『毛皮のヴィーナス』を渋谷ル・シネマで見ました。
(1)最近では『おとなのけんか』が面白かったロマン・ポランスキーの監督作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、雷雨の中、人が歩いておらず街灯だけが点いているパリ市内の街路が映し出されます。
次いでカメラは、街路に面した小劇場に次第に接近し、そのドアから劇場の中に。
そこでは丁度、ザッヘル=マゾッホ原作の『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳)を脚色した演出家トマ(マチュー・アマルリック)が、主役ワンダのオーディションを終えて劇場を引き上げようとしています。
トマは、「35人もの女優に会ったにもかかわらずろくな者がいない」と携帯電話で嘆きます。
そんなところに、30分遅れでもう一人の女優ワンダ(戯曲の主役と同じ名前:エマニュエル・セニエ)が「遅すぎた?」と出現。
演出家は、「審査員は皆帰って、オーディションはもう終わった」と断るのですが、その女優の熱心な頼みに負けて(注2)、女優ワンダが戯曲の主役のワンダとなり、演出家トマ自身がその相手役セヴェリンとなって、オーディションをすることになります。
さあ、どんな結果がもたらされるでしょうか、………?
映画では、終始、オーディションに遅刻した女優と演出家の2人だけが映し出され、また映画の舞台も、オーディション会場となった劇場の舞台だけ。頗るシンプルな作りの作品ながら、出演する二人の熱演によって画面は活気に溢れ、また『毛皮を着たヴィーナス』を脚色した戯曲を演じながらも、その間に現実の女優と演出家の生身の姿も混じって描き出され、全体として大層面白い作品に仕上がっています(注3)。
(2)本作には、興味深い点がいくつも含まれていると思います。
イ)本作で取り上げられる戯曲の原作を書いたマゾッホについては、このブログでも過去何回か取り上げたジル・ドゥルーズ(注4)が、その著『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)において大変興味深い分析をいろいろ行っているところ、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視しています(同書P.96:注5)。
本作においても、戯曲を演じている中で、「あなたを私の奴隷にする」といった内容の契約書が作成されます(注6)。
ところが、本作においては、この契約書の内容が戯曲の世界から現実の世界に拡大され、女優ワンダと演出家トマとの間で取り交わされたようにもなっていきます(注7)。
それはもしかしたら、これらの役を演じている二人の俳優を通じて、監督と女優との関係に(注8)、さらにひょっとしたら観客(この映画に翻弄されるだけの)との関係にも及ぶのかもしれません。
ただ、下記の(3)で触れる秦早穂子氏のように、戯曲の中のワンダとセヴェリンとの関係やそれを演じる女優ワンダと演出家トマとの関係を「サドとマゾ」の関係と見てしまうと、それはちょっと違うかもしれないな、とも思われます。
というのも、上記の著書でジル・ドゥルーズが言うように、「マズヒスムという領域で女性の拷問者の類型に観察が向けられる場合、それが現実には真のサディストでも外見的なサディストでもなく、全く別のものであって、主観的にマゾヒスムを確立しえぬとはいえ根本的にはマゾヒスムに属し、しかも徹頭徹尾マゾヒスト的でしかありえない一つの展望のもとで、その女が「加虐」的要素を具現化している」ように思われるからです(同書P.55)。
要すれば、戯曲の中のセヴェリン(さらにはそれを演じるトマ)はマゾヒストだとしても、セヴェリン(あるいはそれを演じるトマ)を責め立てるワンダ(戯曲の中のワンダと女優のワンダ)がサディストだとは簡単には言えないのではないでしょうか(注9)。
ロ)本作の最初の方でトマは、「オーディション申込者の中にあなたの名前が見当たらない」とワンダに言いますし、また彼女は、トマ以上にこの戯曲に通じていたり(すべての台詞を自分のものとしています)、なぜかトマの婚約者について詳しく知っていたりするのです(注10)。
元々彼女が戯曲の主役の名前と同じの上に、こんなことをも考え合わせると、ワンダはトマが創りだした幻影ではないかと思えてきます(35人ものオーディションで疲れたトマが、劇場で居眠りをしている最中に夢の中に現れた人物ではないでしょうか)。
ハ)女優のワンダは、戯曲の原作や戯曲そのものについて、あれこれ批判的な言葉を述べるのです。
例えば、オーディションを受ける前のところで、「この劇曲の原作は、SMのエロ本でしょ」(注11)と言い放つので(注12)、トマは慌てて、「そうじゃない、1870年代の話だ」と遮ります(注13)。
また、戯曲の冒頭に置かれている題辞(注14)について、ワンダは「性差別だ」と批判します。
さらには、戯曲が原作と違うところを指摘したり(注15)、戯曲の中の場面について、ワンダは、「戯曲のテーマは子供の虐待なの?」と言ったり(注16)、「ヘボ過ぎる」とまで言ったりします(注17)。
こんなところは、いくら戯曲の原作が世界文学の古典だからといって、それを金科玉条として祭り上げるわけではないという本作の制作者側の意図を表しているのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「マチュー・アマルリックは若き日のポランスキーによく似ていて、監督の分身のようだし、監督の妻のエマニュエル・セニエは肉体的な魅力だけでなく、知性のかけらもない女優と品格ある女性の二役を完璧に演じきって素晴らしい」などとして70点を付けています。
中条省平氏は、「観客はあれよあれよという間に演出の術中にはまり、現実と幻想のはざまに快く迷いこまされ、ラストで呆然とさせられるだろう」として★4つ(見逃せない)を付けています。
秦早穂子氏は、「気取ったトマの俗物性を嘲笑し、彼の優雅な婚約者との絶縁を強要する。サドとマゾの関係は女神と従僕に逆転し、痛快で最高の見せ場だ。背後に、執拗(しつよう)な監督の視線が絡まる」などと述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「濃密な時間と空間の中で語られるセリフは、劇中舞台の脚本に書かれているのか、それとも2人自身の言葉なのか。謎の女に追い詰められていく様は緊張感が張りつめ、スリリングなことこの上ない」と述べています。
(注1)監督・共同脚本は、ロマン・ポランスキー。
彼の監督作品は、最近では、『ゴーストライター』と『おとなのけんか』を見ています。
(注2)ワンダは、「劇の主役と同じ名前」と言ってトマの気を引き、トマが「自分が脚色した」と言うと、「この作品は最高、セクシーで官能的」と答えて持ち上げます。
さらにトマが、「相手役が帰ってしまった」と言うと、ワンダは「あんたがやって」と答え、加えてトマが「君はタイプが違う」とか「年齢も違う」と言うと、ワンダは「着るものも30ユーロで買ってきたのに」と答えて、「最低だよ!一日を無駄にしてしまった」と泣いてしまいます。
そこで仕方なく、トマはワンダに付き合うことになります。
(注3)最近では、本作に出演したエマニュエル・セニエは、『危険なプロット』や『エッセンシャル・キリング』で、マチュー・アマルリックは、『グランド・ブダペスト・ホテル』や『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』で見ています。
(注4)この拙エントリの「注7」を参照してください。
(注5)「マゾッホの現実体験においてもその小説中にあっても、マゾッホという特殊ケースにあってもマゾヒスム一般の構造においても、恋愛関係の理想的形態として、またそれに必須の条件として、契約なるものが姿を見せている」。
「マゾヒストが鉄の鎖につながれ紐で縛られているのは、外面的なものにすぎない。彼は自分の言葉によって束縛されているだけなのである」。
「マゾヒストの契約は、犠牲者となるものの同意の必要性ばかりではなく、説得の資質、教育的かつ法律学的な努力をも表現するものである」。
「マゾヒストの精神のうちには、契約がない限り、―あるいは準契約がない限り、マゾヒスムは存在しないのだという事実を確認しておく必要がある」。
(以上は『マゾッホとサド』P.96~97)
(注6)本作で映し出される戯曲では、随分と簡単に契約書が作成されてしまい、上記「注5」の引用中で指摘されている「説得の資質、教育的かつ法律学的な努力」という側面があまり伺われない感じはしますが〔「(女の拷問者の)「性質」を、マゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれの企てに従って説得しなければなら」ない(『マゾッホとサド』P.52)〕。
なお、原作における契約書は、文庫版のP.138~P.139に記載されています。
(注7)女優ワンダはトマに対して、自分が付けていた犬の首輪を付けたり、自分の足にブーツを履かせたり、婚約者に「今夜は帰らない」と電話させたり、トマに「ワンダになるべき」と言い、口紅をつけたりハイヒールを履かせたり、殴ったりするのです。これに対して、トマも、「ありがとう」と言ったり、「私を卑しめて、辱めて」と答えたりします。
(注8)劇場用パンフレット掲載のレビュー『ワンダ、あなたは何者?』において映画評論家の渡辺祥子氏は、「マゾッホの小説が原点、とわかっているけれど、ポランスキーが描いたワンダはエマニュエル・セニエ。もう彼女からは逃れられない、と彼はエマニュエルの前にひれ伏す」と述べています。
劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、ポランスキーが「初めて彼(マチュー・アマルリック)と出会った時、彼は自分が私(ポランスキー)に似ているとしょっちゅう言っていた」と述べているように、トマ役のマチュー・アマルリックの容姿がポランスキーとよく似ており、エマニュエル・セニエはポランスキーの妻なのです。
(注9)ジル・ドゥルーズは、本文で触れた著書『マゾッホとサド』の最後に11もの命題を掲げて、サディスムとマゾヒスムの違いを明確にしていますが、その中には「一方の「制度」的な意味、他方の「契約」的な意味」という命題が含まれています(同書P.163)。本文の「(2)イ)」で述べたように、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視している一方で、「(サドは、)契約への敵対の姿勢、契約を想起させるいっさいのもの、およそ契約をめぐる観念なり理論なりへの敵対の姿勢が途方もなく強い」と述べています(同書P.98)。
(注10)ワンダはトマに、「あなたの婚約者とはジムで会い、着替えながら話した。その際、彼女から、結婚前の事前調査として、あなたのことを調べてくれと頼まれた。オーディションが終わったら、ホテルで彼女と会うことになっている」と言うのですが。
(注11)「SM」という点については、上記「注9」を参照してください。
(注12)本作の終わりの方でも、「この芝居は最低のポルノ」とワンダは言います。
(注13)戯曲の原作は、1871年に出版。
(注14)原作の最初のページに記載されているもの〔「神、彼に罰を下して 一人の女の手に与え給う」(ユディトの書 16章7)〕(文庫版P.7)。
あるいは、原作における語り手がセヴェリンから受け取った原稿「ある超官能者の告白」の余白に書かれていたメフィストフェレスの言葉「官能を超越した官能的な自由人よ、一人の女がお前の鼻先を引き回す!」でしょうか(文庫版P.20)?
(注15)原作の冒頭において、物語の書き手が見た夢の話をセヴェリンにするのですが、その夢の中には毛皮を着たヴィーナスが登場するのです。ヴィーナスが何度もくしゃみをするところからも、女優ワンダが言うように、ヴィーナスは全裸の上に毛皮を着ているのでしょう。そのところを、トマの戯曲では原作通りにしていなかったようです。
(注16)少年の頃伯母に鞭で叩かれたことをセヴェリンがワンダに語る場面について。
なおトマは、「この戯曲で体罰の問題を描きたいわけじゃない!」と言い返しますが。
(注17)ギリシア将校が劇場でワンダを誘惑する場面について。
なおトマは、「これは僕の戯曲だ、誰にもいじらせない」と、からくも反撃するのですが。
★★★★☆☆
象のロケット:毛皮のヴィーナス
(1)最近では『おとなのけんか』が面白かったロマン・ポランスキーの監督作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、雷雨の中、人が歩いておらず街灯だけが点いているパリ市内の街路が映し出されます。
次いでカメラは、街路に面した小劇場に次第に接近し、そのドアから劇場の中に。
そこでは丁度、ザッヘル=マゾッホ原作の『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳)を脚色した演出家トマ(マチュー・アマルリック)が、主役ワンダのオーディションを終えて劇場を引き上げようとしています。
トマは、「35人もの女優に会ったにもかかわらずろくな者がいない」と携帯電話で嘆きます。
そんなところに、30分遅れでもう一人の女優ワンダ(戯曲の主役と同じ名前:エマニュエル・セニエ)が「遅すぎた?」と出現。
演出家は、「審査員は皆帰って、オーディションはもう終わった」と断るのですが、その女優の熱心な頼みに負けて(注2)、女優ワンダが戯曲の主役のワンダとなり、演出家トマ自身がその相手役セヴェリンとなって、オーディションをすることになります。
さあ、どんな結果がもたらされるでしょうか、………?
映画では、終始、オーディションに遅刻した女優と演出家の2人だけが映し出され、また映画の舞台も、オーディション会場となった劇場の舞台だけ。頗るシンプルな作りの作品ながら、出演する二人の熱演によって画面は活気に溢れ、また『毛皮を着たヴィーナス』を脚色した戯曲を演じながらも、その間に現実の女優と演出家の生身の姿も混じって描き出され、全体として大層面白い作品に仕上がっています(注3)。
(2)本作には、興味深い点がいくつも含まれていると思います。
イ)本作で取り上げられる戯曲の原作を書いたマゾッホについては、このブログでも過去何回か取り上げたジル・ドゥルーズ(注4)が、その著『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)において大変興味深い分析をいろいろ行っているところ、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視しています(同書P.96:注5)。
本作においても、戯曲を演じている中で、「あなたを私の奴隷にする」といった内容の契約書が作成されます(注6)。
ところが、本作においては、この契約書の内容が戯曲の世界から現実の世界に拡大され、女優ワンダと演出家トマとの間で取り交わされたようにもなっていきます(注7)。
それはもしかしたら、これらの役を演じている二人の俳優を通じて、監督と女優との関係に(注8)、さらにひょっとしたら観客(この映画に翻弄されるだけの)との関係にも及ぶのかもしれません。
ただ、下記の(3)で触れる秦早穂子氏のように、戯曲の中のワンダとセヴェリンとの関係やそれを演じる女優ワンダと演出家トマとの関係を「サドとマゾ」の関係と見てしまうと、それはちょっと違うかもしれないな、とも思われます。
というのも、上記の著書でジル・ドゥルーズが言うように、「マズヒスムという領域で女性の拷問者の類型に観察が向けられる場合、それが現実には真のサディストでも外見的なサディストでもなく、全く別のものであって、主観的にマゾヒスムを確立しえぬとはいえ根本的にはマゾヒスムに属し、しかも徹頭徹尾マゾヒスト的でしかありえない一つの展望のもとで、その女が「加虐」的要素を具現化している」ように思われるからです(同書P.55)。
要すれば、戯曲の中のセヴェリン(さらにはそれを演じるトマ)はマゾヒストだとしても、セヴェリン(あるいはそれを演じるトマ)を責め立てるワンダ(戯曲の中のワンダと女優のワンダ)がサディストだとは簡単には言えないのではないでしょうか(注9)。
ロ)本作の最初の方でトマは、「オーディション申込者の中にあなたの名前が見当たらない」とワンダに言いますし、また彼女は、トマ以上にこの戯曲に通じていたり(すべての台詞を自分のものとしています)、なぜかトマの婚約者について詳しく知っていたりするのです(注10)。
元々彼女が戯曲の主役の名前と同じの上に、こんなことをも考え合わせると、ワンダはトマが創りだした幻影ではないかと思えてきます(35人ものオーディションで疲れたトマが、劇場で居眠りをしている最中に夢の中に現れた人物ではないでしょうか)。
ハ)女優のワンダは、戯曲の原作や戯曲そのものについて、あれこれ批判的な言葉を述べるのです。
例えば、オーディションを受ける前のところで、「この劇曲の原作は、SMのエロ本でしょ」(注11)と言い放つので(注12)、トマは慌てて、「そうじゃない、1870年代の話だ」と遮ります(注13)。
また、戯曲の冒頭に置かれている題辞(注14)について、ワンダは「性差別だ」と批判します。
さらには、戯曲が原作と違うところを指摘したり(注15)、戯曲の中の場面について、ワンダは、「戯曲のテーマは子供の虐待なの?」と言ったり(注16)、「ヘボ過ぎる」とまで言ったりします(注17)。
こんなところは、いくら戯曲の原作が世界文学の古典だからといって、それを金科玉条として祭り上げるわけではないという本作の制作者側の意図を表しているのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「マチュー・アマルリックは若き日のポランスキーによく似ていて、監督の分身のようだし、監督の妻のエマニュエル・セニエは肉体的な魅力だけでなく、知性のかけらもない女優と品格ある女性の二役を完璧に演じきって素晴らしい」などとして70点を付けています。
中条省平氏は、「観客はあれよあれよという間に演出の術中にはまり、現実と幻想のはざまに快く迷いこまされ、ラストで呆然とさせられるだろう」として★4つ(見逃せない)を付けています。
秦早穂子氏は、「気取ったトマの俗物性を嘲笑し、彼の優雅な婚約者との絶縁を強要する。サドとマゾの関係は女神と従僕に逆転し、痛快で最高の見せ場だ。背後に、執拗(しつよう)な監督の視線が絡まる」などと述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「濃密な時間と空間の中で語られるセリフは、劇中舞台の脚本に書かれているのか、それとも2人自身の言葉なのか。謎の女に追い詰められていく様は緊張感が張りつめ、スリリングなことこの上ない」と述べています。
(注1)監督・共同脚本は、ロマン・ポランスキー。
彼の監督作品は、最近では、『ゴーストライター』と『おとなのけんか』を見ています。
(注2)ワンダは、「劇の主役と同じ名前」と言ってトマの気を引き、トマが「自分が脚色した」と言うと、「この作品は最高、セクシーで官能的」と答えて持ち上げます。
さらにトマが、「相手役が帰ってしまった」と言うと、ワンダは「あんたがやって」と答え、加えてトマが「君はタイプが違う」とか「年齢も違う」と言うと、ワンダは「着るものも30ユーロで買ってきたのに」と答えて、「最低だよ!一日を無駄にしてしまった」と泣いてしまいます。
そこで仕方なく、トマはワンダに付き合うことになります。
(注3)最近では、本作に出演したエマニュエル・セニエは、『危険なプロット』や『エッセンシャル・キリング』で、マチュー・アマルリックは、『グランド・ブダペスト・ホテル』や『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』で見ています。
(注4)この拙エントリの「注7」を参照してください。
(注5)「マゾッホの現実体験においてもその小説中にあっても、マゾッホという特殊ケースにあってもマゾヒスム一般の構造においても、恋愛関係の理想的形態として、またそれに必須の条件として、契約なるものが姿を見せている」。
「マゾヒストが鉄の鎖につながれ紐で縛られているのは、外面的なものにすぎない。彼は自分の言葉によって束縛されているだけなのである」。
「マゾヒストの契約は、犠牲者となるものの同意の必要性ばかりではなく、説得の資質、教育的かつ法律学的な努力をも表現するものである」。
「マゾヒストの精神のうちには、契約がない限り、―あるいは準契約がない限り、マゾヒスムは存在しないのだという事実を確認しておく必要がある」。
(以上は『マゾッホとサド』P.96~97)
(注6)本作で映し出される戯曲では、随分と簡単に契約書が作成されてしまい、上記「注5」の引用中で指摘されている「説得の資質、教育的かつ法律学的な努力」という側面があまり伺われない感じはしますが〔「(女の拷問者の)「性質」を、マゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれの企てに従って説得しなければなら」ない(『マゾッホとサド』P.52)〕。
なお、原作における契約書は、文庫版のP.138~P.139に記載されています。
(注7)女優ワンダはトマに対して、自分が付けていた犬の首輪を付けたり、自分の足にブーツを履かせたり、婚約者に「今夜は帰らない」と電話させたり、トマに「ワンダになるべき」と言い、口紅をつけたりハイヒールを履かせたり、殴ったりするのです。これに対して、トマも、「ありがとう」と言ったり、「私を卑しめて、辱めて」と答えたりします。
(注8)劇場用パンフレット掲載のレビュー『ワンダ、あなたは何者?』において映画評論家の渡辺祥子氏は、「マゾッホの小説が原点、とわかっているけれど、ポランスキーが描いたワンダはエマニュエル・セニエ。もう彼女からは逃れられない、と彼はエマニュエルの前にひれ伏す」と述べています。
劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、ポランスキーが「初めて彼(マチュー・アマルリック)と出会った時、彼は自分が私(ポランスキー)に似ているとしょっちゅう言っていた」と述べているように、トマ役のマチュー・アマルリックの容姿がポランスキーとよく似ており、エマニュエル・セニエはポランスキーの妻なのです。
(注9)ジル・ドゥルーズは、本文で触れた著書『マゾッホとサド』の最後に11もの命題を掲げて、サディスムとマゾヒスムの違いを明確にしていますが、その中には「一方の「制度」的な意味、他方の「契約」的な意味」という命題が含まれています(同書P.163)。本文の「(2)イ)」で述べたように、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視している一方で、「(サドは、)契約への敵対の姿勢、契約を想起させるいっさいのもの、およそ契約をめぐる観念なり理論なりへの敵対の姿勢が途方もなく強い」と述べています(同書P.98)。
(注10)ワンダはトマに、「あなたの婚約者とはジムで会い、着替えながら話した。その際、彼女から、結婚前の事前調査として、あなたのことを調べてくれと頼まれた。オーディションが終わったら、ホテルで彼女と会うことになっている」と言うのですが。
(注11)「SM」という点については、上記「注9」を参照してください。
(注12)本作の終わりの方でも、「この芝居は最低のポルノ」とワンダは言います。
(注13)戯曲の原作は、1871年に出版。
(注14)原作の最初のページに記載されているもの〔「神、彼に罰を下して 一人の女の手に与え給う」(ユディトの書 16章7)〕(文庫版P.7)。
あるいは、原作における語り手がセヴェリンから受け取った原稿「ある超官能者の告白」の余白に書かれていたメフィストフェレスの言葉「官能を超越した官能的な自由人よ、一人の女がお前の鼻先を引き回す!」でしょうか(文庫版P.20)?
(注15)原作の冒頭において、物語の書き手が見た夢の話をセヴェリンにするのですが、その夢の中には毛皮を着たヴィーナスが登場するのです。ヴィーナスが何度もくしゃみをするところからも、女優ワンダが言うように、ヴィーナスは全裸の上に毛皮を着ているのでしょう。そのところを、トマの戯曲では原作通りにしていなかったようです。
(注16)少年の頃伯母に鞭で叩かれたことをセヴェリンがワンダに語る場面について。
なおトマは、「この戯曲で体罰の問題を描きたいわけじゃない!」と言い返しますが。
(注17)ギリシア将校が劇場でワンダを誘惑する場面について。
なおトマは、「これは僕の戯曲だ、誰にもいじらせない」と、からくも反撃するのですが。
★★★★☆☆
象のロケット:毛皮のヴィーナス