
フランス映画の『彼は秘密の女ともだち』を新宿武蔵野館で見ました。
(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に出かけてきました。
本作(注1)の冒頭では、口紅を塗ったりまつげを整えたりと、女性の顔を化粧していく様子が映し出されます。そして、指輪を指にはめて、結婚行進曲が流れます。
最後に、人の手によってまぶたが閉じられ、棺桶に横たわる女性の姿が映し出され、蓋が閉められてタイトルクレジットが流れます。
場面は変わって、主人公のクレール(アナイス・ドゥムースティエ)が7歳の時。
学校のクラスで、転校生のローラが紹介されます。
二人は直ちに友達となって、一緒にブランコで遊んだり、森の中を歩いたりし、ついには、ナイフで手に傷をつけて“永遠の二人”の誓いをします。
大きくなって、ローラ(イジルド・ル・ベスコ)がダヴィッド(ロマン・デュリス)と結婚し、しばらくしてクレールもジル(ラファエル・ペルソナ)と結婚します。
ですが、ローラは、生まれて間もない娘・リュシーを残して病死してしまいます。
冒頭の場面は、そのクレールの大親友のローラの葬儀。
葬儀でクレールは、ローラの夫と娘を一生見守っていくと誓います。

ですが、葬儀の後クレールは、哀しみの余りリュシーの世話をする気になれませんでした。
そんな時、夫のジルが、「ダヴィドの様子を見てきたら」と言うものですから、クレールは、ジョギンしがてら、近くにあるダヴィッドの家を覗いてみると、………?
本作は、主人公の親友が幼子を残して若死にしてしまい、その親友の夫が、女装して子どもを育てているという状況から物語が動き始めます。主人公は、親友に、子どもと彼女の夫のことは見守ると約束していたので、足繁くその家に出入りすることになり、その結果、…という展開です。状況設定が面白く、主人公の夫や親友の夫を演じる俳優は、これまでの映画でよく見かけていることもあり、まずまずの仕上がりの作品ではないかと思いました。
(2)本作に出演しているロマン・デュリスについては、これまで『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』や『ムード・インディゴ うたかたの日々』、『タイピスト!』、『メッセージ そして、愛が残る』、『Parisパリ』を見ましたが、それらの作品の中で、小説家、資産家、保険会社の社長、弁護士、元ダンサーといった様々の役柄を演じてきているところ、本作では女装する夫を演じるというので興味がありました。
本作において、ロマン・デュリスが演じる夫・ダヴィッドは、クレールに、「結婚する前に、ローラには打ち明けていた。ただ、ローラが、人前では止めてねと言ったので、女装では外出していない。それに、ローラがいた頃は、そうした欲求は感じなかった。でも、彼女の死で、また始まってしまった。それに、僕だけだとリュシーが泣き止まないが、ローラの服を着て口紅を塗ると、彼女が喜ぶんだ」と説明します。

ダヴィッドの女装は、単なる女装趣味というのではなく、ちゃんとした理由があるというわけです(注2)。
そればかりか、ダヴィッドが、小学校以来の大親友であるローラの服を着たり化粧道具を使ったりするのです。
次第にクレールは、こうした状況にのめり込んでいくようになります(注3)。
本作で描かれている事態は、ある意味で、先に見た『あの日のように抱きしめて』と類似するような感じも受けたところです。
クレールは、親友ローラの衣装を身にまとったダヴィッドを別人のヴィルジニアとして受け入れるわけですが、実際には中身がダヴィッドであることは知っているのです。それと同じように、『あの日のように抱きしめて』のジョニーは、エスターという名で現れた女性が、直観的には妻のネリーだとわかるものの、妻は強制収容所で死んだはずという先入観からそのことを理性的に認識出来ず、あくまでも別人だとして対応します。
『あの日のように抱きしめて』では、結局、ネリーはジョニーの元を離れていきますが、本作のクレールとヴィルジニアは、7年後のラストの場面で、リュシューを学校に迎えに行き(注4)、さらに公園らしきところを3人で手をつないで楽しそうに歩いているのです(注5)。
それでは、あのクレールの夫、『黒いスーツを着た男』で主役に扮し、アラン・ドロンの再来かと騒がれたラファエル・ペルソナが演じていたジルは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?

(3)渡まち子氏は、「オゾンはいつもマイノリティに対して優しいまなざしを向けているが、現代社会はジェンダーも家族の血縁も、境界線は限りなくあいまいになっているようだ。深刻ぶらず、ちょっとコミカルに、かなりおしゃれに。これがオゾン流」として65点をつけています。
日経新聞の古賀重樹氏は、「ゲイであることを公言するオゾンだが、これは同性愛の映画ではない。世に流されず、自分の心の声に耳を澄ます。多様な他者を理解し、正直に誠実に生きる。それはオゾンの映画に一貫するメッセージだ。ドゥムースティエとデュリスの繊細な演技が素晴らしい」として★4つ(見逃せない)をつけています。
(注1)監督・脚本は、『危険なプロット』(2013年)や『しあわせの雨傘』(2011年)のフランソワ・オゾン。
原題は、「Une nouvelle amie」(英題は「The New Girlfriend」)。
ちなみに、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「ルース・レンデルの短編「女ともだち」を基にしたんだ。……ある主人公の女性が、隠れ異性装者である親友の夫に興味を持ち「女ともだち」になるのだが、彼から愛を告白され愛し合おうとした時、彼女はふと我に返り、彼を殺してしまう、という物語だ」と述べています。
(注2)ただ、こうしたダヴィッドの説明に対して、クレールは、「リュシーのためというよりも自分のためだわ。変態だわ」と批判しますが。
(注3)幼い頃、樹の幹にハートのマークを刻み込み、更にその中にローラとクレーの名前をも書き入れたり、お互いの髪をとかしっこしたりと、二人の間には同性愛的な雰囲気があったのではないでしょうか。
(注4)ローラとクレールが出会った時と同じ年齢だと思われますから、リュシーも学校で格好の女ともだちを見つけることでしょう!
(注5)おまけに、クレールのお腹はどうやら子どもを身ごもっているようです。
劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、クレールに扮したアナイス・ドゥムースティエは、「クレールが妊娠しているのはジルの子なのだろうか、ヴィルジニアの子なんだろうか、と少々あやふやですが、私自身の解釈としては、ヴィルジニアの子を身ごもっている、と思っています」と述べています。
この時は、メインの物語から7年も経過していますから、状況的には、彼女が言うとおりではないかと思います。でも、映画の中で、ヴィルジニアの格好をしているダヴィッドからベッドで迫られると、クレールは、「あなたは男よ」と言って強く拒みました。それはそうするのではないかと思います。何しろ、クレールは、ローラの格好をしたダヴィッド=ヴィルジニアを受け入れたのであって、男としてのダヴィッドを受け入れたわけではないのでしょうから。
そうだとすると、クレールのお腹の子は?
ひとつ考えられるのは、この7年の間にクレールの方も変化し、ダヴィッドを受け入れられるようになったとする展開です(この場合には、クレールは、ジルと随分前に離婚していることになるでしょう)。
もう一つ思いつくのは、クレールは、日中はヴィルジニアと付き合うにしても、ジルが帰宅する夕方からはジルの妻として振舞っているのではないか、という状況です。要するに、クレールとジルの家に、クレールの女友だちであるヴィルジニアとリュシーが同居しているのかもしれません。
★★★☆☆☆
(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に出かけてきました。
本作(注1)の冒頭では、口紅を塗ったりまつげを整えたりと、女性の顔を化粧していく様子が映し出されます。そして、指輪を指にはめて、結婚行進曲が流れます。
最後に、人の手によってまぶたが閉じられ、棺桶に横たわる女性の姿が映し出され、蓋が閉められてタイトルクレジットが流れます。
場面は変わって、主人公のクレール(アナイス・ドゥムースティエ)が7歳の時。
学校のクラスで、転校生のローラが紹介されます。
二人は直ちに友達となって、一緒にブランコで遊んだり、森の中を歩いたりし、ついには、ナイフで手に傷をつけて“永遠の二人”の誓いをします。
大きくなって、ローラ(イジルド・ル・ベスコ)がダヴィッド(ロマン・デュリス)と結婚し、しばらくしてクレールもジル(ラファエル・ペルソナ)と結婚します。
ですが、ローラは、生まれて間もない娘・リュシーを残して病死してしまいます。
冒頭の場面は、そのクレールの大親友のローラの葬儀。
葬儀でクレールは、ローラの夫と娘を一生見守っていくと誓います。

ですが、葬儀の後クレールは、哀しみの余りリュシーの世話をする気になれませんでした。
そんな時、夫のジルが、「ダヴィドの様子を見てきたら」と言うものですから、クレールは、ジョギンしがてら、近くにあるダヴィッドの家を覗いてみると、………?
本作は、主人公の親友が幼子を残して若死にしてしまい、その親友の夫が、女装して子どもを育てているという状況から物語が動き始めます。主人公は、親友に、子どもと彼女の夫のことは見守ると約束していたので、足繁くその家に出入りすることになり、その結果、…という展開です。状況設定が面白く、主人公の夫や親友の夫を演じる俳優は、これまでの映画でよく見かけていることもあり、まずまずの仕上がりの作品ではないかと思いました。
(2)本作に出演しているロマン・デュリスについては、これまで『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』や『ムード・インディゴ うたかたの日々』、『タイピスト!』、『メッセージ そして、愛が残る』、『Parisパリ』を見ましたが、それらの作品の中で、小説家、資産家、保険会社の社長、弁護士、元ダンサーといった様々の役柄を演じてきているところ、本作では女装する夫を演じるというので興味がありました。
本作において、ロマン・デュリスが演じる夫・ダヴィッドは、クレールに、「結婚する前に、ローラには打ち明けていた。ただ、ローラが、人前では止めてねと言ったので、女装では外出していない。それに、ローラがいた頃は、そうした欲求は感じなかった。でも、彼女の死で、また始まってしまった。それに、僕だけだとリュシーが泣き止まないが、ローラの服を着て口紅を塗ると、彼女が喜ぶんだ」と説明します。

ダヴィッドの女装は、単なる女装趣味というのではなく、ちゃんとした理由があるというわけです(注2)。
そればかりか、ダヴィッドが、小学校以来の大親友であるローラの服を着たり化粧道具を使ったりするのです。
次第にクレールは、こうした状況にのめり込んでいくようになります(注3)。
本作で描かれている事態は、ある意味で、先に見た『あの日のように抱きしめて』と類似するような感じも受けたところです。
クレールは、親友ローラの衣装を身にまとったダヴィッドを別人のヴィルジニアとして受け入れるわけですが、実際には中身がダヴィッドであることは知っているのです。それと同じように、『あの日のように抱きしめて』のジョニーは、エスターという名で現れた女性が、直観的には妻のネリーだとわかるものの、妻は強制収容所で死んだはずという先入観からそのことを理性的に認識出来ず、あくまでも別人だとして対応します。
『あの日のように抱きしめて』では、結局、ネリーはジョニーの元を離れていきますが、本作のクレールとヴィルジニアは、7年後のラストの場面で、リュシューを学校に迎えに行き(注4)、さらに公園らしきところを3人で手をつないで楽しそうに歩いているのです(注5)。
それでは、あのクレールの夫、『黒いスーツを着た男』で主役に扮し、アラン・ドロンの再来かと騒がれたラファエル・ペルソナが演じていたジルは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?

(3)渡まち子氏は、「オゾンはいつもマイノリティに対して優しいまなざしを向けているが、現代社会はジェンダーも家族の血縁も、境界線は限りなくあいまいになっているようだ。深刻ぶらず、ちょっとコミカルに、かなりおしゃれに。これがオゾン流」として65点をつけています。
日経新聞の古賀重樹氏は、「ゲイであることを公言するオゾンだが、これは同性愛の映画ではない。世に流されず、自分の心の声に耳を澄ます。多様な他者を理解し、正直に誠実に生きる。それはオゾンの映画に一貫するメッセージだ。ドゥムースティエとデュリスの繊細な演技が素晴らしい」として★4つ(見逃せない)をつけています。
(注1)監督・脚本は、『危険なプロット』(2013年)や『しあわせの雨傘』(2011年)のフランソワ・オゾン。
原題は、「Une nouvelle amie」(英題は「The New Girlfriend」)。
ちなみに、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「ルース・レンデルの短編「女ともだち」を基にしたんだ。……ある主人公の女性が、隠れ異性装者である親友の夫に興味を持ち「女ともだち」になるのだが、彼から愛を告白され愛し合おうとした時、彼女はふと我に返り、彼を殺してしまう、という物語だ」と述べています。
(注2)ただ、こうしたダヴィッドの説明に対して、クレールは、「リュシーのためというよりも自分のためだわ。変態だわ」と批判しますが。
(注3)幼い頃、樹の幹にハートのマークを刻み込み、更にその中にローラとクレーの名前をも書き入れたり、お互いの髪をとかしっこしたりと、二人の間には同性愛的な雰囲気があったのではないでしょうか。
(注4)ローラとクレールが出会った時と同じ年齢だと思われますから、リュシーも学校で格好の女ともだちを見つけることでしょう!
(注5)おまけに、クレールのお腹はどうやら子どもを身ごもっているようです。
劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、クレールに扮したアナイス・ドゥムースティエは、「クレールが妊娠しているのはジルの子なのだろうか、ヴィルジニアの子なんだろうか、と少々あやふやですが、私自身の解釈としては、ヴィルジニアの子を身ごもっている、と思っています」と述べています。
この時は、メインの物語から7年も経過していますから、状況的には、彼女が言うとおりではないかと思います。でも、映画の中で、ヴィルジニアの格好をしているダヴィッドからベッドで迫られると、クレールは、「あなたは男よ」と言って強く拒みました。それはそうするのではないかと思います。何しろ、クレールは、ローラの格好をしたダヴィッド=ヴィルジニアを受け入れたのであって、男としてのダヴィッドを受け入れたわけではないのでしょうから。
そうだとすると、クレールのお腹の子は?
ひとつ考えられるのは、この7年の間にクレールの方も変化し、ダヴィッドを受け入れられるようになったとする展開です(この場合には、クレールは、ジルと随分前に離婚していることになるでしょう)。
もう一つ思いつくのは、クレールは、日中はヴィルジニアと付き合うにしても、ジルが帰宅する夕方からはジルの妻として振舞っているのではないか、という状況です。要するに、クレールとジルの家に、クレールの女友だちであるヴィルジニアとリュシーが同居しているのかもしれません。
★★★☆☆☆
わたしは単純に、画面にジルがいなかったものだから、ヴィルジニア=ダヴィッドを受け入れて、ジルとは離婚したんだろうなあと思ったのですが。
おっしゃるような解釈が真っ当なものだとクマネズミも考えます。ただ、あれだけリュシーも可愛がっていたジルをクレールが袖にする展開は、いかにもジルが可哀想だとも思え、「注5」に記したようなことを思いついたのですが、…。
私もその類だったかもしれませんが…
オゾンの目線はその先の、“自分らしく生きる”ということを、あくまでも等身大に描くのが、とても気に入りました。
フランスらしい鋭敏な感覚も感じます。
いろんな人と語りたくなる映画ですね。
「性同一性障害」という医学的なものと、本作のダヴィッドのような女装趣味とが簡単に結び付けられるものなのかどうかよくわかりませんが、そんな点を含めて、おっしゃるように、様々な議論を招く映画だなと思いました。
おっしゃるように、お国柄によって座りの良い解決策が違ってくるように思います。