映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

悲しみのミルク

2011年04月20日 | 洋画(11年)
 『悲しみのミルク』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)ブラジルにいたときにインカ帝国の遺跡を見に行ったこともあり、ペルー映画が上映されると聞きこんで、早速映画館に行ってきました。
 当時は、リマの日本大使公邸占拠事件(1996年)の起こる前で、治安もそんなに悪くはなく、リマで雇ったガイドと一緒に列車に乗って、マチュピチュの遺跡なども簡単に見に行けました。
 その後、ペルーの各地に極左組織センデロ・ルミノソが浸透し、その支配地域では、カンボジアのポルポト派並みの酷いことが行われたとされています。
 この映画は、そうした背景を知ればよく理解できるところが多いでしょう。とはいえ、決してリアルな歴史・社会物ではなく、むしろファンタジーと言ったほうがいいかもしれません。

 いきなり死に瀕した母親とその娘が登場し、母親は、現地語のケチュア語で、自分が被った酷いレイプの有様を小さな声で歌いながら話します。



 母親は死んでしまうのですが、娘ファウスタは、その亡骸を、現在暮らしているリマ郊外の貧民窟ではなく、出身村まで運んで埋葬しようとします。ですが、それには多額の費用がかかるため、ファウスタは裕福な家の家政婦を務めることでお金を貯めようとします。この映画は、ラスト近くになってようやく母親の亡骸を故郷の村に向けて運び出すことができるまでの出来事を描き出したものと言えましょう。

 映画からうかがえる興味深い点をいくつか挙げてみましょう。
イ)娘のファウスタは、大変な怖がり屋で、他人(特に男性)とうまくコミュニケートすることができません。また街中を一人で歩けず、歩くとしても必ず塀のそばを沿って歩きます。
 そうしないと悪霊にやられてしまうからというのですが、自分自身も、そしてその家で暮らしている叔父たちも皆、これは「恐乳病」に罹っているからだといいます(この映画の原題「La Teta Asustada」もそこからとられているようです)。
 要するに、極左組織によってレイプされるという大変な恐怖を味わった母親から、その強い恐怖心が母乳を通じて娘にも伝わってしまった、というわけでしょう。

ロ)レイプから逃れるために、ファウスタは、自分の性器の中にあろうことかジャガイモを入れているのです。そんなことをしたら子宮を痛めてしまうと医者は言うのですが、彼女は出そうとはせず、逆にジャガイモが育って芽を出すようにもなるのです(芽が伸び過ぎると、ファウスタはハサミを使ってその先を切り落とします!)!
 ただ、ラストで、ファウスタと一緒に働いていた庭師から、鉢植えの花の咲いたジャガイモが、田舎に戻った彼女の元に届けられます。家政婦として務めていた家を出て村に戻ろうとする彼女を、その庭師が実に優しく扱ったことから、彼女の硬い心もほぐれて、性器にジャガイモを入れる必要が最早なくなったことを表しているのでしょう(あるいは、そのジャガイモは、彼女が抱え込んでいた物なのかもしれません)。

ハ)母親は、映画の冒頭で亡くなりますが、それから一月あまりもベッドの下に置いておかれます。それはまるでインカのミイラ然としているものの、きちんとした作業抜きで単に遺体に油を塗っているだけですから、常識的にはあり得ない状態が続いているわけです。
 なお、ファウスタたちのいるリマ郊外はパチャカマとされていますが、そうであればそのスグソバにはプレインカの太陽の神殿とか月の神殿などの遺跡があり、また近くの砂漠の中には沢山のミイラが無造作に埋められているのを見ることが出来ます。

ニ)ファウスタは、何か作業をしている時などは、いつも小声で母親のようにケチュア語の歌を歌っていますが、西洋音楽とは異なる音階によるもので、大層興味深いものがあります。
 ただ、なかには聞いてメロディを掴みやすい歌もあり(スペイン語でもあります)、それをファウスタが働いている家の女主人が聞きつけて、西洋音楽風にアレンジして音楽会で発表し喝采を受けます。
 ですが、それは盗作行為であり、強い後ろめたさがあるためでしょう、約束の真珠を与えることなく、女主人はいきなり彼女を放り出してしまいます。しかしながら、ファウスタにとっては、母親の亡骸を村に戻すために是非とも必要な物です。彼女は、密かに忍び込んで真珠をつかんでその家を飛び出そうとしたところで意識を失ってしまいますが、そのとき優しく介抱してくれたのが庭師というわけです。

ホ)その女主人は、スペイン系の裕福な白人で、ペルーの支配階級に所属している一方、そこで家政婦として働くファウスタは先住のアンデス系で、社会の底辺をうごめいている人々に属しています
 なお、南米のスペイン系の国々では、侵略してきたスペイン人と現地人との融合は余り進みませんでしたが、逆にブラジルには純粋のポルトガル人は殆どおりません。
 また、アンデス系先住民(以前はインディオ〔あるいはインジオ〕と言われていましたが、最近では差別的用語だとして使われてはいないようです)は、蒙古斑をもっていて東アジアの民族に近いとされますが、この映画の主役を演じるマガリ・ソリエルを見ても、あまりそんな感じがしません。



ヘ)そうしたアンデス系の住民たちの結婚式の様子が何度か映画で描き出されます。その際には、まるでリオのカーニバルのような賑やかさとなります
 ただ、リオの場合は、そのための衣装代を1年間かけて蓄えますが、こちらでは一生一度のことゆえ、裾の随分と長い花嫁衣装などが登場するは、家族総出の記念写真を撮るは、大宴会が催されるはで、観ている方はその大騒ぎぶりに圧倒されます。

ト)そう思ってみると、この映画には随分と階段状のものが映し出されることに気がつきます。
 なにしろ、リマの市内から、ファウスタ達の暮らす貧民窟に行くには、随分と長い階段を上っていかなくてはなりません。



 その貧民窟の背景をなす山肌にも、様々な家が段をなして立ち並んでいます。
 また、そこでの結婚式では、新郎新婦は、10段くらいの階段のついた台の上に立たなくてはなりません。



 ここから連想されるのは、インカの遺跡です。たとえば、マチュピチュの遺跡。随分と高い石山の上に設けられていて、そこを見学するためには、大変な階段を経る必要があります(実際には、入口まで観光バス用の道路が作られていますが)。
 また、オリャンタイタンボの砦遺跡も、急な斜面に階段状に造られたものです。




 どんどんとりとめもない内容になっていきますが、映画を見ながらいろいろなことを考えたりするのもまた楽しいものですし、ソウしたことに誘うのも、映画自体が優れているからだ、と言えるのではないでしょうか?

(2)本作品は、日本でこれまであまり紹介されたことのない国の映画という点で、先日見たタイ映画『ブンミおじさんの森』と比べることができるでしょう。
 ただ、両者ともファンタジー的な要素を沢山持っているのですが、受ける印象は余りにも違います。
 一番大きな違いは、『ブンミおじさんの森』で描かれる自然は、人間と大層親和的です。そこには様々の霊がうごめいていて、さらには過去から未来の出来事までも詰まっているようなのです。ブンミおじさんも、自分の死を悟ると、近親者を従えて、その森の奥にある洞窟まで入り込んで死にます。死ぬ前には、以前に亡くなってしまった妻の霊も、その時のままの姿で現れたりします。
 他方、本作品で描かれる自然は余りにも荒涼としていて、逃げ出したいくらいのものです。なにしろ、広大な砂漠が広がり、背後の山には緑がほとんど見受けません。ですが、そういう酷く荒れた自然の中に、随分とたくさんの現地人たちが暮らしていて、その活気に満ちた喧騒は、逆にまた魅力的でもあります。

(3)福本次郎氏は、「暴力の時代はとっくに終わった。それでも消えない殺戮とレイプの記憶。彼女自身に起こったのではないが、繰り返し母に聞かされているうちにわが身の出来事のように刷り込まれている。映画はそんな娘の姿を通じ、ペルーの人々が抱える内戦の傷跡といまだに残る先住民と白人の格差をさまざまメタファーで描く」として60点を与えています。
 また、村山匡一郎氏は、「生と死、富裕と貧困、白人系と先住民系の対比が鮮やかに象徴され」、「ペルー社会の相克を体現する主人公を通して、未来の希望を土着的な視点を交えて巧みに描き出している」と述べています。




★★★★☆