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キラー・インサイド・ミー

2011年04月27日 | 洋画(11年)
 『キラー・インサイド・ミー』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)予告編で見て面白そうだなと思い映画館に足をはこんだのですが、まずまずよくできた映画ではないかと思いました。
 映画は、原作が書かれた1950年代を舞台としています。
 ですから、映画を見て一番目立つのは、町(西テキサスの田舎町)の通りを走る車の型が相当古いという点でしょう。まるで、クラシックカーのパレードを見ているような気分になります。
 それと、現在だったら、警察の科学捜査が進展していて、そう簡単に犯人の偽装工作が成功するはずもないところ、この映画では、実に容易に犯人は目的を達成してしまいます。

 そういった点はあるものの、映画で描き出される犯人の主人公には、興味が湧いてしまいます。なにしろ、ことさらな理由もないのに、いとも簡単に人を殺してしまうのです。
 それも、バレないように予め綿密に計画を練ったうえで冷酷にというわけではなく、また何も考えずにその場で衝動的にというほどでもなく、その中間あたりのところで次々と殺人を犯します。
 そのため、彼が保安官助手ということもあるかもしれませんが、地方検事は、誰が犯人なのかすぐに目星が付いたものの、なかなか逮捕するまでに至りません。

 少しだけ最初の方を申し上げると、主人公の保安官助手ルーケイシー・アフレック)は、調査先の娼婦ジョイスジェシカ・アルバ)といい仲になっているところ、別なところから仕入れた情報で、ジョイスと関係がある男の父親が、どうやらルーの兄(養子)の死に関係しているらしいことを突き止め、ジョイスと一緒にその男を罠にはめて殺してしまいます。
 さらに、別ルートからその事件の容疑者とされ逮捕された若者が、実はルーが真犯人であるとわかっているらしいことを突き止めると、留置場で自殺に見せかけて殺してしまいます。
 ただ、その若者にアリバイがあることまで思い至らなかったこともあって、地方検事はルーに疑いを持ち始めます。
 といった具合で、次々と人を殺していくものの、細部まで入念に検討した上でというわけでもないため、次第に追い詰められてしまいます。

 途中、ルーの幼児時代の記憶が蘇ることがあります。
 一つは、ルーが車の中で女の子に悪さをして殺してしまった時に、義理の兄が身代わりになって少年院に入ったこと。
 もう一つは、早くに妻を亡くしていた父のもとに出入りしていた家政婦が、彼と性的な関係を持ったこと(それもSM的な)。
 ただ、こうしたシーンが挿入されると、殺人鬼としての彼の行動がそれで説明されてしまうような感じを受けるものの、これは単なるエピソードとしてみるべきでしょう。
 というのも、SMの性向があるからといって、直ちに殺人につながるわけではありませんし、彼が殺す対象には、女だけでなく男も入っているのですから。

 要すれば、この映画では、一人の男が犯す様々の殺人が次々に無造作に描かれているだけで、あとそれをどのように捉えるのかは観客の方に任されている、といった具合なのです。

 多かれ少なかれ誰にでもあるに違いないとはいえ実行するには決して至らない殺人衝動を、観客になり変わって主人公がスクリーンの上で派手に実行してくれた、と見るべきなのでしょうか?
 あるいはそうではなくて、ラストシーンからすると、むしろ自己破壊を求めて、あえて殺人を犯し自己を切羽詰まった状況に追い詰めていると考えるべきなのかもしれません。
 というのも、精神病院に強制的に入院させられているルーを弁護士が解放してくれるのですが、弁護士もルーも、その後には何が待ち構えているのかをよく知っているようなのです。それどころか、もっと派手な出来事にすべく、ルーは、入念に準備をした上で待ちうけるのですから。

 もしかしたら、米国でよく起きる銃の乱射事件とか、日本の附属池田小・児童殺傷事件(2001年)や秋葉原無差別殺傷事件(2008年)などの出来事について、考えてみる一つの視点を与えてくれるのかもしれません。

 主人公のルーを演じるケイシー・アフレックは、『ザ・タウン』のベン・アフレックの弟とのことですが、非常に難しい役を、大層巧みにこなしていると思いました。外見上は殺人鬼には全然見えないものの、ジョイスなどを殴り殺す様子には凄まじいものがありますし、特にその舌足らずな話し方は不気味な感じを醸し出しています。



 また、ジョイスを演じるのは、『マチェーテ』でお馴染みのジェシカ・アルバですが、魅力的な娼婦を演じながらも、ルーに酷く殴られた顔面は見るも無残な様となり、演技の方でもこれからが期待されるでしょう。




(2)この作品は、原作(ジム・トンプスン著『おれの中の殺し屋』〔三川基好訳、扶桑社ミステリー〕)を読んでみると、面白いことに気がつきます。



イ)原作の語り手はルー自身となっていて、ラストのラストですべてが爆発してしまうところ、語り手のルーも、「うん、これで終わりだと思う」のです。
 としたら、この小説を語っているルーは、すでに死亡しているのではないでしょうか?であれば、この小説は、亡霊となったルーによって語られているというわけなのでしょうか?

 ただ、小説の最初の方では、舞台のセントラルシティのことが述べられていますが、「この町の治安はかなりうまく維持できている」(P.11)などというように現在形が使われています。
 とすると、この小説は、映画と同じように、読者が読んでいるときが「現在」であって、読み進むにつれて物語も同じように展開していく、と考えるべきなのかもしれません。
 ですが、小説の後半の方で、「でもその前に、まだひとつふたつ、あんたに話しておくべきことがあると思う」とか、「話したいんだ。だから、話す。どんなだったのかを正確に。あんたに勝手に想像してほしくないんだ」などといった箇所に出くわします(P.258)。
 こんなところを見ると、決して現在進行形というわけではなく、普通の小説のように、作者は、椅子に座り机に向かって、過去の出来事を思い出しながら原稿を書いているようでもあり、時折その作者が顔を出して、読者(「あんた」)と向き合ったりもします。
 死んでしまったはずのルーは、一体どこにいてこの物語を語っているのでしょうか(注)?

ロ)それはともかくとして、こういった設定にすれば、映画とは違って、主人公の心理的・内面的な側面、特になぜ人を殺してしまうかという点までも入り込むことができるようになります。なにしろ、殺人者が自分の犯した殺人のことを語るのですから!
 それで、ジョイスを殺したことについて、主人公は、「おれは彼女がよけいなおしゃべりをするのではないかと恐れたのではなかった。おれが恐れたのは、彼女とつきあいつづけていると自分に対するコントロールを失うのではないかということだった」と説明し出します(P.313)。
 そして、「おれが背負っている重荷のことを思い出させる人間は誰でも、〝彼女〟がおれにしたのと同じことをする人間は誰でも、殺されることになっていた」として、幼い時分に性的な関係を持った家政婦が究極的な原因だと述べるのです。
 その上で、ドイツの精神医学者クレペリンの本からの引用を踏まえて、自分は「早発性痴呆」(現代では「統合失調症」)だと自分で規定するのです(P.315)。
 ですが、こうした語り手による書き込みは、すべて余計なことなのかもしれません。仮に主人公がその病気だとしたら、その患者自身が述べていることをそのまま鵜呑みには出来ないわけですから(記載されている定義によれば、「ときには狡猾に推論を行うことができる」のです)!
 それに、小説のすべては、「統合失調症」の語り手の「妄想」の可能性も出てきてしまいます(語り手は、自分を「偏執型」と分類していますが、もしかしたら「妄想型」なのかもしれませんから)!

 映画は、そういったことは括弧に入れて、客観的な視点から(時折、主人公の語りが挿入されるものの)、次々に起こる殺人事件を描いていますから、今度は観客の方で解釈をせざるを得なくなってしまいます。ですが、それがまた映画を見る楽しみと言えるでしょう。


(注)最近見た映画『わたしを離さないで』の原作も(映画でも同様に)、当事者の一人(キャシー)が語り手となって物語が綴られていますが、現時点(キャシーが31歳の現在)に立って過去の出来事を回想するという構成をとっていますから、そこには矛盾する点は見当たらないように思われます。


(3)映画評論家は、この作品に対して総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「封印されていた暴力への激しい欲望に、答えなどない。共感できない主人公を、淡々と演じるケイシー・アフレックが不気味なほど上手い」、「ルーがあからさまな異常者ではなく、孤独や痛みを内包するごく当たり前の人間だけに、繰り返される殺人や凶行の答えを導き出すことが恐ろしくなる。何より、現代にはびこる動機なき犯罪の芽が、平和で豊かなはずの1950年代の米国の田舎町に、すでにどす黒く芽生えていたことに戦慄を覚えた」として60点を与えています。
 福本次郎氏は、驚いたことに、「退屈な暮らし、刺激に乏しい毎日。日常のわずかなヒビ割れから滲みだす暴力の衝動。それは一度噴出すると、誰も止められない欲望の塊となって男を暴走させる」、「平凡な人生に何か劇的な波乱をもたらしたい、どうせなら他人から影響を受けるのではなく自分でぶち壊したい。そんな彼の破滅願望がリアルで、思わず共感を覚えた。実際に行動に起こす勇気のない人間の胸に突き刺さる作品だった」と手放しの入れ込みようで、70点もの高得点をつけています。



★★★☆☆





象のロケット:キラー・インサイド・ミー


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