映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

恋とニュースのつくり方

2011年04月06日 | 洋画(11年)
 『恋とニュースのつくり方』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)もう見なくともいいかなと思っていたハリソン・フォードが、『小さな命が呼ぶとき』で頑固一徹な研究者の役をうまくこなしていたので、こちらではどうかなという興味もあって、映画館に出向いてみました。
 むろん本作品の主役は、TVプロデューサー・ベッキーのレイチェル・マクアダムスですが、前作以上にハリソン・フォードは、報道キャスターのマイク役として存在感を見せつけています。
 なにしろ、ベッキーが担当することになった早朝情報番組「デイブレイク」のテコ入れ策の目玉として出演することになったマイクの頑なな姿勢が、その番組の視聴率をさらに一層落とし、逆にラストではマイクのくだけた姿が、「デイブレイク」をそれこそブレイクさせてしまうのですから!
 ハリソン・フォードが、頑固一徹ぶりをみせつけるのも、また最後には柔軟な姿勢になるのも、前作と同じといえば同じなのですが、前作は研究者という枠の中の話ですから、本作のような面白さは望むべくもありませんでした。
 まあ、考古学者インディ・ジョーズも頑固者と言えるかもしれませんが、ハリソン・フォードも70歳近くなると、演技せずとも自然にそんな雰囲気になり、その彼が、ラストに至って、「デイブレイク」の中で“フリッタータ”を自分で作りながら、「自分はこれを20年来作っているよ」などと喋ったりすると、随分の可笑しみと説得力を発揮してしまうのです(注)。



 対するパートナーのキャスター・コリーンには、ダイアン・キートンが扮しています。コリーンは、最初は、新しく担当になったベッキーを認めようとしませんでしたし、もう一方のパートナーのマイクとそりが合うはずもありません。でも、ベッキーの方針に次第に従うようになってくると、ハリソン・フォードより4歳若いに過ぎないものの、ダイアン・キートンは、持ち前の明るさが前面に出てきて、ついにはヒキガエルとキスをすることまでやってのけてしまいます。



 この2人が司会を務める番組「デイブレイク」を担当するプロデューサーが主人公のベッキーというわけです。



 このまま番組視聴率が下がり続ければ、あと3ヶ月で番組は打ち切ると部長に言われ、ベッキーは一念発起します。そして思いついたのが、日本のTV番組で見られるような企画です。
 一方で、お天気キャスターをジェットコースターに乗せたり、スカイダイビングをさせたりして、その恐怖に歪む顔をド・アップで画面に映し出します。他方で、先にも触れたように、コリーンに、変わった動物の相手をさせたりするアイデアを実現させたりします。
 ただ、こうした企画物は日本のTVでもとっくの昔から取り入れられていて、いまさらの感がしないでもありません(最近では、珍獣ハンター・イモトでしょうか!)。
 それに、同じことを何回もするとすぐに視聴者に飽きられてしまいますから、視聴率アップといっても一時的なものに過ぎないと言えるのではないでしょうか?

 それはともかく、そうしたアイデアなどによって視聴率も上昇し、マイクとコリーンの仲もよい方向に向かい出し、お定まりのハッピー・エンドです。
 元気の良さが売り物のレイチェル・マクアダムス(『シャーロック・ホームズ』でもホームズを翻弄する役をうまくこなしていました)に対するに、渋いハリソン・フォードを持ってきて、その中間あたりにダイアン・キートンを置くといった構図でしょうが、まずまずうまくいっているのでは、と思いました。

 なお、ダイアン・キートンについては、『恋愛適齢期』(2003年)はマズマズと思いましたが、『恋とスフレと娘とわたし』(2007年)は、モウこういう映画でハシャグのは止めた方が良いのではという感じがしていたところ、今回のように、一歩下がったところで存在感を滲み出すやり方もあるのだな、と見直したところです。


(注)NTVを退社してフリーとなって、今週からテレビ東京の朝の情報番組に登場した羽鳥慎一氏(39歳)は、本作品におけるハリソン・フォードとは正反対の感じがするキャスターと思われます。


(2)本作品ではプロデューサーが中心的に取り上げられています。プロデューサーを扱った映画といえば、最近では『トラブル・イン・ハリウッド』でしょうが、これは映画プロデューサーに関するものであり、TVプロデューサーを扱っている作品としたら、むしろ『恋愛戯曲』になるかもしれません。
 としても、『恋愛戯曲』は、様々な工夫を凝らした戯曲を映画化した作品ですから、本作品との関連性を追求しても成果は期待できそうにありません。
 となると、ダイアン・キートンが演じた女性キャスターの関連ということで、ジェーン・フォンダが地方テレビ局の女性キャスターを演じた 『チャイナ・シンドローム』(1979年)が、時節がら、思い浮かぶところです。
 というのも、ジャック・レモン扮する技師が、原子炉に重大欠陥があることを世論に訴えようとして、発電所内に立て籠もるという話なのですから!結局、この技師は殺されてしまいますが、このことを徹底的に調べた女性キャスター(ジェーン・フォンダ)が、真相をニュースで発表することになります。
 ちなみに、この作品は、池田信夫氏のブログ記事の中でも取り上げられています。

(3)渡まち子氏は、「類型的ではあるが、あくまでも自分が手掛ける番組を愛する仕事人間としての彼女(主人公ベッキー)をカラリと描いた結末は、ヘタに説教めいたところがない分、すがすがしい。もっともトントン拍子に物事が運ぶところは、シビアなTV業界のおとぎ話に過ぎないが。しかしハリソン・フォードはずいぶん老けた。苦虫を噛み潰したような、気難しい役がお似合いなのだが、大スターの彼はカメオ出演程度におさえて、恋人アダムとのパートをふくらませるなり、ベッキーが悩みを相談できる友人を登場させるなどすれば、より親近感を持てるドラマになっただろう」として55点をつけています。




★★★☆☆





象のロケット:恋とニュースのつくり方

ゴダール・ソシアリスム

2011年04月03日 | 洋画(11年)
 『ゴダール・ソシアリスム』を吉祥寺バウスシアターで見てきました。

(1)映画館に出かけるまで
 同映画館では、「ゴダール・ソシアリスム上映記念」として「特集:ジャン=リュック・ゴダール」と銘打ち、3月5日~18日に全部で7本のゴダール作品を上映することとしていました(1本は短編)。クマネズミは、大昔、今回上映された『勝手にしやがれ』(1960年)と『気狂いピエロ』(1965年)を見て大層面白いと思ったものの、その後の難解とされる作品は、敬して遠ざけ見てはおりません。
 でも近くの映画館で「特集」されるのですから、この機会を逃す手はありません。小手調べに映画『右側に気をつけろ』(1987年)を見て大体の雰囲気を掴んだところで、最新作の『ゴダール・ソシアリスム』(2010年)に挑んでみようと考えました。

 ですが、その計画は前半だけで破綻してしまいました。それも、『右側に気をつけろ』の余りの難解さに辟易して挫折(実際はそのとおりです!)しただけであればまだしも、『ゴダール・ソシアリスム』上映日直前になり、3月11日の東日本大震災によって映画館が全館閉鎖となってしまいました。
 これでは手の打ちようがありません。

 としたところ、なんと19日より営業再開され、この「特集」も1週間遅れで上映されるとの告知が、映画館のHPに掲載されました。
 内心は大震災のせいで見たいものを見ることができなかった、残念至極などと言い訳しようかなと思っていたところ、逆にこうなると最新作を見ないわけにはいかない気になってしまいます。
 という次第でバウスシアターに行ってきました。

(2)“ゴダール鑑賞3原則”
 この「特集」を知ってから、「かろブッチ」さんが作成されているブログ「かろうじてインターネット」に本作品を取り上げている記事があることがわかり、ちらっとのぞいてみました(「かろブッチ」さんのブログの記事はどれも、映画を理論的な視点から実に鋭く分析されていて、いつも大変勉強になっています)。
 そしたら、同記事には、「鑑賞する際に、あまり意識しすぎて頭こんがらがってしまわないように、以下の3つを心がけ」、「出来るだけ気楽に楽しく本作を鑑賞し」た、として次の項目が記載されているではありませんか!
「(イ)ゴダール監督作品という肩書きにビビらない
 (ロ)考えずに見る
 (ハ)眠ければ寝る。」

(3)『右側に気をつけろ』
 それくらい簡単なことならクマネズミにもできそうだと思い、まず『右側に気をつけろ』で実践してみようと思い立ちました。
 なにより「かろブッチ」さんは、「『右側に気をつけろ』が持っていたようなキャッチーな魅力」とおっしゃっているのですから、きっと何とかなるのではと思ったところです。

 ですが、惨敗でした。
 だって、ゴダール自身が映画に登場し、ドストエフスキーの『白痴』を読みながら、まるでムイシュキン侯爵であるかのように振る舞うのですが、「夕方までに映画を作って、首都に持ってくれば、昔の罪は赦される」といった電話がかかってきて、彼がフィルムの入った缶を手にして飛行機に乗ったりするものですから、これはなんだか面白そうだなと思ったのも束の間。引き続いて、わけのわからない男女がレコーディングしているシーンが長々と入り込みます。また、誰だか分からない人物が登場し、なんだか誰かの戯曲からの引用のようなセリフを話し、そして……、と進むうちに猛烈に眠気に襲われてしまいました。

 「かろブッチ」さんは、上記“ゴダール鑑賞3原則”の(ロ)に関して、「一つ一つのショットに対する思考は早々に諦めて、無数のショットと音の流れから感じるものを掴めれば」いいとおっしゃっていますが、そうする間も有らばこそ、(ハ)に突入してしまったという具合(注1)。
 さらに(ハ)に関して、「かろブッチ」さんは、「眠いときに寝るのも一つの鑑賞方法」と実に優雅に構えていらっしゃるところ、実際に眠ってしまうと、ブログの記事どころではなくなってしまいます(“ゴダール分からない派”に組みしようにも、眠ってしまえば、分からないのは何なのかが把握できないのですから!)!

(4)“ゴダール鑑賞3原則”への追加
 こんな体たらくを演じてしまったのは、おそらく“ゴダール鑑賞3原則”の(イ)の意味合いを取り違えてしまったせいでしょう。そういう原則ならば、見る前に当該作品に関する一切の情報を遮断して、白紙でもって臨むべきではないか、と考えてしまったのです。
 でもそんなことをしたら、何が何だか訳が分からなくなってしまうのは、火を見るよりも明らかなことでした!

 そこで、本命の『ゴダール・ソシアリスム』を見るに当たっては、“ゴダール鑑賞3原則”にもう一つ加えてみることにしました。
 すなわち、「(ニ)事前に知ることのできる情報は、なるべく収集の上、目を通しておく」。

 幸いなことに、本作品に関しては、バウスシアターの窓口で、劇場用パンフレットをかなり前もって購入することができました。それも、在り来たりのものと違い、実に盛りだくさんな内容なのです。例えば、ストーリーの概要(「かろブッチ」さんがブログに掲載されている「"allcinema online"より抜粋」よりズッと詳しいもの)のみならず、「シナリオ採録」とか「ゴダール/インタビュー」なども含まれています。

(5)「シナリオ採録」
 特に、堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」の出来栄えは素晴らしく、90近くの訳注を頼りにすれば、本作品に何とか斬り込みをかけることができるかもしれないと、儚いながらも期待を持たせます。

 たとえば、映画の冒頭近くで、ハイファ(イスラエル北部の都市)出身のレベッカという女性が、「私はいかなる民族も好きではない。フランス人も、北米人も、ドイツ人も、ユダヤ人も黒人も」とオフで話します(P.13)。
 訳注6によれば、これはユダヤ人政治学者ハンナ・アーレントの書簡にある言葉。なぜユダヤ人がユダヤ人を嫌うのか理解し難いところ、ユダヤ神秘主義のショーレムが彼女の『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房)〔ユダヤ人狩りに協力したユダヤ人の存在を明らかにしました〕を批判したことに対する応酬とのこと。
 そういう注釈があれば、レベッカによるオフの台詞、「誰もが、上が存在しないように振る舞うことができる。だが、今や、悪い奴らが真剣だ」(P.14)とか、「(英語で)生きるべきか死ぬべきか、(フランス語で)ユダヤ人として。ええ、そう言われました。両親に。でもそれで?言葉だけでは決して十分ではない」(P.16)とかの声が間を置いて映画から流れるのですが、全然分からないわけではない感じがしてきます。

(6)映像と音響
 とはいえ、ゴダールの作品に関しては、十分なシナリオがあればそれだけで済むというわけのものではなさそうです。
 昨年末に刊行された平倉圭著『ゴダール的方法』(インスクリプト)では、この映画冒頭の15分間の映像と音響について、次のように述べられています(一部省略してあります)。
 「海面。波がスクリーンを覆う。風の激しいノイズ。船上の霧。断片的な会話。スクリーンに向かって踊る人々の背。群れをなす魚。「会話」する猫たち。戦闘機の墜落。話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」(P.8)。



 上記の「シナリオ採録」では、当然のことながら、会話の部分は採録されているものの、映像や音響については十分には触れられていません。しかしながら、一般には、映像(さらには音響)こそがゴダール作品の要とされているようです。
 とすると、冒頭のこの様々の映像も何かを訴えているのかもしれません(注2)。
 例えば、「話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」映像は、実際のところは、“フランスのジェ-ムズ・ボンド”といわれるマルビエ(本人が出演)とコンスタンスが話しているレストランの窓ガラスに、“白いワンピース姿”のアリッサ(スペイン内戦で失われた黄金の謎の鍵を握る人物・ゴールドベルグの孫娘)がぶつかります。この映画の第1章とされる部分で中心的な役割を果たす人物が3人も登場するのですから、きっと重要なシーンなのでしょう。 



 ですが、クマネズミの歩みは、そこでハタと止まってしまいます。

(7)「かろブッチ」さんのレビュー
 ところで、「かろブッチ」さんのブログ「かろうじてインターネット」においては、本作品について、次のように結論的に述べられています(注3)。
 「ゴダールは、21世紀に誕生したデジタルの自由な映画概念が古い映画の概念を葬りさる様を、民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこととリンクさせて描こうとしたのではないだろうかと感じたそれが「YouTube時代」におけるゴダールの「映画」における回答なのではないだろうかと考える」。
 こうした「ゴダールが表現していきたいもの」を映画から抽出する際の「かろブッチ」さんの手際は誠に素晴らしく、得られたテーゼには十分に説得力があると思います。

 ただ、ゴダールは、言葉に回収されてしまうようなテーゼ(「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」)を伝えるべく映画を作成したのだろうかという疑問も、同時に湧き起こってきます。このテーゼが正しいとしても、それは主にシナリオレベル(映画の中で話される言葉や字幕)から得られるもの(注4)であって、映像それ自体から得られるものとは何か異なるのではないか、とも思えてきます。
 それに、「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」自体は、昔から民主主義が抱える自己矛盾として随分議論されてきたテーマですから(注5)、いまさらゴダールがどうしてそんなことを訴えるのかな、という気にもなります。いったいゴダールは、そうしたテーゼに今時点で何を新たに付け加えようとするのでしょうか?そのためには、こうした映画内容が最適な伝達手段となるのでしょうか?

(8)クマネズミの見立て
 しかしながら、こんなことを申し上げるだけでは、「かろブッチ」さんがなされた事柄に対して単に難癖を付けただけにすぎないでしょう。
 そこで、誠にいい加減でお恥ずかしい限りですが、クマネズミの見立てを申し上げることと致しましょう(注6)。

 本来ならば、上記(5)に引っ掛けて、ゴダールはこの映画で「ユダヤ人問題」を様々に取り上げたかったのだと言いたいところです(注7)。
 なにより、この映画の第3楽章「われら人類」では、たとえば、「強制収容所で痩せこけた死体を引きずっている映像と、その上に「ユダヤ人」「ムスリム」の文字」という場面があるのです。
 というのも、「シナリオ採録」の訳注によれば、強制収容所で、最も衰弱した者が、隠語で「ムスリム」と名付けられていたことに、ゴダールは1970年代から注目してきたとのことですから(注8)。
 とはいえ、ゴダールが本作品で「ユダヤ人問題」を取り上げていると言ってみても、何をどのように料理して何を言いたいのか、皆目見当がつきませんから、ほとんど意味がないでしょう。

 ここは大人しく、フェリーニ監督の『そして船は行く』(1980年)ではありませんが、陸地で囲われ閉ざされた感じのする地中海(黒海も含めた)の中を、さらに船という密閉された容器でもって辿る(エジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナを)ことによって、民族間の激しい争いを描きつつも、それらの間でのコミュニケーションをなんとか図ろうとする試み、とでも言わざるを得ないのかな、と思っています。



 でも、仮にそうだとしても、ゴールドベルグが関与するという黄金強奪事件の位置づけはどうするのかとか、第2楽章の意味がどこにあるのか分からないではないか、といった様々の問題が噴出してしまうでしょう。
 マア仕方ありません、何か提示するとしたらそんなことしか思いつかないのですから!

 それに元々、こうしていくら言葉を並べ立てても、ゴダールの影のホンの僅かな部分でさえも踏むことが出来ない感じがしてくるのです。

(9)更に先へ
 この先に歩を進めるための一つの光明は、上記に引用した平倉氏による『ゴダール的方法』に見出せるかも知れません。
 何しろその著書において平倉氏は、「ゴダールの映画それじたいを分析の方法とすること」、すなわち、「音と映像によって音と映像を試行する方法」、「ゴダールの方法でゴダールを分析すること」をやってみようというのですから(P.12)。
 そうであれば、平倉氏の著作に取り組むに如くはありません。



 といっても平倉氏は、冒頭のこの様々の映像をばらばらに解して、一つずつ言葉を使って解明するのではありません。むしろ、「そこには即座には言語化できない連鎖の系がある。ばらばらなものたちは、持続する緊張のなかで不確かなまとまりを作り出している」のであり、そうした「脱結合と結合の操作のうちに、ゴダールの「思考」がある」のであって、「その「思考」の論理をつかまえること。それが本書の課題である」としています(P.8)。
 さあそうであれば前に進みましょう。
 しかしながら、その後は申し訳ありませんが、平倉氏の著書を読んで十分に咀嚼できた上でとさせてください(注9)。

 ただ、平倉氏も、最終的にはやはり言葉を使っているようなのです(その結果が、310ページを超える分厚い著書に結実しています!)。
 としたら、ここは更に更にもう一歩進んで、ゴダールの映像は、何らかの映像を使うことによってしか分析したり語ることはできないのではないか(それを「分析」とか「語る」といえるかどうかも疑問ですが)、と言ってみたらどうかという気にもなってきます。
 でもそんな大それたことは、言うのは簡単ですが、実際にどうやればいいのか途方に暮れてしまうところですが(あるいは、別の映画作品を制作して、ゴダールの作品にぶつけてみるということなのでしょうか?)。

(10)評論家・蓮見重彦氏は、本作品について、次のように述べています。
 「驚くべきは、この作品にみなぎっている不気味なまでの若さだ。HDカムで撮影された映像と音響はかつてない鮮度で神経を刺激し、地中海のうねりは海神ポセ イドンの怒りを、耳を聾する風音は風神アネモイの吐息を、男女の表情はロゴス=真理を直裁に画面に招き入れる。そんな瞬間を映画で体験したこともなかったので、誰もが映画生成の瞬間に立ち会っているかのように興奮するしかない」。
 「その主題は何か。ヨーロッパである。ギリシャ以来の文明をはぐくんできた地中海、といってもよい。あるいは、それなくしては西欧が成立しがたい「傲慢さ」だといえるかも知れない」。
 「傲慢さを批判できるのは自分だけだといっているかのようなゴダールは、傲慢な映画作家なのだろうか。それとも、語の純粋な意味での自由闊達な個人なのだろうか」。

 また、中条省平氏も、次のように述べています。
 「かつてのゴダールならば、どこかに完璧な陶酔を誘うイメージを挿入し、「映画」の喜びを感じさせたものだが、ここにはそうした配慮はもはやない。世界の危機的な現状が完結した映像美による自己満足をゆるさないのだろう」。

 さらに、本文でも引用した「シナリオ採録」の作成者・堀潤之氏は、次のように述べています(注10)。
 本作品は、「『映画史』以降のゴダールの作品で、まぎれもなく最も力強く、ラディカルで、密度の濃い作品である」。
 「「フィルム」によって「社会主義」を振り返る、あるいは来るべき「社会主義」を展望すること。「フィルム」によって「社会主義」と表裏一体の「資本主義」を撃つこと。あるいは、この「フィルム」こそが「社会主義」そのものにほかならないと強弁すること」。
 「1990年代以降の作品に色濃く漂っていたメランコリーをすっかり払拭したかにみえる本作は、その兇暴さを孕んだ若々しい苛立ちによって、間違いなく新境地を切り開いている」。




(注1)本文の(6)及び(9)で取り上げた平倉圭著『ゴダール的方法』の用語を使えば、「失認」の割合が90%以上ということになるのでしょうか!
 なお、同書によれば、「認知限界と想起の不確実性のために、私たちの映画経験にはたえず不確定性がつきまとう。知覚され、想起された映画は、実際の映画とは決して一致しない」とのことです(P.14)。

(注2)本作品の予告編は、なんと本編を高速で回して4分間に圧縮したものです。そこで、YouTubeで見ることのできるものを一時停止をかけながら見ていくと、なんとか映像の流れくらいは把握することができます!

(注3)「かろうじてインターネット」の当該記事においては、「映像の羅列による結論をゴダールは提示してくれない。「映画はきちんと終わる」という概念すら、これで破壊されてしまう」とされながらも、そのことが逆に、「かろブッチ」さんが導かれた結論的なテーゼを補強するかのような構成になっているように思われます。

(注4)言うまでもありませんが、「かろブッチ」さんが映像分析を行っていないわけではありません。ただそこでは、個々の映像を言葉を用いて読解されているのであって、平倉氏の様に、映像をひとまとめにしてその「連鎖の系」を探るといったことまで行われているわけではありません。

(注5)モット言えば、本来的に民主主義と自由主義とは別物である、という点はサテ置くとしても、民主政の原点とされるアテナイにおいては、僭主政が非常に恐れられていたわけですが、長谷川三千子氏の『民主主義とは何なのか』(文春新書)によれば、それは両者が本質的に近いが故であって、近代においては、僭主が「あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現してきたのではなかったか?」と同書において述べられているところです(P.89)。

(注6)『トスカーナの贋作』についての記事の(1)で申し上げたのと同様に、内容はともかく何であれ、この映画が作り出すゲーム空間に参加してみようとの意気込みによるだけに過ぎません。内容的には別段これでオシマイにする必要はなく、この映画のDVDを見たり、様々のレビューを読んだりして、書き換えるなり膨らますなりしていけばいいのでは、と思っています。

(注7)『ゴダール革命』(筑摩書房、2005年)を著わしている蓮見重彦氏も、「どうやらゴダールは、自分はユダヤ人でないけれども同時にユダヤ人でありたいという驚くべき夢、同時に二つのものでありたいという夢を持っているのです。自分はユダヤ人ではない、しかし私は同時にユダヤ人であり、ユダヤ以上にユダヤ人的であるということを、ゴダールがこの21世紀に入った二本〔『愛の世紀』と『アワーミュージック』〕ではっきりと示しているのです」などと語っているくらいなのですから。

(注8)この意味の「ムスリム」(der Muselmann)については、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンも、『アウシュヴィッツの残りのもの』(上村忠男訳:月曜社、2001年)の第2章において注目しているところです。

(注9)とはいえ、冒頭の章から、たとえば、ドゥルーズは出てくるは(「本書は特に、現在に至るまで決定的な影響力を持ち続けているジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』のゴダール論を繰り返し批判の訴状に乗せる」P.20)、ヒューム(『人間本性論』)への言及はあるはで、早くも挫折気味なのですが。
 それはともあれ、本書の序章の「2方法」で記載されている具体的な分析方法のうちの「(1)映画を(擬似的に構成された)「編集台」で分析すること」に従えば、とにかく『ゴダール・ソシアリズム』のDVDが販売されなければ話にならないようです。

(注10)同氏作成のブログ「les signes parmi nous」には、「『ゴダール・ソシアリズム』関連資料」という実に興味深い記事が5回にわたって連載されていたり、また「覚書」の連載も始められたりしています。



★★★☆☆


トゥルー・グリット

2011年04月02日 | 洋画(11年)
 『トゥルー・グリット』をTOHOシネマズ六本木で見てきました。

(1)ことさらな西部劇ファンでもなく、またコーエン兄弟の作品に通じているわけでもないため、本作品についての事前の情報など何もなしに、ただ『ヒア アフター』のマット・デイモンが出演しているというので映画館に行ってみたところ、案に相違してなかなか良い出来栄えの映画でした。

 一つには、父親の仇・チェイニージョシュ・ブローリン)を追って、主人公らの一行がインデアン居留区の森の中に分け入っていくのですが、つい最近見たタイ映画『ブンミおじさんの森』で描き出される親密性の濃い森とどうしても比べてみたくなってしまいます。
 タイ映画の森では、様々の精霊が入り乱れ、過去も現在も未来も混在しているようで、人間が生まれ出てくるところであると同時に、帰るべきところにもなっています。まさに、現在生きている人々と一体になっているファンタジー豊かな場所といえるでしょう。
 ところが、本作品の場合には、父親の仇を追う14歳の少女マティヘイリー・スタインフェルド)、彼女が雇った保安官コグバーンジェフ・ブリッジス)、それに別途の理由でチェイニーを追うラビーフマット・デイモン)が、森に分け入っていくと、すぐに高い樹木に吊るされた男の死体に遭遇しますし、住民のインディアンとかクマの毛皮を被った怪しげな歯科医にも出会います。なにより、チェイニーを匿っている悪党ネッド達が巣食っているのです。
 本作品の森は、決して人間が本来的に居着くようなファンタジー溢れる場所ではなさそうです。
 それに、時期が冬なのでしょう、木々の緑は少なく、時折降雪も見られ、とても『ブンミおじさんの森』のように、王女が池でナマズと契るといった雰囲気ではありません!
 とはいえ、無数の星が散りばめられている夜空を森の外に広がる草原の上に見かけると、精霊が飛び交ってもおかしくないのでは、とも思えてきますが。

 こうした光景に対するのが、仇のチェイニーを追う少女マティが出発点とした西部の町・フォートスミスの有様でしょう。随分と賑わっている西部の町という感じですが、映画では、特に司法に関する場面が2つ描かれます。
 一つは公開処刑であり、その際、3人の死刑囚のうち2人は最後の言葉を許されるものの、最後のインディアンの死刑囚は、問答無用に吊るされてしまいます。
 もう一つは、裁判所です。丁度、保安官コグバーンが証人として証言をしている最中ながら、奥の方には陪審員席に陪審員たちが座っている光景が映し出されます。
 こんな光景がアメリカの原点なのかなという気にさせられます。

 こうした森と町とを背景にして少女マティらの一行3人がチェイニーを追跡します。



 マア西部劇のお定まりとはいえ、なかなか緊迫感のあるいいシーンを見ることが出来ます。
 山場となるのは3つの場面でしょう。

 一つは、テキサス・レンジャーのラビーフが悪党ネッドら4人組と対峙する場面。とはいえマット・デイモンは、相手の投げ縄に捕まってしまい窮地に陥りますが、山の上から様子をうかがっていた保安官コグバーンの銃撃によって助かります。
 もう一つは、保安官コグバーンが悪党4人組と対峙する場面。悪党ネッドの銃撃で倒れた馬の下敷きになって、ジェフ・ブリッグスはあわやとなるものの、今度は山の上にいたラビーフのカービン銃によって悪党ネッドは倒されます。
 二つの場面の間に、川に水を汲みに来たマティがチェイニーと出くわすシーンがあります。マティはチェイニーを銃で撃つも、かすり傷を負わせただけ。逆に、そばにいた4人の悪党らに捕えられてしまいます。

 こうして見ると、映画の山場はいずれも、中心的な登場人物が一人ずつ多数と対峙する場面になっているように思われます。
 更に言えば、多勢に無勢の窮地を救いだす者が毎回山の上にいるという設定も、面白いと思われます。3番目の例では、捕まったマティを救うために、コグバーンは向い側の山の上に遠ざかりますが、その間に、ラビーフは、密かに悪党らのいる山を背後から登り、チェイニーに殺されかけたマティを救いだすのです!

 なお、マット・デイモンの存在も面白いなと思いました。『インビクタス』でもそうですが、どうも彼の役柄は、その人柄を反映しているためなのでしょうか、真っ直ぐなものになりがちです。ですが、今回の作品の場合、チェイニーを追うテキサス・レンジャーながら、その話す内容は大袈裟すぎてコグバーンに信用してもらえず、また悪党ネッドらの仕打ちで舌を損傷していながらも喋りまくる様はユーモラスな感じを与えます。でも、最後には、危ぶまれた銃の腕前をいかんなく発揮して、持ち前の真っ直ぐさを観客に印象付けるのですが。




(2)そして、ジェフ・ブリッジスです。



 本作を観る前に、彼がアカデミー賞主演男優賞を獲得した『クレイジー・ハート』のDVDをたまたま見たのですが、今回の作品と何となく類似するものを感じました(その前には、評判が芳しくない『ヤギと男と男と壁と』を見ましたが、これは異色過ぎます)。

 なにより、酒浸りの様がカントリー・ミュージシャンのバッド・ブレイクと保安官コグバーンとで共通しています。もちろん、現在61歳のブリッジスが演じるのですから、両者とも年格好はほぼ同じくらいでしょう(バッド・ブレイクは57歳の設定)。

 そして、バッド・ブレイクは、地方新聞の記者のジーン(マギー・ジレンホール)を愛するようになるところ、保安官コグバーンも、毒蛇に噛まれたマティを必死になって助けようとします。

 結局のところ、バッド・ブレイクもジーンと別れざるをえなくなり、またコグバーンも、家に戻るマティと別れます。マティが25年ぶりにコグバーンから手紙をもらって、その所属する「ワイルド・ウエスト・ショー」を訪ねて行った時には、彼の死に目に会えませんでした。

 言うまでもありませんが、バッド・ブレイクは最近のミュージシャンですし、コグバーンは19世紀末の保安官ですから、時代設定や職業などいろいろ違っています。
 でも、時期をおかず出演した二つの映画でこうも類似するところがあるというのも、大層興味深いことだなと思います。

(3)1点くらいは問題点を挙げてみたいと思います。
 クマネズミは、映画のラストはあまり評価いたしません。
 ハリウッド映画の特色の一つなのでしょうが、登場人物のその後を必要以上に描き出してしまうのです(この点については、『わたしの可愛い人』についての記事(2)でも触れたところです)。
 本作品も、毒蛇に噛まれたマティをコグバーンが救えるかどうか、人の住む小屋の明かりを見つけたところでThe Endとし、あとは余韻に任せれば十分なのではないでしょうか?
 ところが、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・瀬戸川宗太氏のエッセイには、「本国アメリカで新作『トゥルー・グリット』が前作と比べ、極めて評判がよいのは、演出の巧みさもさることながら、原作により近いからである」とあります。
 ですが、前作とされる『勇気ある追跡』(1969年)によって、主演のジョン・ウェインはアカデミー賞主演男優賞を獲得したわけですし、なにより瀬戸川氏はエッセイの冒頭で、「ハリウッド製西部劇ファンの圧倒的人気を博した」とも記していて、実際のところがどうなのかよくわかりません。
 マアそれはさておき、同氏が、前作のラストでは「ジョン・ウェイン扮するコグバーンは元気はつらつで、マティ・ロス役のクム・ダービーも右手を包帯で吊っている程度である」と述べているので、DVDを見てみますと、確かにその通りです。



 これに対して、本映画のラストでは「大人に成長したマティが姿を見せるが、この描写は原作の叙述に従ったもの」であり、「物語を原作のトーンで首尾一貫させるためには、このくだりを避けて通ることはできない」と同氏は述べています。
 ですが、主役が保安官コグバーンである本作品について、主人公がマティである「原作のトーンで首尾一貫させる」とはどのような意味合いなのでしょうか?
 映画は映画として制作されるはずのものであって、たとえ原作に基づく作品であろうとも、必要な改変であればどんなことも許されるのではないかと思われます。
 要すれば、ジョン・ウェインの前作にしても、ジェフ・ブリッジスの本作にしても、同じ土俵の上にあって、原作とは無関係に映画の出来栄えとして比較すべきでしょう(注)。
 ソウした観点から、クマネズミは、ラストシーンに関しては前作を支持したい(もっと言えば、前作のラストの前あたりでジ・エンドとするのであれば)と思います。


(注)誠につまらない点で恐縮ですが、ジョン・ウェインは左目にアイパッチを付けているところ、ジェフ・ブリッジスは右目です(髭の有無も目立ちますが!)。



 この点について、ジェフ・ブリッジスは、「Film.com」のインタービュー記事において、どっちがgoodなのかフィーリングで決めただけのこと、と述べています。
 ただし、この記事に拠れば、原作ではアイパッチのことは何も触れられてはいないそうです!


(4)映画評論家の評判は、総じてよさそうです。
 渡まち子氏は、「決して華やかな作品ではない。だが、神話的ともいえる旅を繰り広げ、自らの手で正義をもぎとる少女マティの強い心が見るものの胸を打つ秀作だ。淡々とした後日談が泣かせるもので、本作が復讐劇やロードムービーであるだけでなく、奇妙な友情の物語だったことが分かる」として80点をつけています。
 福本次郎氏は、「少女を演じたヘイリー・スタインフェルドの圧倒的な存在感が、むさくるしいオッサンばかりの西部劇の世界に凛とした美しさをもたらして」おり、映画は、「結局、純粋に「正義」を執行できるのは自分や自分の身内が理不尽な目にあった者の復讐心だけという、正義の本質を見事についていた」として80点もの高得点を与えています。
 中野豊氏も、「キャスト・スタッフ・製作陣の三役揃い踏みの、今年観ておきたいウェスタン映画の逸品です」として85点をつけています。





★★★★☆




象のロケット:トゥルー・グリット