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五日物語―3つの王国と3人の女―

2016年12月06日 | 洋画(16年)
 『五日物語―3つの王国と3人の女―』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)予告編で見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ロングトレリス国の城(注2)の外に、様々な芸人たちが集まっています。
 城の中にカメラが入っていくと、王(ジョン・C・ライリー)と王妃(サルマ・ハエック)の前で芸人たちが芸を披露しています。
 火を使った芸に、一緒に見ている廷臣たちが笑います。
 芸人の中に身重の女がいることがわかります。
 王も笑うものの、王妃は笑わず、ついには立ち上がってその場を離れます。



 王妃の後を追う王は、「落ち着くのだ。私が悪かった。身重の女がいるとは知らなかった」などと王妃に言いますが、王妃は、部屋に入るとそこら中のものを壊し始めます。
 王は、「私が悪かった、許してくれ。私が何とかする」と言います。

 次の場面では、フードを深くかぶった背の高い魔法使いの男(フランコ・ピストーニ)が、王と王妃の前に現れます。
 王が「何者だ」と問うと、男は「私が何者であろうと、話は陛下にとり大事なこと」と答えます。
 そして、男が「お望みはお子様?」と尋ねると、王妃は「子供が得られるのなら、死をも厭わない」と答えます。
 それで男は、「危険を犯しても海の怪物を探し出し、生娘に料理させるのです」、「怪物の心臓を王妃様が食べれば、懐妊するでしょう」と言います。

 それで、王が潜水具を身に着け、手に槍を持って水の中に入っていきます(注3)。
 王は水の中に怪獣を見つけると、槍を突き刺します。
 怪獣がのたうち回ったために、王は突き飛ばされ死んでしまいます。
 他方、家臣たちは、怪獣から心臓を取り出します。
 そこに王妃が現れ、その心臓を持ち去ります。

 王妃は、その心臓を生娘に料理させます。
 生娘は、心臓を鍋に入れますが、鍋から立ち上る湯気にあたると、その腹が膨らんできます。
 他方、王妃は、部屋で心臓を貪るように食べます。

 結局、王妃も懐妊し、二人はそれぞれ赤ん坊を生みます。
 こんなところが、本作の始まりの部分ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょう、………?

 本作は、17世紀にイタリアで作られたおとぎ話『五日物語』に基づいて作られたファンタジー。3つの王国にいる女たちについての3つの物語が描かれています。話自体も面白いのですが、映し出されるイタリアの3つの城とか深い峡谷や洞窟などを背景とする映像美もなかなか素敵な作品です。

(2)本作は、イタリアのおとぎ話『ペンタメローネ』の51話の中から、『魔法の牝鹿』、『生皮を剥がれた老婆』、『ノミ』の3つを選び、統一的な視点(「女の性(サガ)」を描く:注4)に立って原作をかなりアレンジしつつ、ファンタスティックに描き出しています。

 例えば、上記(1)ではじめの部分を紹介した物語は、『魔法の牝鹿』に基づいています。
 すなわち、このサイトの記事(「魔法の牝鹿 イタリア 『ペンタメローネ』一日目第九話」:注5)に従えば、原作でも、王妃は、自分の子供と「乙女」(召使女)が産んだ子供とが仲がいいことに嫉妬心を覚え、火傷を負わせたりします。
 でも、原作では、むやみに子供を欲しがるのは、本作のように王妃ではなく王の方であり、また、全体としては、2人の子供(特に、「乙女」が産んだ子供)に焦点が当てられています。
 他方、本作では王妃に専ら焦点が当てられ、彼女は、王の死を代償にしても子供がほしいと思い、さらに産んだ子供・エリアスを独り占めしようとして、生娘の産んだ子供・ジョナを亡き者にしようとします(注6)。
 それで、本作の王妃は2度までも魔法使いを頼ることになります(注7)。

 ただ、こうした改変は、「女の性(サガ)」という本作のテーマに従って、主人公の王妃が「“母になること”を追い求め」る姿を強調しようとするからなのかもしれません(注8)。
 でも、生まれてきた2人の子供の父親は一体誰なのでしょう?
 原作と違って本作では、王妃が怪物の心臓を食べる段階で王はすでに死んでしまっていますから、特にわからなくなってしまっています。

 すべてこうしたことは、王妃の女性性を協調するために仕組まれているように思えてしまいます。
 ですが、男性側の観客として言わせてもらえば、子供を溺愛する父親だって数多く存在するのであり(注9)、子供を欲しがったり、生まれた子供を溺愛したりするのは、何も女性の専売特許とも思えないところです。

 とはいえ、そうしたいちゃもん(注10)をこうしたおとぎ話につけてみても、あまり意味があるとも思えません。
 それに、本作が「女の性(サガ)」をテーマとして描いているという点自体、日本語の公式サイトで言われている一つの見方に過ぎないともいえます(注11)。
 ことさらそんな見方に囚われることなく、海の怪獣が出てきたり、エリアスとジョナを襲う怪物が登場したりするのを(注12)、ファンタジーとして愉しめばいいのでしょう(注13)。

(3)渡まち子氏は、「こだわりのアーティストが作った、大人のための濃厚なファンタジーである」として70点を付けています。



(注1)監督はマッテオ・ガローネ(脚本にも参加)。
 原作はジャンバティスタ・バジーレ著『ペンタメローネ』(ちくま文庫)。
 映画の原題は「Il racconto dei racconti」(英題は「tale of tales」)。

 なお、出演者の内、最近では、ストロングクリフ国の王役のヴァンサン・カッセルは『美女と野獣』で見ました。
 また、 『ミラノ、愛に生きる』や『ボローニャの夕暮れ』に出演していたアルバ・ロルヴァケルが、『ノミ』に基づくハイヒルズ国の話の中で、王女・ヴァイオレットベベ・ケイブ)を鬼(オーガギヨーム・ドロネー)から救い出そうとするサーカス一家の母親の役を演じています。

(注2)ロケ地は、シチリア島の「ドンナフガータ城」。

(注3)この場面の撮影が行われたのは、シチリア島の「アルカンタラ渓谷」とされています。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」に、「400年の時を経て、世界最初のおとぎ話が描くのは、現代と変わることのない女の“性(サガ)”」とあります。

 なお、この文章の内の「世界最初のおとぎ話」というのは、確かに『ペンタメローネ』が400年前に書かれたものとしても、例えば、日本のおとぎ話の典型である「かぐや姫」は1000年くらい前のものですから(Wikipediaのこの記事)、成立しないのではと思います(Wikipediaの「ペンタメローネ」に関するこの記事が言うように、「ヨーロッパにおける最初の本格的な民話集」なのでしょう)。

(注5)あるいは、このサイトの記事

(注6)エリアスとジョナを演じるのは、IMDbによれば、双生児の兄弟(クリスチャン・リージョナ・リー)とのこと。



(注7)原作においては、「長い白ひげを生やした賢者」の話を聞くのは1回だけです。
 他方、本作の王妃は、エリアスを探し出しジョナを亡き者にしようとして、2回目の要請を魔法使いにします。そして、王妃は怪獣に変身して、エリアスやジョナに襲いかかります。

(注8)公式サイトの「ストーリー」に、「ある王国では、不妊に悩む女王が“母になること”を追い求め」とあります。

(注9)例えば、秀頼を溺愛した秀吉。

(注10)さらにいちゃもんをつけるとしたら、例えば、『生皮を剥がれた老婆』に基づくストロングクリフ国の話では、どうして妹の老婆・ドーラハイリー・カーマイケル)はあれほどまでに若さと美貌を求めるのでしょうか〔妹は、燃えたぎる野望を持つ姉のインマシャーリー・ヘンダーソン)と違って、変化を好まず、貧しい生活のままで良いと思っていたのではないかと思います〕?



 また、ハイヒルズ国の話では、王女・ヴァイオレットが嫁いだ鬼はなぜ殺されなければならないのでしょうか(描かれているだけでは、鬼は別段悪いことをしているようにも思えないのですが←あるいは、人間を殺して食べていたのでしょうか)?
 特に、ハイヒルズ国の話では、最後に王女が鬼の首を国王(トビー・ジョーンズ)に見せて、「こんな男のところに私は嫁いだのだ!」と言って非難しますが、婿選びの際に国王は既に鬼を見ているのではないでしょうか?

(注11)これも一つの見方に過ぎませんが、本作における王妃の行動を見ていると、魔法のような外力に頼って自分の欲望を達成しようとしてもろくな結果にしかならない、という教訓が得られるのかもしれません(なにしろ、王妃が焦って怪獣に変身せずとも、エリアスはジョナをもう追いかけることはないでしょうから)。

(注12)さらには、3つの王国の城〔上記「注2」の「ドンナフガータ城」、アンドリアの「デルモンテ城」(ハイヒルズ国)、アブルッツオ州の「ロッカスカレーニャ城」(ストロングクリフ国)〕とか様々の自然の景観〔上記「注3」のアルカンタラ渓谷、トスカーナの「ソヴァーナの洞窟」(ハイヒルズ国)、「サッセートの森」(ストロングクリフ国)〕も楽しむことができます。

(注13)なお、ハイヒルズ国の話の中では、王女・ヴァイオレットが城の中でギターを演奏しながら歌う歌う場面が描かれています!





★★★☆☆☆



象のロケット:五日物語  3つの王国と3人の女