『4デイズ』(Unthinkable)を銀座シネパトスで見ました。
(1)この映画については、評論家の評価は総じて高いものの、映画館の入り具合は悲惨なものがありました。
映画では、アメリカ国籍を持つイスラム教徒のヤンガー(マイケル・シーン)が、親米中近東諸国に対する米国の支援の打切りと、米軍の中近東諸国からの撤退とを求めて、とんでもない行動に走ります(注1)。
この映画は、そのとんでもない行動の詳細な内容をヤンガーに自白させようとする2人の米国人を描き出します。
一人は尋問のプロのHであり、もう一人はテロ対策班を率いる女性FBI捜査官・ブロディ。Hの方は、条約とか憲法・法律の規定などそっちのけで、開発されている様々の残酷な自白用具を用いてヤンガーに迫ります(1000万人規模の死傷者が出たら、そんな規定など一文の価値もなくなってしまうとして)(注2)。
他方、ブロディ捜査官は、Hの非人道的・権的やり方を非難し、正統的な方法で自白を引き出そうとします(無理やりの自供では、供述内容の信頼性が損なわれてしまうとして)。
さあ、どちらがうまくいくでしょうか?ヤンガーがセットしたとんでもない計画を阻止できるのでしょうか?
非人道的な拷問をヤンガーに加えるHに扮するのは、サミュエル・ジャクソン。『愛する人』で、ナオミ・ワッツから性的に迫られる上司の弁護士役を演じていましたが、本作では、そんな知的で落ち着いた役柄とは打って変って、とても正視に堪えない拷問を取り行う役柄を力演しています。
Hと無理やりコンビを組まされて苦悩するFBI捜査官には、キャリー=アン・モスが扮しています。彼女は『マトリックス』や『ディスタービア』(本年8月20日の記事の「注1」でごく簡単に触れています)に出演しているところ、本作では、上記サミュエル・ジャクソンのHと正反対に位置する人物を好演しています。
(2)この映画の一つの問題点は、残忍な肉体的拷問を取り行うHに、黒人(サミュエル・ジャクソン)が扮していることではないか、と思います。
この映画で彼以外の主要な役(FBI捜査官、General、Colonelなど)に扮する俳優は、大部分白人にもかかわらず、なぜ非人道的な尋問をするHに扮する俳優が黒人なのでしょう。白人俳優の役割は、尋問室の外からHに指示するだけで、自分では尋問を行おうとはしないのです。
ここには、旧来の人種偏見がうかがえるのではと思われます(注3)。
それにまた、Hの残忍なやり方を非難して、法に基づく人道的な尋問を主張する捜査官は女性なのです。まるで、平和主義、人道主義の旗手は女性だと言わんばかりです。
これでは、古い価値観がそのまま適用されてキャラクターが作り上げられてしまっているに過ぎないのでは、と思いたくなります(「ジェンダー・バイアス」というべきでしょうか)。
さらに、尋問を受けているヤンガーにしてみれば、2人とも同じ尋問システムを構成する者にすぎず、一人が肉体的手法を使い、もう一人はその休憩時間に言葉による尋問を行っているだけのこととしか思えないでしょう。いくらブロディ捜査官がHのやり方を非難しても、実際のところはHの拷問に便乗しているに過ぎないわけなのですから。
もっと言えば、彼女はヤンガーに対して、そのような非人道的なやり方を自分は見たくないから、早いところ自白してしまいなさい、と言っているとしか思えないのです。
これでは、ヤンガーが大人しく自白するなど考えられないところです(ヤンガーのことを気遣っているように見えて、その実は自分のことしか眼中にないといった有様なのですから)。
本当にブロディ捜査官が平和主義者・人道主義者ならば、こうした拷問自体を即刻中止させるべく、身を投げ出すか、いろいろな方面に働きかけたり、あるいは少なくとも上司の命令を拒否すべきではないでしょうか(職をなげうっても)?
そうせずにその場にとどまって、Hとペアを組んで尋問を続けたのですから、彼女はこのシステムの単なる一員とみなされても仕方がないでしょう。
(3)またもう一つの問題は、ヤンガーはなぜ自ら捕まるような行動をとったのか、ということではないかと思います。
身を隠したままで、アメリカ政府に対する要求を述べているVTR(映画で使われているものとは違い、顔は覆面で隠します)だけを当局に送りつけ、その信憑性を問われたら、映画にあるようにショッピングモールを爆破すれば(53人もの死者が出てしまいます)、当局も何らかの措置をとるのではないでしょうか?
この場合には、ヤンガーの身元は割れませんから、家族も無事でしょうし、何よりもヤンガー自身の安全性が確保されるわけです。
でも、おそらくは、その程度のことでは、アメリカ政府は何も動かないとヤンガーは考えたのでしょう。自分(家族を含めて)を犠牲にしようとする徹底した姿勢を示して初めて、自分の脅しに真の信憑性が備わり、そのことが要求の実現に向かわせるはずだ、と考えたに違いありません。
それにしても、強靭な信念を持って確信犯的に行動するテロリストに対しては、どんな方法を用いてもその信念を揺るがすことはできないのだな、と思いました(「自爆テロ」を行うくらいですから、家族のつながりも自分の死さえも無視できるのかもしれません!)。
(4)下記の(6)で取り上げる前田有一氏は、そのレビューにおいて、「この作品は現代の寓話」であり、「こんな究極の事態が起きたらあなたは拷問者を支持するのか、それともFBI捜査官を支持するのか。その問いかけ」がこの映画のテーマなのだが、「この映画の作り手は、そうした単純な二者択一を提示しつつ」も、「実はあなたたちにもう選択肢などないのだよという事を言っている」、すなわち、「ラストショット直前までは他の道があったように見えたのに、あるいはそう見せられていたのに実は違っていた」のだ、と述べています。
この映画は現代アメリカの置かれている状況を「寓話」的に描いているという前田氏の指摘は、映画を現実との対比で捉えることが多い前田氏得意の見解であって、その点についてはそんなに問題はないでしょう(他のテーマだっていくらでも見つけられるのであり、何もそう一つのテーマに決めつけることもないのでは、とは思いますが)。
ですが、この映画の描き方では、上記(2)で申し上げたように、そもそも「拷問者を支持するのか、それともFBI捜査官を支持するのか」という二者択一になってはおらず、初めから、テロリスト対尋問機関という構図しか存在しないのではないでしょうか?
それに前田氏は、ラストを見ればそんなことはどうでもよくなり、結局この映画はアメリカに「選択肢などないのだ」ということを描いているのだ、と述べていますが、果たしてそのように言えるのでしょうか?
というのも、ラストのような事態を招いてしまうのは、テロリストの要求をアメリカ政府が呑まないからであって、逆にその要求に従って米軍を中近東諸国から撤退させるなどの措置をとれば、悲劇は回避できるのではないでしょうか?すなわち、アメリカにも選択肢は残されている、と言うべきではないでしょうか?
確かに、アメリカ政府は、9.11のような大惨事もあり、テロリストの要求には一切対応しないとする一貫した姿勢を従来から取ってきています(注4)。でも、それもまた一つの選択、一つの原則(当然、例外もあり得ます)なのではないでしょうか?
(5)なお、劇場用パンフレットによれば、「アメリカ版のブルーレイなどに収録されている別バージョン」では、「日本公開版で描かれる「4つ目の核爆弾は存在した」という、その後の重要なシーンが丸々カットされている」とのこと(元々この映画は、米国で劇場公開されていないようです)。
こうなると、ヤンガーが自殺前にした供述に従って、爆弾処理班が3つの核爆弾にセットされた時限装置を次々に解除していきますから(ブロディ捜査官は、ヤンガーの子供たちとともに建物の外に出ます)、ヤンガーは、子供にも拷問を加えるという脅しに結局のところ屈したことになってしまいます。
要すれば、こうしたギリギリの場面ではどんな拷問も許されるのだ、結局アメリカはテロリストに屈しなかったのだ、勝利したのだ、といことになってしまうでしょう。
でもそうであれば、余りにもつまらない結末であり、なにも映画でわざわざ取り上げるまでもないと言わざるを得ません。
そして、そうであれば、何もヤンガーは自殺するまでもなかったのではないかと思われます(自分の要求が実現しなかったことに絶望した挙句に自殺した、ということができるかもしれませんが、あそこまで拷問に耐ええた強靭な意志の持ち主が、そんなことで自殺するとは思えません)。
ヤンガーが自殺したのは、これからの拷問に耐えかねて第4の核爆弾の存在を自供する破目にならないように、と考えてのことだと推測されます(そして、自分が、これからいくら頑張って拷問に耐えてみても、アメリカ政府は自分の要求を受け入れようとはしない、と判断したからでもあるでしょう)(注5)。
元々、ヤンガーは、上記(3)で申し上げたように、家族が悲惨な目に遭うことも十分に想定した上で、自ら進んで当局に逮捕されたように見えます。家族が当局に連行されてきたらすぐに自供してしまうくらいの覚悟では、わざわざそうした行動に出るとは思えないところです。
こんなところから、この映画としては、日本公開版が正当なものと思われます(というか、そうでなければ全く見るに値しない作品だと思います)。
(6)前田有一氏は、「ようするにこの映画は、一見二者択一に見えるが、実はあなたたちにもう選択肢などないのだよという事を言っている。ここでいうあなたたちとは、もちろん現在のアメリカ人のこと。この映画は、彼らに対する絶望的な宣告そのものである」として90点をつけています。
また、渡まち子氏は、「目の前の国家的危機の中で試される人間性は、きれいごとの正義感とは無縁なものだ。見る人の頭にガツンとくるこの映画、相当な衝撃作である」として65点をつけています。
さらに、福本次郎氏は、「理性や良心が失われた世界に残されたものは絶望だけという、対テロ戦争の未来を強烈に暗示する作品だった」として60点をつけています。
(注1)政府に送り付けたVTRにおいて、ヤンガーは、時限装置の付いた核爆弾を、3つ別々の都市に設置したというのです。爆発までの猶予期間は4日(ただ、Hの推理に従えば、盗まれた核物質の分量からすると、もう一つ核爆弾が作られた可能性が強いようなのです)。
(注2)本作を見てすぐに思いつくのは、自白剤がなぜ使われないのか、という点でしょう。
ただ、Wikipedeiaの「自白剤」の項目によれば、「自白剤は大脳上皮を麻痺させる以上の働きは無」く、「朦朧とした状態での自白」では「信憑性は低くなり、また細部については記憶違いや記憶の齟齬が出たり、投薬された人物の主観的妄想が含まれる場合もある。そのため、緊急にして切迫している場合以外は自白剤は最終手段か、もしくはまったく使わないことが多い」とのことですから、本作の場合、使われないか、あるいはHの尋問が始まる前の段階ですでに投与されて失敗しているか、どちらかだったと解釈してみてはどうでしょうか。
(注3)ただ、建物の外の芝生で妻と仲良く昼食をとっているところをブロディ捜査官に中断された際に、妻について、ボスニアで家族が皆殺しにされ自分もレイプされたのだ、とHは言います。だから自分がこんなやり方をするのも当然なのだ、という口ぶりですが、取ってつけたような感じしかしません。
(注4)テロリストには屈服しない原則を保持し続けるために、映画では、「要人はすべて核シェルターに避難した」と言われ、関係者は安心しきった感じとなっています。でも、いったいその「要人」とはどんな範囲の人を言うのでしょうか?
さらに、核シェルターに避難できる範囲が、スイスについて言われているように100%のものであれば、ヤンガーの計画は全くの無意味だったことになりますし、日本のようにごくごく僅かなものであれば、大パニックを引き起こすことになるでしょう(ごく一部の「要人」だけを「核シェルター」に秘密裏に移送できるなどといったことは、とても考えられませんから)。だいたい、こんなところでテロリストの尋問にうつつを抜かしていてもいいのか、自分らの身の安全はどうしてくれるのだと、その場の関係者は皆が皆思うことでしょう!
(注5)ただ、ヤンガーは、そうまでして自分の死後に第4の核爆弾を破裂させてみても、単なる憂さ晴らしか、せいぜい中東で払われたアラブ人の犠牲に対する報復、といった非生産的な意味しか持たせることができず、肝心の要求は何一つ実現されないわけですから、その底なしの無意味さに絶句せざるを得ないでしょう(死後の世界で、いったい自分は何をしたのだろうかと悔いる羽目に陥るのではないでしょうか?)。
★★★☆☆
象のロケット:4デイズ
(1)この映画については、評論家の評価は総じて高いものの、映画館の入り具合は悲惨なものがありました。
映画では、アメリカ国籍を持つイスラム教徒のヤンガー(マイケル・シーン)が、親米中近東諸国に対する米国の支援の打切りと、米軍の中近東諸国からの撤退とを求めて、とんでもない行動に走ります(注1)。
この映画は、そのとんでもない行動の詳細な内容をヤンガーに自白させようとする2人の米国人を描き出します。
一人は尋問のプロのHであり、もう一人はテロ対策班を率いる女性FBI捜査官・ブロディ。Hの方は、条約とか憲法・法律の規定などそっちのけで、開発されている様々の残酷な自白用具を用いてヤンガーに迫ります(1000万人規模の死傷者が出たら、そんな規定など一文の価値もなくなってしまうとして)(注2)。
他方、ブロディ捜査官は、Hの非人道的・権的やり方を非難し、正統的な方法で自白を引き出そうとします(無理やりの自供では、供述内容の信頼性が損なわれてしまうとして)。
さあ、どちらがうまくいくでしょうか?ヤンガーがセットしたとんでもない計画を阻止できるのでしょうか?
非人道的な拷問をヤンガーに加えるHに扮するのは、サミュエル・ジャクソン。『愛する人』で、ナオミ・ワッツから性的に迫られる上司の弁護士役を演じていましたが、本作では、そんな知的で落ち着いた役柄とは打って変って、とても正視に堪えない拷問を取り行う役柄を力演しています。
Hと無理やりコンビを組まされて苦悩するFBI捜査官には、キャリー=アン・モスが扮しています。彼女は『マトリックス』や『ディスタービア』(本年8月20日の記事の「注1」でごく簡単に触れています)に出演しているところ、本作では、上記サミュエル・ジャクソンのHと正反対に位置する人物を好演しています。
(2)この映画の一つの問題点は、残忍な肉体的拷問を取り行うHに、黒人(サミュエル・ジャクソン)が扮していることではないか、と思います。
この映画で彼以外の主要な役(FBI捜査官、General、Colonelなど)に扮する俳優は、大部分白人にもかかわらず、なぜ非人道的な尋問をするHに扮する俳優が黒人なのでしょう。白人俳優の役割は、尋問室の外からHに指示するだけで、自分では尋問を行おうとはしないのです。
ここには、旧来の人種偏見がうかがえるのではと思われます(注3)。
それにまた、Hの残忍なやり方を非難して、法に基づく人道的な尋問を主張する捜査官は女性なのです。まるで、平和主義、人道主義の旗手は女性だと言わんばかりです。
これでは、古い価値観がそのまま適用されてキャラクターが作り上げられてしまっているに過ぎないのでは、と思いたくなります(「ジェンダー・バイアス」というべきでしょうか)。
さらに、尋問を受けているヤンガーにしてみれば、2人とも同じ尋問システムを構成する者にすぎず、一人が肉体的手法を使い、もう一人はその休憩時間に言葉による尋問を行っているだけのこととしか思えないでしょう。いくらブロディ捜査官がHのやり方を非難しても、実際のところはHの拷問に便乗しているに過ぎないわけなのですから。
もっと言えば、彼女はヤンガーに対して、そのような非人道的なやり方を自分は見たくないから、早いところ自白してしまいなさい、と言っているとしか思えないのです。
これでは、ヤンガーが大人しく自白するなど考えられないところです(ヤンガーのことを気遣っているように見えて、その実は自分のことしか眼中にないといった有様なのですから)。
本当にブロディ捜査官が平和主義者・人道主義者ならば、こうした拷問自体を即刻中止させるべく、身を投げ出すか、いろいろな方面に働きかけたり、あるいは少なくとも上司の命令を拒否すべきではないでしょうか(職をなげうっても)?
そうせずにその場にとどまって、Hとペアを組んで尋問を続けたのですから、彼女はこのシステムの単なる一員とみなされても仕方がないでしょう。
(3)またもう一つの問題は、ヤンガーはなぜ自ら捕まるような行動をとったのか、ということではないかと思います。
身を隠したままで、アメリカ政府に対する要求を述べているVTR(映画で使われているものとは違い、顔は覆面で隠します)だけを当局に送りつけ、その信憑性を問われたら、映画にあるようにショッピングモールを爆破すれば(53人もの死者が出てしまいます)、当局も何らかの措置をとるのではないでしょうか?
この場合には、ヤンガーの身元は割れませんから、家族も無事でしょうし、何よりもヤンガー自身の安全性が確保されるわけです。
でも、おそらくは、その程度のことでは、アメリカ政府は何も動かないとヤンガーは考えたのでしょう。自分(家族を含めて)を犠牲にしようとする徹底した姿勢を示して初めて、自分の脅しに真の信憑性が備わり、そのことが要求の実現に向かわせるはずだ、と考えたに違いありません。
それにしても、強靭な信念を持って確信犯的に行動するテロリストに対しては、どんな方法を用いてもその信念を揺るがすことはできないのだな、と思いました(「自爆テロ」を行うくらいですから、家族のつながりも自分の死さえも無視できるのかもしれません!)。
(4)下記の(6)で取り上げる前田有一氏は、そのレビューにおいて、「この作品は現代の寓話」であり、「こんな究極の事態が起きたらあなたは拷問者を支持するのか、それともFBI捜査官を支持するのか。その問いかけ」がこの映画のテーマなのだが、「この映画の作り手は、そうした単純な二者択一を提示しつつ」も、「実はあなたたちにもう選択肢などないのだよという事を言っている」、すなわち、「ラストショット直前までは他の道があったように見えたのに、あるいはそう見せられていたのに実は違っていた」のだ、と述べています。
この映画は現代アメリカの置かれている状況を「寓話」的に描いているという前田氏の指摘は、映画を現実との対比で捉えることが多い前田氏得意の見解であって、その点についてはそんなに問題はないでしょう(他のテーマだっていくらでも見つけられるのであり、何もそう一つのテーマに決めつけることもないのでは、とは思いますが)。
ですが、この映画の描き方では、上記(2)で申し上げたように、そもそも「拷問者を支持するのか、それともFBI捜査官を支持するのか」という二者択一になってはおらず、初めから、テロリスト対尋問機関という構図しか存在しないのではないでしょうか?
それに前田氏は、ラストを見ればそんなことはどうでもよくなり、結局この映画はアメリカに「選択肢などないのだ」ということを描いているのだ、と述べていますが、果たしてそのように言えるのでしょうか?
というのも、ラストのような事態を招いてしまうのは、テロリストの要求をアメリカ政府が呑まないからであって、逆にその要求に従って米軍を中近東諸国から撤退させるなどの措置をとれば、悲劇は回避できるのではないでしょうか?すなわち、アメリカにも選択肢は残されている、と言うべきではないでしょうか?
確かに、アメリカ政府は、9.11のような大惨事もあり、テロリストの要求には一切対応しないとする一貫した姿勢を従来から取ってきています(注4)。でも、それもまた一つの選択、一つの原則(当然、例外もあり得ます)なのではないでしょうか?
(5)なお、劇場用パンフレットによれば、「アメリカ版のブルーレイなどに収録されている別バージョン」では、「日本公開版で描かれる「4つ目の核爆弾は存在した」という、その後の重要なシーンが丸々カットされている」とのこと(元々この映画は、米国で劇場公開されていないようです)。
こうなると、ヤンガーが自殺前にした供述に従って、爆弾処理班が3つの核爆弾にセットされた時限装置を次々に解除していきますから(ブロディ捜査官は、ヤンガーの子供たちとともに建物の外に出ます)、ヤンガーは、子供にも拷問を加えるという脅しに結局のところ屈したことになってしまいます。
要すれば、こうしたギリギリの場面ではどんな拷問も許されるのだ、結局アメリカはテロリストに屈しなかったのだ、勝利したのだ、といことになってしまうでしょう。
でもそうであれば、余りにもつまらない結末であり、なにも映画でわざわざ取り上げるまでもないと言わざるを得ません。
そして、そうであれば、何もヤンガーは自殺するまでもなかったのではないかと思われます(自分の要求が実現しなかったことに絶望した挙句に自殺した、ということができるかもしれませんが、あそこまで拷問に耐ええた強靭な意志の持ち主が、そんなことで自殺するとは思えません)。
ヤンガーが自殺したのは、これからの拷問に耐えかねて第4の核爆弾の存在を自供する破目にならないように、と考えてのことだと推測されます(そして、自分が、これからいくら頑張って拷問に耐えてみても、アメリカ政府は自分の要求を受け入れようとはしない、と判断したからでもあるでしょう)(注5)。
元々、ヤンガーは、上記(3)で申し上げたように、家族が悲惨な目に遭うことも十分に想定した上で、自ら進んで当局に逮捕されたように見えます。家族が当局に連行されてきたらすぐに自供してしまうくらいの覚悟では、わざわざそうした行動に出るとは思えないところです。
こんなところから、この映画としては、日本公開版が正当なものと思われます(というか、そうでなければ全く見るに値しない作品だと思います)。
(6)前田有一氏は、「ようするにこの映画は、一見二者択一に見えるが、実はあなたたちにもう選択肢などないのだよという事を言っている。ここでいうあなたたちとは、もちろん現在のアメリカ人のこと。この映画は、彼らに対する絶望的な宣告そのものである」として90点をつけています。
また、渡まち子氏は、「目の前の国家的危機の中で試される人間性は、きれいごとの正義感とは無縁なものだ。見る人の頭にガツンとくるこの映画、相当な衝撃作である」として65点をつけています。
さらに、福本次郎氏は、「理性や良心が失われた世界に残されたものは絶望だけという、対テロ戦争の未来を強烈に暗示する作品だった」として60点をつけています。
(注1)政府に送り付けたVTRにおいて、ヤンガーは、時限装置の付いた核爆弾を、3つ別々の都市に設置したというのです。爆発までの猶予期間は4日(ただ、Hの推理に従えば、盗まれた核物質の分量からすると、もう一つ核爆弾が作られた可能性が強いようなのです)。
(注2)本作を見てすぐに思いつくのは、自白剤がなぜ使われないのか、という点でしょう。
ただ、Wikipedeiaの「自白剤」の項目によれば、「自白剤は大脳上皮を麻痺させる以上の働きは無」く、「朦朧とした状態での自白」では「信憑性は低くなり、また細部については記憶違いや記憶の齟齬が出たり、投薬された人物の主観的妄想が含まれる場合もある。そのため、緊急にして切迫している場合以外は自白剤は最終手段か、もしくはまったく使わないことが多い」とのことですから、本作の場合、使われないか、あるいはHの尋問が始まる前の段階ですでに投与されて失敗しているか、どちらかだったと解釈してみてはどうでしょうか。
(注3)ただ、建物の外の芝生で妻と仲良く昼食をとっているところをブロディ捜査官に中断された際に、妻について、ボスニアで家族が皆殺しにされ自分もレイプされたのだ、とHは言います。だから自分がこんなやり方をするのも当然なのだ、という口ぶりですが、取ってつけたような感じしかしません。
(注4)テロリストには屈服しない原則を保持し続けるために、映画では、「要人はすべて核シェルターに避難した」と言われ、関係者は安心しきった感じとなっています。でも、いったいその「要人」とはどんな範囲の人を言うのでしょうか?
さらに、核シェルターに避難できる範囲が、スイスについて言われているように100%のものであれば、ヤンガーの計画は全くの無意味だったことになりますし、日本のようにごくごく僅かなものであれば、大パニックを引き起こすことになるでしょう(ごく一部の「要人」だけを「核シェルター」に秘密裏に移送できるなどといったことは、とても考えられませんから)。だいたい、こんなところでテロリストの尋問にうつつを抜かしていてもいいのか、自分らの身の安全はどうしてくれるのだと、その場の関係者は皆が皆思うことでしょう!
(注5)ただ、ヤンガーは、そうまでして自分の死後に第4の核爆弾を破裂させてみても、単なる憂さ晴らしか、せいぜい中東で払われたアラブ人の犠牲に対する報復、といった非生産的な意味しか持たせることができず、肝心の要求は何一つ実現されないわけですから、その底なしの無意味さに絶句せざるを得ないでしょう(死後の世界で、いったい自分は何をしたのだろうかと悔いる羽目に陥るのではないでしょうか?)。
★★★☆☆
象のロケット:4デイズ
ヤンガーの自殺に関して、クマネズミさんの言われるとおりだと思います。最終的に憂さ晴らし云々はともかく、あの時点で彼が死ぬことはある意味彼の100%の勝利を意味すると思うので。(第4の核爆弾の存在で。)大体通常爆弾ならともかく、合計4つもの核をセットしておいて妻と子供はアメリカにいるってのもおかしな話ですよね。まあ子供を目の前にしたらまた決心が鈍るのも当然ではあるでしょうが。
個人的には人間でなくなるぐらいなら爆死したほうがましだという彼女の意見が嫌いです。それはクマネズミさんが書かれている彼女の自己満足の一つに過ぎないから。全員が全員子供を助けるために爆死するほうを選ぶとでも思っているのかと。死を前にして倫理観を説くのは宗教家だけにして欲しいです。彼女はあくまでFBIの捜査官なのですから、人間を止めても子供を拷問し全てを聞き出すべきだったと思います。
戦争とは軍人同士が争い、民間人に対しては基本的に牙を剥かないというのが従来の戦争の考え方であった。これを崩したのは太平洋戦争のアメリカであり、東京大空襲も原爆も軍事施設への攻撃ではなく、敵国の民間人を大量虐殺する事によって敵国が音を上げるのを待つ行動だ。戦争の倫理より効率を優先したのだ。
アメリカが同じ国であるなら、拷問は行われるのが自然ではないか?
ただ、若干の異論があります。「あの時点で彼が死ぬことはある意味彼の100%の勝利を意味する」とありますが、第4の核爆弾が爆発したら、彼が提示した2つの要求事項は実現しないのですから、そして彼の目的はその要求事項の達成にこそあるわけですから、彼の勝利だとは言えないのではないか、と考えます(もちろん、米国の勝利でもありませんが)。
また、仮に彼が自殺しなかったとする場合には、子供を拷問にかけるかどうかが問題になると思われますが、そしてブロディ捜査官は、そんなことをするくらいならば、死んだ方がましといって反対しますが、仮にヤンガーが、家族の犠牲を厭わないほどの筋金入りのテロリストであれば(妻の死に対する態度を見てもそのことが推測されますし、元々それが嫌なら、進んで逮捕などされなかったでしょうし、予め家族を国外脱出させたことでしょうし)、そんなことはどうでもいい問題になってしまいます。どんな拷問をしようとも、ヤンガーは絶対に自供しないのですから。
とすると、あとは、そうした意味のない場面を映画で描き出すのかどうかという問題になるでしょうが、その場合には、一般公開など到底おぼつきませんから(低レベルの猟奇映画にすぎませんから)、こうした映画を製作すること自体が無意味になってしまいます。
そこで、映画では、ヤンガーの自殺という手が考えられたのではないでしょうか?
この映画では、「子供は犠牲になって拷問されてもおかしくない」かどうかの判断を回避すべく、ヤンガーが自殺してしまいました。
3月10日の東京大空襲などを実施したアメリカが制作する映画ならば、その中で「子供は犠牲になって拷問されてもおかしくない」という意味でおっしゃっているとすれば、そんな昔の犯罪行為が暴き出されるのを防ぐ意味でも、映画の中では、ヤンガーを自殺させなくてはならないのでしょう!
言ってみればヤンガーにとっては目的が達成できない場合の次善の勝利ということになるのかもしれません。逆にアメリカにとっては最大の敗北はヤンガーに屈することですから、次善の敗北などという言葉はないと思いますが、そういうことかなと。
ヤンガーの自殺が、言ってみれば映画的なエクスキューズになっていると言うのはなるほど納得です。落し所は考えなくてはならないですもんね。
個人的な感想で恐縮ですが、はたしてヤンガーは要求の丸呑みをアメリカ政府に本気で求めていたのかな、と感じました。冒頭で何度も強調されていたように、彼はアメリカ国籍ですよね。従軍経験もあって、アメリカがテロには決して屈しないと表明している国であり、そのためにはおそらく「あらゆる」手段を講じる国であることは十分承知していたはずです。
ヤンガーの本音らしきものが垣間見えるのは、ヘレンが騙されて多数の犠牲者が出た後に彼女に対して吐き出す言葉だと思います。簡単に言えば、思い上がったアメリカに天罰を下してやるざまぁ見ろ!!ということだと思います。
ヤンガーは無茶な要求をアメリカ政府が飲むとは思っていなくて、最初から核を起動させるつもりだったと思うのですがいかがでしょうか。核の起動が最終目的だったと。自ら捕まったのは、あらゆる拷問に耐えることが、彼なりのジハード聖戦であるということではないかなと思うのです。最初にHが大声で明言した「これは戦争だ」というセリフとリンクしている気がしてなりません。
また、それならば奥さんと子供はなぜアメリカにいたのか、という問題ですが、それは劇中で語られています。彼女たちの足掛かりをつかんだのは「税関」ですよね。出国しようとしたけど、書類に不備があり出来なかったわけです。ここがヤンガーの誤算であり、つまり自分ひとりではいかなる拷問にも耐えられる(聖戦だから)けど、家族となると話は別だと。彼が自殺したのは、4つ目の核の場所を黙秘できる自信がなかったからだと思いますし、だから良心代表であるヘレンに子供たちを託したのだと思います。
要求を呑むのも選択肢の一つではないか、というご意見はごもっともですよね。ただ、個人的に感じたのは、ヤンガーに仲間がいない保証があったのかということです。もし、仲間がいて、最高機密の中でヤンガーの要求を呑んだとすると、結果として仲間には分かります。それでどうなるか?確実に政治要求するテロが今以上に頻発するでしょう。なにせテロ行為をすればどんな無茶な要求でも呑む政府なのですから。こんな間違いをしたのは日本政府ぐらいで、冷静に考えると有り得ない判断だと思うのですが、クマネズミさんはどのようにお考えでしょうか。ご意見をお聞かせ願えれば幸いです。
クマネズミとしては、ヤンガーは、何としてでも中近東からの米国勢力の排除を実現させたいと考えていたのでは、と思っています。そして、その要求を通すべく、核爆弾を3つではなく4つも設置するという挙に出たのではと思います(ビデオで明らかにした3つについては、要求の切実性を訴えるため、4つ目は最後の切り札として)。
確かに、ヤンガーは、「アメリカがテロには決して屈しないと表明している国であり、そのためにはおそらく「あらゆる」手段を講じる国であることは十分承知していたはず」と思います。
さらに、ヤンガーは、「思い上がったアメリカに天罰を下してやるざまぁ見ろ!!」と言いたかったのかもしれません。
しかしながら、そうであれば、すなわち、「無茶な要求をアメリカ政府が飲むとは思っていなくて、最初から核を起動させるつもりだった」のであれば、彼は、居所を隠して大統領(あるいは、マスコミ)に要求事項をつきつけ、それが通らなければすぐさま核爆弾のスイッチを押せばよかったのではないでしょうか?
また、ヤンガーが「自ら捕まった」ことにつき、Questさんは「あらゆる拷問に耐えることが、彼なりのジハード聖戦であるということではないか」とおっしゃるところ、確かにそういう面は否定できないにせよ、むしろ、自分の要求をまともに取り上げて検討するようアメリカ政府を仕向けることを第一の目的として、彼はあえてそのような行動に打って出たのではないかとクマネズミは思っています(実際には、大統領にまでなかなか上がりませんが)。
さらに、ヤンガーの奥さんと子供の件ですが、これはおっしゃるように「ヤンガーの誤算」にしても(できれば国外脱出させたかったでしょう)、万が一彼らが捕まった場合には、その犠牲もやむを得ないと考えていたのではないでしょうか(米軍の撤退を求めるにはそのくらいのことは、と思い詰めていたのではないでしょうか)?
そもそも、クマネズミは、Questさんご指摘の通り、ヤンガーの「要求を呑むのも選択肢の一つではないか」と考えています。
確かに、ひとたびテロの要求に屈すれば、「政治要求するテロが今以上に頻発する」可能性は高まると思われます(これは彼に直接的な「仲間」がいなくても、そうなることでしょう)。
でも、“テロに屈しない”との原則は、数千万人もの犠牲を払ってまでも守るべきものなのでしょうか?それは、普通言われている「テロ」の範疇を大きく越える事柄であり、ハッキリいえば戦争状態なのではないでしょうか?
翻ってWIkipediaを見ると、そこには、「テロリズムとは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、およびそれを容認する主義のことである」とあります。
これでは、戦争の定義と何ら変わりがないのではと思えてきます。おそらくは、「組織的暴力の行使」の主体が国家かそうでないかの違いがあるくらいなのではないでしょうか?
クマネズミには、『4デイズ』で問題とされている状況は、戦争と同じものではないかと思えます。そして、戦争ならば、日本が米国の2つの原爆で屈服したように、相手の「組織的暴力の行使」による「要求」に従うこともやむを得ない場合があるのであれば、本作のような状況で相手の要求に従うことも選択肢の一つではないか、と思うのですが。
なお、Questさんは、「こんな間違いをしたのは日本政府ぐらいで、冷静に考えると有り得ない判断だと思う」と述べておられます。これは、1975年のクアラルンプール事件と1977年のダッカ日航機ハイジャック事件を指しておられるのでしょうが、クマネズミとしては、決して当時の政府が「有り得ない判断」をして「間違い」を犯したとばかりも言いきれないのではないか、と思っています(一方で、こうした事件の後で警視庁に特殊部隊が設けられたのであり、他方で、乗客等は全員無事だったのであり、犯人については、まだ6名が国外逃亡中ながら、5名は逮捕の上裁判にかけられているのですから)。
随分と分かったようなことばかり述べてしまいましたが、どれもなかなか難しい問題であり、Questさんのご教示をいただければ幸いです。
難しい問題ですね(笑)
私は自分の意見を述べたり、人の意見に耳を傾けることしかできないので、誰かに教示出来るほどの者ではないですが(笑)、私なりの考えを書かせていただいたまでです。
「ヤンガーがもし要求の丸呑みを目的にしているなら」、おそらくは自ら捕まることはしなかったのではないかなと感じました。核ではない爆弾を一つ爆発させて、核が本物であると分かるビデオを送り付け、そこで要求する。これが一番効果的で安全ではないかな、と思います。爆発で犠牲者が出ている以上、(結論は別として)真剣に聞かないことはないと思うのですが、どうでしょうか?
仰る通り、家族が捕まっても止む無し、とはヤンガーも考えていたと思います。
ヤンガーのもう一つの誤算は、Hの存在でしょう。目の前で平気で子供を拷問してしまいそうなHは、ヤンガーが耐えられる許容範囲を超えており、ここまでする人物がいたことがヤンガーの不運だったように思います。
「核の犠牲を考えると、これはもはや戦争だ」仰る通りではないかと思います。もはや外交の問題として捉えなければいけないのではないか、ということですよね。ただ、国単位では事前や事後の交渉などできますが、相手が無数のテロリストだと交渉というものがそもそも存在していない、という気もするのですがいかがでしょうか?
また、テロリストが核を持ち出し政治要求するのは、国が戦争するよりもはるかに簡単であることも問題だと思います。比べればあまりにもハードルが低すぎるわけですよね。国の戦争はおいそれとできませんが、テロ行為はそれに比べればはるかに簡単にできてしまうわけですよね。
「要求を呑むのも選択肢の一つではないか」
そう仰るお気持ちも分かります。あまりに犠牲が大きすぎますよね。
ただ、もはや戦争状態で、多くの命が失われる危険性が目前に迫っているなら、答えは一つしかないような気がします。劇中でいえばHがやろうとしたように、子供を拷問にかけてでもヤンガーに4つ目の核の場所を吐かせること・・・。非常に残酷ですが、これしかないように思います。
もしくは要求を呑むふりをしてヤンガーを騙し核の解除後に殺す、ことくらいでしょうか。どちらにしても非人道的ですが、きれいごとでは済まない状況だと思います。
選択肢そのものがないのではないのかなと考えるわけです。
仰る通り、日本政府の件のお話はその2つの事件についてです。これは「事件そのものへの対応」と「今後の影響」を分けて考えるべきだと思います。
要求された内容と人質の命を天秤にかけ、「超法規的」に要求を呑んだのだと考えます。「事件そのものへの対応」としては間違っていないと確かに思います。しかし、「今後への影響」を考えると間違いだったのかなと思います。
これは実際にそのあとテロが頻発しなかったとか、犯人が捕まったとかではなく、それはあくまで幸運(+努力)であり、「判断自体」は基本的には今後に悪影響のある間違ったものだったと考えます。
拙い意見&文章で申し訳ありませんが、私個人の一意見で、クマネズミさんのブログにお邪魔させていただきました。確かなことは、これだけ語れる映画が本作である、ということですね(笑)
どの点につきましても、様々な角度から議論ができる「難しい問題」だと思います。
例えば、
イ)「「ヤンガーがもし要求の丸呑みを目的にしているなら」、おそらくは自ら捕まることはしなかったのではないか」という点に関しては、おっしゃるとおりかもしれませんが、また、「自ら捕まること」によって自分の要求の切実さを訴えたかったとも考えられます。
ロ)「国単位では事前や事後の交渉などできますが、相手が無数のテロリストだと交渉というものがそもそも存在していない」との点につきましても、そうとも考えられますが、アルカイーダにしてもタリバンにしてもきちんと組織を持っているようですから、一概にそうとも決めつけられないのではとも思われます。
ただ、
ハ)「もはや戦争状態で、多くの命が失われる危険性が目前に迫っている」状況でどう対処するかに関しては、クマネズミは、何度も申し上げますように、Questさんのようには考えません。すなわち、まだ時間があるとして、「子供を拷問にかけ」ても、または「要求を呑むふりをしてヤンガーを騙」しても、何としても4つめの核爆弾の在処が分からないギリギリの事態になれば(ヤンガーはあくまでも口を割らないと想定されますから、それこそが「多くの命が失われる危険性が目前に迫っている」状況でしょう!)、ヤンガーの要求を呑むことは有力な選択肢になると考えます(なお、ヤンガーを「核の解除後に殺」しても、Hらによる単なる憂さ晴らしになるだけでしょう)。
そういう立場から、
ニ)1975年及び1977年における日本政府の対応について、クマネズミは、「「今後への影響」を考える」点から見ても、国の選択肢として考えられないものは何もないという姿勢を実際に示したことで、一定の意味を持っているのではないかと考えています。
とないえ、ここら辺りまでくると価値観を巡る話になってしまい平行線になりかねないので、もうやめようと思いますが、おっしゃるように、「これだけ語れる映画が本作である」ことは間違いありません。