやめた。」という供述があまりにも印象的で、人が目でものを語る力、潜在意識の伝達の力、というもののものすごさに改めて人に無限の可能性を感じ、それについてだけ触れたかったのです。


事件関係者の方々の心の傷が少しでも癒えますようにお祈り申し上げます。






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